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2008/11/26 (Wed) 20:20

瞑想・慈愛目次

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タグ :  目次

瞑想・慈愛  |  ↑Top

2008/12/24 (Wed) 21:00

汝の敵を愛せよ

キリストの言葉で最も重要なのは、「汝の隣人を愛せよ、汝の敵を愛せよ」でしょう。
全ての人を敵味方無く愛せよ、これ以上重要なキリストの教えは無いでしょう。
でも頭では「その通り、誰でも分け隔てなく愛さねば」と思っても、実際には困難です。
しかしこれを実践できるようになる方法を2つ紹介しておきます。

1つはテーラワーダ仏教の慈悲の瞑想です。
以下のように唱えます。

私が幸せでありますように
私の悩み苦しみがなくなりますように
私の願いごとが叶えられますように
私に悟りの光が現れますように
私が幸せでありますように(3回)

私の親しい人々が幸せでありますように
私の親しい人々の悩み苦しみがなくなりますように
私の親しい人々の願いごとが叶えられますように
私の親しい人々にも悟りの光が現れますように
私の親しい人々が幸せでありますように(3回)

生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように
生きとし生けるものにも悟りの光が現れますように
生きとし生けるものが幸せでありますように(3回)

私の嫌いな人々も幸せでありますように
私の嫌いな人々の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々の願い事が叶えられますように
私の嫌いな人々にも悟りの光が現れますように

私を嫌っている人々も幸せでありますように
私を嫌っている人々の悩み苦しみがなくなりますように
私を嫌っている人々の願い事が叶えられますように
私を嫌っている人々にも悟りの光が現れますように

生きとし生けるものが幸せでありますように(3回)


もう1つはハワイに伝わるホオポノポノです。(公開時点でネット上に詳細情報なしです。)
以下のように唱えます。

ごめんなさい
許してください
ありがとう
愛しています


継続して実践している人達によると、どちらも絶大な効果があるようです。
どうしても愛せない人がいる人は、試してみてはいかがでしょうか。

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2009/01/03 (Sat) 21:00

ニュー・アース

一億一千万四百万年前、一輪の花が咲いた。
それは地上で初めて咲いた花だった。
しかしまだそれは特殊現象に過ぎなかった。
だがある時、植物の進化は決定的な閾値に達し、
地球のありとあらゆるところに、色彩と香りが爆発的に広がり始めた。

人間の覚りとは、人間にとっての開花であり、絶対的な平安の境地であるが、
それは今まで特殊現象に過ぎず、僅かの人しか覚りに至れなかった。
しかし今まさにその閾値を超え、爆発的に広がり始めようとしている。
(エックハルト・トール著「ニュー・アース」冒頭より要約)

今まで覚りに至るには、
自己観察瞑想(観の瞑想、ヴィパッサナー瞑想)がほとんど必須でした。
しかし従来のヴィパッサナー瞑想の方法で覚りに至るのは、
実際には非常に困難であり、僅かの人しか覚りに至れませんでした。
その覚りを一般の人にも大きく開く可能性をもった本が、このニュー・アースです。

覚りに至るには、エゴや記憶との自己同一化をせず、
現在を意識的に生きることであると本書では言っています。

やはり自己観察を基本にしていますが、
エゴと過去の記憶による不幸を観察・理解することによりそれらを手放し、
宇宙全体と繋がった本来の自分である「意識」を発見し苦しみを無くすための、
具体的かつ実践的な手引書です。
単なる知識ではなく、読むことにより自己観察すること自体がワークであり修行となります。

瞑想者にとっても、またそうでない一般の人にとっても、必読の書です。
ミクシィのレビューもたいへん参考になり、ほとんどの人が満足度最高点をつけているので、
ミクシィ会員の方は是非こちらもお読みください。


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2009/01/07 (Wed) 21:00

スピリチュアリティの本質

スピリチュアル、現在この言葉はひどく誤解され、
オカルトの領域にまでなってしまっています。

スピリットとは日本語に訳せば、
純粋な精神とでも言うべきもので、
過去世とか未来とか霊とかオーラとかが見えるとか、
チャネリングができるとか超能力があるとかなどは、
スピリチュアリティが高い、つまり精神の純粋性が高いこととは、
本来何の関係もありません。

そういうことは能力の一部に過ぎず、
勉強ができるとか、容姿が美しいなどと同様に、
必ずしも精神の純粋性を表しているとは限りません。

ではスピリチュアリティが高い、つまり精神の純粋性が高いとはどういうことでしょうか?

