2012/01/29 (Sun) 21:30

八正道を心がけない場合のデメリット

前々回前回と八正道について書いてきましたが、それでもやっぱり八正道は単なる道徳だとか規則だとかうるさいルールだとかにしか思えない方もいらっしゃるかと思います。そこで今回は、八正道を心がけていないとどういうデメリットが発生するかについて、分かりやすい具体例を挙げてみます。例によって分かりやすく平たく書きます。

・正見 正しく見ること。
偏見・先入観などなしにあるがままを見ること。これを心がけていないと、例えば誰かに初めて会ったとして、その第一印象だけでその人を判断してしまったりします。たまたまそのときは何か悩みとかあって、暗い愚痴とかを言っていたとしても、普段はそういう人ではないかもしれないのに、こういう人だと決め付けてしまったりします。

・正思 正しく考えること。
感情や思い込みに振り回されず、論理を捻じ曲げたり飛躍させたりすることなく、論理的に考えること。これを心がけていないと、先ず結論ありきで、結論を導くために論理を捻じ曲げたり、自分を正当化するために理屈をこねるとかしてしまったりします。

・正語 正しい言葉。
嘘をつかないこと、人が傷つく言葉、不快になる言葉を言わないこと。これを心がけていないと、人から批判されたときについ嘘をついてしまったり、怒りにまかせて、または調子に乗って言わなくても良い、人を傷つける言葉を言ってしまったりします。

・正業 正しい行い。
他を害する行動をしない、益する行動をとる。これを心がけていないと、つい人の迷惑になるようなことをしてしまったりします。

・正命 正しい生活。
自分を害する行動をしない、益する行動をとる。これを心がけていないと、ついタバコを吸いすぎたり、甘いものを食べ過ぎてしまったり、暴飲暴食をしてしまったりします。

・正精進 正しい努力。
これを心がけていないと、休息ではなく怠けたり、努力ではなく無理をしたり、行き当たりばったりで意味なくもがくことになったりします。

・正念 正しい気づき。
注意力と言っても良いかも知れません。これを心がけていないと注意力散漫になったり、あるいは無理な集中をして疲れてしまったりします。

・正定 正しい心の安定。
これを心がけていないと、感情に振り回されるだけになってしまったりします。

上に挙げたのは分かりやすい一例に過ぎません。実際にはもっとたくさんのデメリットがあるでしょう。八正道が単なる道徳だとか規則だとかうるさいルールだとかではなく、実生活でも必要な心がけだとご理解いただけたと思います。

次回は、八正道をどのように実践したら良いのかという個人的な見解を書きます。

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2012/01/25 (Wed) 17:00

八正道が必要十分でない例(正しく聴く)

前回八正道は必要十分か?で、八正道は苦を滅する道、現代風に言えば自他ともに幸福になるための方法として、思想や信条や価値観が違っていても多くの人にとって非常に有効な方法・ガイドブック・心がけであり、王道だということを書きました。今回は八正道が必要十分でない例を挙げてみます。

先ず八正道を平たく復習です。
・正見 正しく見ること。
・正思 正しく考えること。
・正語 正しい言葉。
・正業 正しい行い。
・正命 正しい生活。
・正精進 正しい努力。
・正念 正しい気づき。
・正定 正しい心の安定。

必要でない項目を挙げるのは難しいのですが、分類法によっては、正語と正業を一緒にすることも可能です。言動を行動を一緒にする分類法です。あるいは正業と正命を一緒にすることも可能でしょう。他に対する行動と自分に対する行動を一緒にする分類法です。

あるいは単なる分類法ではなく、本当に人によっては必要ないかもしれない項目を挙げてみます。例えば正精進です。努力することは当たり前だと思っていて、しかも無理をせず何でも計画的にやっている人にとっては今更釈迦に説法です。正語についても不要な人もいるでしょう。嘘などつかないし、いつも丁寧な言葉を使っている人にとっては、特に心がける必要もないでしょう。

十分でない項目は挙げることができます。例えば今回のメインテーマである、人の話を正しく聴く事です。ただしこれも分類法によると言えるかもしれません。広い意味では正見に含まれるかもしれませんが、それでもやはり独立した項目とした方が理解しやすいでしょう。

人の話を正しく聴く事は、自他ともに幸福になるために重要です。話を聴いてあげるだけで話している人が安心する場合もありますし、自分自身のためになる場合も多々あります。何よりも相互理解のために重要です。人によってはこれも不要でしょうが、人によってはよくよく心がける必要があります。人の話を聴くというのは、用語を作るとすれば、正聞または正聴と言えるでしょう。また正語とセットになっているという見方もできます。

