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2009/04/01 (Wed) 21:00

諸行無常は間違い?

諸行無常とは初期仏典であるダンマパダ(法句経、ブッダの真理のことば)で
初めて登場する言葉で、一切皆苦、諸法無我とともに、
特に上座部仏教では教えの根本とされる言葉です。

通常はすべての物事、現象は無常である、常に変化すると解釈されています。

原文のダンマパダ277には以下のように書かれています。
sabbe savkhara anicca ti yada pabbaya passati
atha nibbindati dukkhe esa maggo visuddhiya
http://ccbs.ntu.edu.tw/BDLM/lesson/pali/reading/gatha277.htm

日本語では通常以下のように訳されています。
「一切の形成されたものは無常である(諸行無常)と明らかな知慧をもって観るときに、
 ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。」
http://seijyaku.fc2web.com/hou.htm

しかし諸行無常の部分、
sabbe(全ての) savkhara(サンカーラは) anicca(無常である) の
savkhara(サンカーラ)に注目すると、一切の物事が無常というのは、
誤った解釈ではないかと考えられます。

以前カルマの法則で書いたようにサンカーラというのは、
潜在意識の残存印象、経験の蓄積によって条件付けられたすべてのパターンの保管場所で、
いわゆるエゴに当たるものであり、用語として熟しています。

ブッダがここでわざわざサンカーラをいう用語を使ったということは、
十分この単語の意味を理解して使っているはずなので、
本来は以下の意味で使っていたのだと考えられます。

「潜在意識の残存印象、経験の蓄積によって条件付けられた全てのパターン、
 すなわち全ての記憶やパターンやエゴというものは無常である。
 このことを明らかな智恵をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。
 これこそ人が清らかになる道である。」

これならば意味は明快です。

「サンカーラ、つまり全ての記憶やパターンやエゴというのは無常であり、
 それに縛られる必要がないと理解すれば、
 苦しみから遠ざかり離れることができる。
 これこそ人が清らかになる道である。」

すべての物事、現象は無常であるというのも真理ではありますが、
だから何故それを理解すれば苦しみから離れることができるのか?
と聞かれると説明に困るので、おそらく本来のブッダの意図とは異なるでしょう。

そしてこの理解はヒンドゥー教のカルマヨーガによるサンカーラの浄化にくらべ、
サンカーラの本質を直接理解することにより全てのカルマからの解脱を説いているので、
より深い教えだと考えられます。(カルマヨーガの方が実践的で分かりやすいですが)


シリーズ記事
諸行無常は間違い?
一切皆苦は間違い?
諸法無我は間違い?
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2009/04/04 (Sat) 21:00

一切皆苦は間違い?

2012/06/01追記
一切皆苦は間違いだと証明できました。詳しくはこちらをご参照ください。
一切皆苦は絶対間違い

前回諸行無常は間違い?で諸行無常の解釈は、
おそらく本来のブッダの意図とは違うと解説しましたが、
今回は一切皆苦についてです。

一切皆苦とは通常、何もかも一切すべてが苦しみであると解釈されますが、
それは極端な解釈であると考えられます。

ブッダも四苦八苦が苦しみであるとは言っていますが、
生そのものまで否定して苦しみだとは言っておらず、
生の中に楽しみや喜びや幸福があることも認めています。

一切皆苦が現れる部分をダンマパダ278より原文を引用します。
sabbe savkhara dukkha ti yada pabbaya passati
atha nibbindati dukkhe esa maggo visuddhiya
http://ccbs.ntu.edu.tw/BDLM/lesson/pali/reading/gatha278.htm

日本語では通常以下のように訳されています。
「一切の物事は苦しみである(一切皆苦)と明らかな知慧をもって観るときに、
 ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。」
http://seijyaku.fc2web.com/hou.htm

通常の解釈の何もかも一切が苦であると解釈すると、
「一切皆苦であると悟れば苦から離れる」となり、おかしな話になります。
一切皆苦ならそれを悟れば一層苦の認識が強まるだけで、
苦しみから離れることなど不可能だからです。

再び一切皆苦の部分 sabbe(全ての) savkhara(サンカーラは) dukkha(苦である) の
savkhara(サンカーラ)に注目すると、一切なにもかもが苦だとは言っておらず、
サンカーラ、つまり記憶やパターンやエゴが苦だと言っています。

つまり本来は以下の意味を言っていたのだ考えられます。

「潜在意識の残存印象、経験の蓄積によって条件付けられた全てのパターン、
 すなわち全ての記憶やエゴというものは苦である。
 このことを明らかな智恵をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。
 これこそ人が清らかになる道である。」

これならばやはり意味は明快です。

「サンカーラ、つまり全ての記憶やパターンやエゴというのは苦であり、
 それらが不要であると理解すれば、
 苦しみから遠ざかり離れることができる。
 これこそ人が清らかになる道である。」

もう一つ大事なのは、「全ての」サンカーラが苦であると言っている点です。
つまり、良いサンカーラ、カルマは無いのです。

これはクリシュナムルティの理解とも一致します。
クリシュナムルティはこう言っています。
「論理的記憶というものは必要である。
 しかし心理的記憶というものは過去への執着であり、
 また新鮮さと神秘を失わせ苦しみをもたらすもので不要である。」

そしてこの理解こそがカルマからの真の解脱であると解釈されます。

【追記】その後より正しいと思われる解釈を見つけました。詳しくはこちらをお読みください。
一切皆苦はやっぱり間違い
一切皆苦の矛盾

シリーズ記事
諸行無常は間違い?
一切皆苦は間違い?
諸法無我は間違い?