それは思い込み・こだわり・執着が無く、
物事(特に自分自身)の本質をあるがままに洞察する智恵を持ち、
全ての生命に対する慈悲の心を持ち、
エゴ、自分が無いことです。

ブッダは教えの基本に「智慧」と「慈悲」を説き、
人は本質的には「無我」であると説きました。

Osho(ラジニーシ)は「瞑想」と「愛」という言葉で表現し、
真の「自由」という言葉で表現しました。

クリシュナムルティは「あるがままを観察して理解する」という言葉と、
「他者との関係性」という言葉を使い、
「自我の終焉」を説きました。

シュリ・シュリ・ラヴィシャンカールは具体的な方法として、
「サーダナ(瞑想と呼吸法の修行)」と「サトサング(賢者と共にあること)」と、
「セヴァ(奉仕)」を説きました。

これらの覚者・賢者たちが共通して言っていることは、
「智恵・瞑想」と「慈悲・愛」と「執着エゴがない・無我」ということです。
言い換えれば人格が高いということです。

そしてもう一つ重要なことは、過去や未来に捕らわれず、
「今この瞬間」を「意識的」に生きるということです。

そのように生きる人が本当にスピリチュアルな人なのです。
そしてそのように生きることが、自分のためにも他人のためにもなり、
そして生きている限り避けることのできない現象的苦しみ、
四苦八苦を超越することにもなるのです。

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2009/01/10 (Sat) 21:00

瞑想学基礎

瞑想とは何か?
あらためて聞かれると返事に困ることが多いと思います。
今回は瞑想とは何かについて基礎的なことを書きます。

瞑想とは日本では古来止観と呼ばれていました。
瞑想は大きく2つに分類できます。

1.止観の止の瞑想(止行、パーリ語でサマタ瞑想またはサマディー瞑想)
 リラックス状態で心を集中して精神統一し、心を安定させる瞑想です。
2.止観の観の瞑想(観行、パーリ語でヴィパッサナー瞑想
 自分自身をありのままに観察して理解し智恵・洞察を得る自己観察瞑想です。

これ以外は本来は瞑想とは呼べません。
例えば祈り、イマジネーション、能力開発、睡眠的リラクゼーション、カタルシス、
エナジーワークなどはそれはそれ自体意味がありますし、
瞑想の予備段階として必要な場合もありますし、
また人間の精神活動はいろいろ並行して行われていますので、
瞑想的要素が含まれている場合もありますしが、
本来の意味での瞑想ではありません。

では止の瞑想(サマタ瞑想)と観の瞑想(ヴィパッサナー瞑想)では、
どちらの方が重要なのでしょうか?

どちらも重要でいわば車の両輪のようなものではありますが、
どちらかといえば観の瞑想(ヴィパッサナー瞑想)の方が重要です。

それは止の瞑想(サマタ瞑想)では瞑想中は心の平安を得たとしても、
瞑想が終わればまた様々な苦しみに振り回される可能性があるのに対し、
観の瞑想(ヴィパッサナー瞑想)は自分自身や物事の本質を洞察するとにより、
体と心を超越して全ての苦しみを超越できるからです。
これがブッダの到達した悟りへの道への結論です。

しかし、心の安定なくして洞察は困難ですので、
止の瞑想(サマタ瞑想)もやはり重要です。

Osho(ラジニーシ)クリシュナムルティは瞑想の本質を簡単に述べています。
「ただありのままに判断せず観察し気づき理解することだ。
 理解することにより苦しみやエゴなど余計なものが自然に落ちるのだ。」
これは観の瞑想(ヴィパッサナー瞑想)の本質を端的に述べたものです。