人の話を正しく聴くというのは、先ず時間的に聞くことから始まります。自分一人一方的に話をしていないかという事に先ず気をつける必要があります。次に相手の本当に言いたいことを理解する必要があります。それについて同意するしない以前に、この人はこういう事を言いたいんだ、という事を理解して受け入れる必要があります。揚げ足を取ったり、あるいは自分の価値観に合わないからと言っていい加減に聞くとかではなく、真意を汲み取ろうとする事が大切です。同意するしないは次の段階です。次の段階では、同意しないなら「あなたのおっしゃる事は分かりました。私の考えはこうです。」とか、あるいは同意なら同意のサインを出すとか、あるいはうなづくだけで同意も反対もしないとか、ケースバイケースでいくつかに分かれます。ここで大事なのはちゃんと聴いているというサインを出すことだと、個人的には思います。同意なのにそのサインを出さない人もいますが、そうなると話している人は伝わったのか伝わらなかったのが分からず不安になってきます。これほど正しく聴くということは大切な心がけです。

今回は八正道が必要十分でない例を挙げましたが、それでも八正道は王道であり奥が深いと筆者は考えます。次回は八正道を心がけていない場合、どんなデメリットが発生するのか具体例を挙げてみます。

追記1
ミクシィの方のコメントで、八正道に欠けているものとして、正感謝(ありがたいと感じる、気づく。感謝を伝える)が無いと感じているというコメントをいただきました。非常に納得ですので、追記いたしました。
追記2
同じくミクシィのコメントで、正謝(正しく謝る)というのをいただきました。筆者もとても耳が痛い項目です。

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2012/01/24 (Tue) 17:00

八正道は必要十分か?

筆者は事あるごとに人に八正道を勧めていますが、先日ある人と、八正道は誰にとっても必要か、あるいは八正道で十分だと言えるのか、という話になりました。筆者の個人的な結論から言うと、八正道はルールブックではなく、誰にとっても必要十分とは言えないが、一般論としてガイドブックとしてとても有効な方法であり、王道であると考えています。

先ず八正道は何のためにあるかというと、苦を滅するための道としてあります。現代風に言えば自他ともに幸福になるための方法です。そのために八正道が有効な方法・心がけかどうかを検討してみます。

八正道をもう一度、平たく筆者の言葉で書きます。正しいという言葉が何度も出てきますが、これは事実として正しいという意味と、自他ともに幸福になるための方法として有効という意味の両方があると考えてください。

・正見 正しく見ること。
偏見・先入観などなしにあるがままを見ること。何が正しいかを知るための基本なので当然だと言えるでしょう。

・正思 正しく考えること。
感情や思い込みに振り回されず、論理を捻じ曲げたり飛躍させたりすることなく、論理的に考えること。正見と同様、何が正しいかを知るための基本なので当然だと言えるでしょう。

・正語 正しい言葉。
嘘をつかないこと、人が傷つく言葉、不快になる言葉を言わないこと。嘘をつくと混乱しますし、自分自身も嫌な思いをするので、原則としては当然でしょう。また人が傷つく言葉、不快になる言葉は自他ともに幸福になるという目的に反するので当然でしょう。

・正業 正しい行い。
他を害する行動をしない、益する行動をとる。自他ともに幸福になるという目的からすれば当然でしょう。

・正命 正しい生活。
自分を害する行動をしない、益する行動をとる。自他ともに幸福になるという目的からすれば当然でしょう。

・正精進 正しい努力。
努力しないで幸福が転がり込んでくると考える人もいるようですが、自他ともに幸福になるにはやり努力が必要でしょう。何が正しい努力かは判断が難しいところですが、自他ともに幸福になるという目的を忘れないようにし、正見・正思を適用すればだいたい見当はつくでしょう。ちなみに間違った努力というのも存在します。例えば苦行です。

・正念 正しい気づき。
注意力と言っても良いかも知れません。気づきがなければ何も分からないも同然なので、当然といえるでしょう。

・正定 正しい心の安定。
心が安定していれば自分はある程度幸福ですし、他も幸福にしやすいでしょう。また上記7つを実践しやすくなるでしょう。

こうしてみると、自他ともに幸福になるための一般論・ガイドブックとしては至極もっともだと言えると思います。どのような信条・価値観を持った人にでも通用するでしょう。そして八正道をもっと短い言葉で表現すると智恵と慈愛(仏教用語で言えば智慧と慈悲)、八正道を実践する上で気をつけるべきことがバランス感覚、つまり中道と言えると思います。

筆者はこれを特に「仏教」として勧めている訳ではありません。例えて言えば、健康になりたい人(自他ともに幸福になりたい人)に、運動(八正道)を勧めているようなものです。そして八正道は王道だと思っています。また上記の解説は平易に書きましたが、突き詰めて実践すると大変奥が深いとも感じます。異論は多々あるとは思いますが、筆者のスタンスをご理解いただければ幸いです。