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2009/04/08 (Wed) 21:00

諸法無我は間違い?

前々回、前回の諸行無常は間違い?一切皆苦は間違い?で、
諸行無常と一切皆苦の解釈は、おそらく本来のブッダの意図とは違うと解説しましたが、
今回はシリーズ最終回の諸法無我についてです。

諸法無我は通常、人間としての我は存在しないと解釈されていますが、
この解釈は主語である諸法の部分を完全に無視しています。

我というのは存在しないというのは究極的には正しいと、
クリシュナムルティもオショー(ラジニーシ)も言っていますが、
この文脈ではそこまでは言っていません。

原文にあたってみましょう。(ダンマパダ279)
sabbe dhamma anatta ti yada pabbaya passati
atha nibbindati dukkhe esa maggo visuddhiya
http://ccbs.ntu.edu.tw/BDLM/lesson/pali/reading/gatha279.htm

日本語ではこういう訳もあります。
「一切の事物は我ならざるものである(諸法非我)と明らかな知慧をもって観るときに、
 ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。」
http://seijyaku.fc2web.com/hou.htm

これならまだ分かりますがこの訳でも、人間としての我が存在しない、
とまでは言っていません。

諸法無我の部分に注目してみましょう。
sabbe(全ての) dhamma(法は) anatta(魂、自己がない)

dhamma とは宗教・教え・法則の意味で、事物という意味ではありません。
anatta とは attan(魂、自己)の否定語で、それ自体単独で存在しないという意味です。

つまりここでの諸法無我は、以下のように解釈されます。
「全てのダンマ(法・宗教・教え・法則・教義・ドグマ)というものは、
 それ自体単独で存在してはおらず、真理そのものではない。
 (つまり方便であり月を指す指であり月そのものではない。)
 このことを明らかな智恵をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。
 これこそ人が清らかになる道である。」

こう解釈するのがここでは正しいと考えられます。
仏教用語で言えば、般若心経の諸法空相の方がより近い訳でしょう。

振り返ってみると、諸行無常、一切皆苦、諸法無我に縛られて、
そのために苦しんでいる人がいかに多いかが分かります。
今までのシリーズを読んで、正しい解釈を知った瞬間に苦しみを離れた人も多いと思います。
以上でこのシリーズを終了します。


シリーズ記事
諸行無常は間違い?
一切皆苦は間違い?
諸法無我は間違い?

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2009/04/11 (Sat) 21:00

落語「五人張り」

自作現代落語「五人張り」です。


僕は学校で弓道をやっていますが、それ以外にも師匠がいます。
流派の名前は為朝流、別名無手勝流とも呼ばれる流派です。
始祖の源鎮西八郎為朝は、
五人張りという五人掛かりで張る強弓を引き、
飛ぶ鳥も落とすと言われた名人です。
永らく流派がとだえてましたが、
為朝師匠自らときどき夢枕に現われ、直々に指導を受けてます。

弓道は普通、伝統とか型とか作法とか一挙手一投足までうるさいのですが、
為朝流の免許皆伝となるには、
第一にウサギをとること、
第二に五人張りの弓を引くこと、
そして最後は飛ぶ鳥を落とすことだけです。
このシンプルで豪快なのが気に入っています。


先日師匠が、
「どうじゃ、もうウサギはとれたか?」
と聞くので、
「いえ、まだです。」
と答えたところ、
「ばかものっ、ウサギぐらいとれんでどうする!」
と怒られてしまいました。
「だって師匠、今時この辺にウサギなんていませんよぉ。」
と言ったら、
「武士が言い訳などするなっ、ウサギをとれっ!」
とすごい剣幕です。
武士じゃないのにぃ、
と内心ふてくされながら、
「犬や猫でもいいですかぁ?」
と、どうせできやしないけど聞いてみたら、
「ダメじゃっ、ウサギじゃっ!流派の伝統を守れ!良いなっ、ウサギでなければ破門じゃぞ!」
と言ってかき消えてしまいました。


こまったなー、ウサギなんかとれるわけないし、
変なところで伝統を守れとか、第一そんなもんいやしない。
途方にくれましたが、はたと思いつき、
ゲームセンターに行きました。
大枚はたいてようやくの思いでUFOキャッチャーでウサギをとりました。
家に帰ってから、30センチの至近距離から弓を引き、
矢を刺して置いておきます。
こんなんで大丈夫だろうか?と思いましたが、
何とかするしかありません。