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2009/01/17 (Sat) 21:00

欲求と欲望

人は欲望があるからこそ生きていけるのだ。
食べたいという欲望があるからこそ、食べ生きていけるのだ。
こういう意見をよく聞きます。

しかし欲求と欲望は分けて考える必要があります。

欲求とは必要なもの、欲望は必要ないものを欲することです。
生きていく上で欲求は必要です。しかし欲望は不要です。

欲望は必要ないものを妄想して欲しがることで、
そしてそれは現在には無いものですから、
現実との対比が起き、苦しみにつながります。
そして妄想は広がっていき、それも苦しみにつながります。

欲求と欲望についてのもう一つの誤った認識は、
悟れば全ての欲がなくなるということです。
食欲を滅したという話はよく聞きますが、
排泄欲を滅したという話は聞いたことがありません。
悟っても欲求はあるのです。(あるはずです。筆者は悟っていませんので。)

生きている限り欲求はなくなることはなく、
また欲求は満たされればそこで一旦終了です。
これは性欲や金銭欲についても言えることです。
欲求は必要なのであり、抑圧すべきではありません。

さらにもう一つ欲望についての誤った認識は、
欲望は無限であるといういうことです。
欲望は有限です。
欲望は想像力の範囲内でしか起きません。
人間の想像力は、可能性としては無限ですし、
限りある物質や時間から見ると無限にも見えますが、
ある個人のある瞬間においては有限です。
従って欲望も有限です。

また欲望も欲求と同様、満たされれば終わる欲望もあるということです。
こういう欲望は、可能であればさっさと満たしてしまえば良いのです。
我慢すればするほど欲望は大きくなります。
(こういう欲望は実は欲望ではなく、
 欲求や、欲求の代償つまりカタルシスであることが多いのですが)


欲望の本質的な問題は、
現在現実には無くまた必要でも無いものを欲することです。
それが自分や他の生命を苦しめます。

とはいえ、欲求と欲望の境界線ははっきりとはしません。
欲望とは何かの欲求の代償であることが多いからです。
本当は必要なものが別にあるのに、代わりのものを欲望するのです。
そして欲求と別の欲望が絡み合い、新たな欲望を生じさせます。

何が欲求で、何が欲望なのか、
つまり何が本当に必要で、何が不要なのか、
何を本当に求めているのか、自己観察が必要です。

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2009/03/18 (Wed) 21:00

ヴィパッサナーで観るもの

以前瞑想学基礎で述べたように、ヴィパッサナー(観の瞑想)は自己観察瞑想ですが、
自分の何を観察するのかという大きな課題についてです。

広い意味でのヴィパッサナーは、自己観察による気づきの瞑想ですから、
方法や観察対象は無限にあります。
またいわゆるヴィパッサナーとして日本に伝えられている方法は4種類あり、
それぞれ観察対象もさまざまです。

ここでは先ず観察対象を4つに分類します。
身体の感覚、身体の動き、思考、感情です。
(言動はこれらの複合体です。)

最も観察しやすい対象は、身体の感覚と身体の動きです。
これらが最も観察しやすいので、これらの観察から始めるのがやりやすい方法です。

次に観察しやすいのは思考と感情ですが、
思考や感情を観察すると雑念・妄想の嵐となる危険性をはらんでいてかなり困難です。
しっかりした指導者または方法に従って行うことが望ましいと言えます。

しかし観察を続けていると、
身体の感覚、身体の動き、思考、感情は無常であり、
また自分自身の本質ではないことが理解されます。

そしてもっと別のレベルのものが、
自分のうちに存在することが理解されます。
それは雰囲気です。
感情と似ていますが感情とも異なります。
雰囲気は人にとってとても重要な要素ですが、
これも無常でありどうやら自分自身の本質ではないらしいことが解ってきます。

では何が自分の本質なのか?
それは観察している者、気づいている者、意識と関係しているらしい、
または観察、気づき、意識の本質を洞察することが、
大きなヒントになるらしいことが理解されてきます。