次回は八正道が必要十分ではない例として、人の話を聴くことについて書きます。

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2012/01/09 (Mon) 15:30

説法と説教

説法と説教は似ていますが、意味をよくよく考えてみると、面白い違いがあることが分かります。説法は法(道理)を説くという意味で、説教は教えを説くという意味です。仏教ではお坊さんが説法をすると言いますが、キリスト教では神父さんや牧師さんが説教をすると言います。ちょっと見ると単なる用語の違いのようですが、実は2つの宗教の本質的なものの考え方を非常によく表しています。

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仏教では法(道理)というものは、自分自身によって、体験により理解することが必要だと考えます。従って、自分自身で理解できるように道理を解説し、法を説くのが説法です。

キリスト教では真理とは神が定めたものであり、神のみが知るものであり、人智で知る事はできないと考えます。従って、神の御心のままに従うことが正しいと考え、神の教えである聖書の教えを説くのが説教です。

説法は自分自身で理解することを求め、説教は理屈抜きに従うことを要求します。

もちろんキリスト教でも文字通りの意味での説法をすることはありますし、仏教でも文字通りの意味での説教をすることもあります。しかし原則としてキリスト教は説教であり、仏教は説法なのです。そしてキリスト教ではそれを無条件に信じることが重要だとします。反対に仏教ではそれを自分で確認せずに信じてはいけないということが重要であるとします。良い悪いではなく、仏教とキリスト教ではそういう考え方の違いがあります。

ところで、そういう聖職者ではなく、我々一般人が現実の場で、たとえば子供や後輩などに、説法することと説教することはどちらが良いのででしょうか?それは相手の年齢や理解力などによって異なってきます。相手に道理が通じる場合には説法の方が有効でしょうし、とにかく絶対に正しいという確信がありかつ相手に道理を説いても通じない場合には説教が必要でしょう。しかし通常の場合、正しいという確信があるのに相手に道理が通じないケースはそれほど多くはありません。従って、特別な場合を除き一般的には説法をすべきです。特に相手の年齢が高くなるに従って、説教は控え説法をすべきです。説教はほとんど最後の手段と思ったほうが良いでしょう。むやみに説教するのは、自分自身が解っていない証拠です。

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2011/12/29 (Thu) 19:00

ついて良い嘘、悪い嘘

仏教の八正道の正語をはじめ、ほとんどの宗教で嘘は禁じられています。原則として嘘をつくのはいけない事であるのは自明だと思いますが、では嘘は全て悪いのかというと、そうとも言い切れない部分もあります。今回はついて良い嘘と悪い嘘について考察してみます。

先ず嘘を2つの分類法で分類してみます。1つは自分のための嘘と他人のための嘘です。もう1つは悪意と善意です。

原則として、自分のための嘘はつくべきではありません。しかし他人のための嘘なら許される場合があります。例えば、認知症の介護の現場では、認知症の人があらぬ事を言ったとしても決して否定してはいけないそうです。「芸能人の誰々さんがさっきいたねぇ。今見えないけどどうしたんだい?」と言われたとしたら、「誰々さんなんて元からいなかったよ。」とは決して言ってはいけないそうです。パニックに陥ってしまい、大変なことになるそうです。正しくは「ああ、今さっき帰りましたよ。」などと対応しなければならないそうです。こういう嘘はついて良い嘘、あるいは嘘のうちに入らないでしょう。相手が認知症でなかったとしても、真実を告げることによって受けるショックが大きすぎると思った場合は、嘘が許されるでしょう。ただし、一時的にショックを受けたとしても、真実を言ってあげた方が良い場合もあります。従って他人のためだからといって何でも嘘が許されるわけではないでしょう。嘘をつく場合には智恵が必要になります。また場合にもよりますが、お世辞はやはりついてはいけない嘘の部類に入るでしょう。

次に自分のための嘘ですが、原則として嘘をつくべきではありませんが、相手に悪意がある場合には許される場合があるというのが筆者の考えです。例えば、言いたくないプライバシーについて、興味本位やあるいは弱みを握ろうとして追求してきた場合です。その場合に適当な答えをするのはまあ許されるというのが筆者の考えです。

では嘘がなぜいけないのでしょうか?1つは混乱を招くからです。もう1つより大事な理由は、嘘をつかない人と嘘をつく人を比べてみればよく解ります。嘘をつかない人は誠実な印象、あるいはカラっと明るい印象を人に与えます。嘘をつく人は信用できない印象、あるいはじとじとした後ろ暗い印象を人に与えます。もちろん大雑把な傾向ですが、そういう傾向があることは確かです。それは心の内面が外面に浮き出てきてそういう印象を与えるのです。つまり嘘をつく人は自らの心を汚し、嘘をつかない人は自らの心を清めているのです。

原則として嘘はつくべきではありません。全部本音で言えたらこれほどサッパリして楽な事はないでしょう。しかし現実問題として、上記のように嘘が許される場合もあるというのが筆者の考えです。ただし嘘をつく場合は智恵をフルに使って、正当な理由を見出した時に限るというのが筆者の考えです。迷った場合は何も言わないというのが正しい選択肢である場合も多々あります。参考になれば幸いです。

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