古来ヒンドゥー教では純粋意識をプルシャと呼びシヴァ神で象徴し、
これが自己の本質であり永遠であるとしました。

クリシュナムルティは見る者と見られる者の合一という表現をしました。

見る者、気づいている者がヴィパッサナーで重要なことまでは確かなのですが、
それが何者であるのか、
それについては筆者はまだそのレベルに達していません。

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2009/03/21 (Sat) 21:00

呼吸を観る瞑想(瞑想の基本)

さまざまな流派のある瞑想ですが、
多くの流派で基本となっている瞑想は呼吸を観察する瞑想です。
たとえば仏教上座部のアーナ・パーナ・サティです。

今回はなぜ呼吸を観察する瞑想が基本なのかを解説します。

呼吸というのは無意識にもできますが、コントロールすることも可能です。
また、心の状態と呼吸は密接な関連を持っています。
つまり呼吸は、体と心の架け橋なのです。
呼吸を観察することで同時に心も観察することができます。

呼吸を整えることで心を整えることができます。
ただし呼吸を観察する瞑想では、呼吸をコントロールするのは禁物です。
あくまでもあるがままの自分を観察します。
呼吸をコントロールする技法はプラーナーヤーマと呼ばれ別の技法になります。

呼吸を観察する瞑想を行ったことがある人はすぐに気づくと思いますが、
観察しようとするだけで普段と違った呼吸になってしまいます。
自然に呼吸が整っていく分には構いませんが、コントロールしてはいけません。

また呼吸を観察する瞑想は最も安全な瞑想の一つでもあります。
あるがままの呼吸を観察することは、思考や感情を直接観察する瞑想や、
チャクラを観る瞑想などと違い、全く危険がありません。

ちなみに呼吸を観察する瞑想を、単なる集中の手段として使っている流派もありますが、
それはそれで良いとしても、本来の目的とは違っています。

目標は日常生活でも呼吸、すなわち心の動きに気づいていることです。
これは慣れるのが大変ですが、慣れれば自転車に乗るくらい簡単なことです。

整っている呼吸が良いとか荒れた呼吸が悪いとか、
鼻が詰まっているからだめだとかはありません。
とにかく呼吸に気づいていましょう。

シリーズ記事
呼吸を観る瞑想(瞑想の基本)
呼吸を観る瞑想(アーナパーナ・サティ)
呼吸を観る瞑想(注意点)

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2009/04/01 (Wed) 21:00

諸行無常は間違い?

諸行無常とは初期仏典であるダンマパダ(法句経、ブッダの真理のことば)で
初めて登場する言葉で、一切皆苦、諸法無我とともに、
特に上座部仏教では教えの根本とされる言葉です。

通常はすべての物事、現象は無常である、常に変化すると解釈されています。

原文のダンマパダ277には以下のように書かれています。
sabbe savkhara anicca ti yada pabbaya passati
atha nibbindati dukkhe esa maggo visuddhiya
http://ccbs.ntu.edu.tw/BDLM/lesson/pali/reading/gatha277.htm

日本語では通常以下のように訳されています。
「一切の形成されたものは無常である(諸行無常)と明らかな知慧をもって観るときに、
 ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。」
http://seijyaku.fc2web.com/hou.htm

しかし諸行無常の部分、
sabbe(全ての) savkhara(サンカーラは) anicca(無常である) の
savkhara(サンカーラ)に注目すると、一切の物事が無常というのは、
誤った解釈ではないかと考えられます。

以前カルマの法則で書いたようにサンカーラというのは、
潜在意識の残存印象、経験の蓄積によって条件付けられたすべてのパターンの保管場所で、
いわゆるエゴに当たるものであり、用語として熟しています。

ブッダがここでわざわざサンカーラをいう用語を使ったということは、
十分この単語の意味を理解して使っているはずなので、
本来は以下の意味で使っていたのだと考えられます。

「潜在意識の残存印象、経験の蓄積によって条件付けられた全てのパターン、
 すなわち全ての記憶やパターンやエゴというものは無常である。
 このことを明らかな智恵をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。
 これこそ人が清らかになる道である。」

これならば意味は明快です。

「サンカーラ、つまり全ての記憶やパターンやエゴというのは無常であり、
 それに縛られる必要がないと理解すれば、
 苦しみから遠ざかり離れることができる。
 これこそ人が清らかになる道である。」

すべての物事、現象は無常であるというのも真理ではありますが、
だから何故それを理解すれば苦しみから離れることができるのか?
と聞かれると説明に困るので、おそらく本来のブッダの意図とは異なるでしょう。

そしてこの理解はヒンドゥー教のカルマヨーガによるサンカーラの浄化にくらべ、
サンカーラの本質を直接理解することにより全てのカルマからの解脱を説いているので、
より深い教えだと考えられます。(カルマヨーガの方が実践的で分かりやすいですが)


シリーズ記事
諸行無常は間違い?
一切皆苦は間違い?
諸法無我は間違い?

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2009/04/04 (Sat) 21:00

一切皆苦は間違い?

2012/06/01追記
一切皆苦は間違いだと証明できました。詳しくはこちらをご参照ください。
一切皆苦は絶対間違い

前回諸行無常は間違い?で諸行無常の解釈は、
おそらく本来のブッダの意図とは違うと解説しましたが、
今回は一切皆苦についてです。

一切皆苦とは通常、何もかも一切すべてが苦しみであると解釈されますが、
それは極端な解釈であると考えられます。

ブッダも四苦八苦が苦しみであるとは言っていますが、
生そのものまで否定して苦しみだとは言っておらず、
生の中に楽しみや喜びや幸福があることも認めています。

一切皆苦が現れる部分をダンマパダ278より原文を引用します。
sabbe savkhara dukkha ti yada pabbaya passati
atha nibbindati dukkhe esa maggo visuddhiya
http://ccbs.ntu.edu.tw/BDLM/lesson/pali/reading/gatha278.htm

日本語では通常以下のように訳されています。
「一切の物事は苦しみである(一切皆苦)と明らかな知慧をもって観るときに、
 ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。」
http://seijyaku.fc2web.com/hou.htm

通常の解釈の何もかも一切が苦であると解釈すると、
「一切皆苦であると悟れば苦から離れる」となり、おかしな話になります。
一切皆苦ならそれを悟れば一層苦の認識が強まるだけで、
苦しみから離れることなど不可能だからです。

再び一切皆苦の部分 sabbe(全ての) savkhara(サンカーラは) dukkha(苦である) の
savkhara(サンカーラ)に注目すると、一切なにもかもが苦だとは言っておらず、
サンカーラ、つまり記憶やパターンやエゴが苦だと言っています。

つまり本来は以下の意味を言っていたのだ考えられます。

「潜在意識の残存印象、経験の蓄積によって条件付けられた全てのパターン、
 すなわち全ての記憶やエゴというものは苦である。
 このことを明らかな智恵をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。
 これこそ人が清らかになる道である。」

これならばやはり意味は明快です。

「サンカーラ、つまり全ての記憶やパターンやエゴというのは苦であり、
 それらが不要であると理解すれば、
 苦しみから遠ざかり離れることができる。
 これこそ人が清らかになる道である。」

もう一つ大事なのは、「全ての」サンカーラが苦であると言っている点です。
つまり、良いサンカーラ、カルマは無いのです。

これはクリシュナムルティの理解とも一致します。
クリシュナムルティはこう言っています。
「論理的記憶というものは必要である。
 しかし心理的記憶というものは過去への執着であり、
 また新鮮さと神秘を失わせ苦しみをもたらすもので不要である。」

そしてこの理解こそがカルマからの真の解脱であると解釈されます。

【追記】その後より正しいと思われる解釈を見つけました。詳しくはこちらをお読みください。
一切皆苦はやっぱり間違い
一切皆苦の矛盾

シリーズ記事
諸行無常は間違い?
一切皆苦は間違い?
諸法無我は間違い?

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