ふたたび師匠が現われ、
「どうじゃ、ウサギはとれたか?」
と聞くので、
「はい、とれました!」
と答えます。
「よしっ、見せてみろ。」
と師匠は言います。
ばれませんように、
と祈りながらぬいぐるみをそっと見せると、
「よしっ、それでよしっ!」
というあっけない師匠のお言葉。
「えっ、いいんですか?」
ちょっと驚いて聞きます。
「なんじゃ、なにかあるのか?」
「いっ、いえ別に・・・」
「本当か?ちゃんと自分でとったのであろうな?」
「えっ、はい、自分でとりました。」
「他人に弓を引いてもらったとかないであろうな?!」
「いえ、ちゃんと自分で引きました!」
「よしっ、それでよしっ!」
師匠も意外とチェックあまいです。

「よしっ、次は五人張りの弓だ。五人張りを引けるようにしておけ!」
「えっ、いきなり五人張りですか?!僕まだ13キロの弓しか引けないのに。」
「13きろとはなんのことだ?五人張りを知らんのか?」
「いえ、知っています。五人掛かりで張る弓のことでしょう?」
「知っとるではないか。よいな、五人張りじゃぞ。」
「わかってます。流派の伝統でしょ。やらなければ破門でしょ。」
「わかっとるではないか。よいな、五人張りじゃぞ!」

消えてしまいました。


ふたたび途方にくれます。
こまったなー、そんなもん引けるわけないし、
第一そんな弓、どうやって手にいれるんだ?
はたと思いつき、学校の道場に行きます。
仲間を集めて、
「おい、みんな、ちょっと手伝ってくれ。弓張ってくれ。」
「なんだなんだ、弓ぐらい自分で張れ。だいたいこんなに人数いらんだろ。」
「いや、だめなんだ、四人いるんだ。」
「四人だとぉ、為朝のまねでもするのか?」
ぎくっ、図星。
でもこれは内緒です。
「まあ雷除けのまじないみたいなもんだ。」
自分を入れて五人で張ります。
よし、これで五人張りだっ、満足満足です。
張ったままの弓を持ち、満員電車に乗ります。
迷惑そうにじろじろ見られて、みっともないけどしかたありません。


師匠登場です。
「どうじゃ、五人張りは引けるようになったか?」
「はい、なんとか。」
「よし、引いてみろ。」
「はい!」
弓を引いてみせます。
「ほお、ちゃんと引けるではないか・・・。ごまかしては居らんだろうな?」
ギクッ。
「本当に五人張りか?!」
「はっ、はいっ!」
「三人や、四人ではないだろうな?」
「いえ、五人ですっ!」
「よしっ、それでよしっ!」
ふう、あぶなかった。
天下の為朝といえども、ちょろいもんです。


さてと、いよいよ次は鳥かな?
「よしっ、次はウサギをとれっ!」
げっ、またウサギぃ。
やっぱりばれてたか。
ウサギなんてとれっこないし、
これでいよいよ破門かぁ。
師匠を怒らせるとおっかないし、
無手勝流なんてかっこつけるんじゃなかった・・・。
「良いな、鵜(ウ)と鷺(サギ)じゃぞ!」
鵜と鷺ぃー、なんじゃそれ。
ここでいきなり駄洒落かぁ、あったま痛。
でも、やっぱり、こんなの絶対、無理だぁ。
「他の鳥では、鵜と鷺でなければ、やっぱり、破門でしょうねぇ?」
「とは言うても、今時ここらに居らんじゃろ。」

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2009/04/15 (Wed) 21:00

呼吸を観る瞑想(アーナパーナ・サティ)

以前呼吸を観る瞑想(瞑想の基本)で、呼吸を観る瞑想は基本的かつ安全な瞑想であると解説しましたが、呼吸を観る瞑想は奥が深い瞑想でもあります。今回はアーナパーナサティ・スッタ(安那般那念経)より中心部分を引用します。ただ呼吸を観るだけでなく、体も心も総てを観察することが分かります。

呼吸による気づきの教え(アーナパーナサティ・スッタ 289)

修行者は森に行き、樹下に行き、あるいは空家に行って、足を組んで坐り、身体をまっすぐに保って、対象に満遍なく気づきを向け、気をつけて息を吸い、気をつけて息を吐く。

最初の四考察(身体に関する組)
1.長く息を吸ったときは、私は長く息を吸ったと余すところなく自覚し、
 長く息を吐いたとき、私は長く息を吐いたと余すところなく自覚する。
2.短く息を吸ったときは、私は短く息を吸ったと余すところなく自覚し、
 短く息を吐いたとき、私は短く息を吐いたと余すところなく自覚する。
3.息を吸って、すべての体を知ることを課題とする。
 息を吐いて、すべての体を知ることを課題とする。
4.息を吸って、体の変調を静めることを課題とする。
 息を吐いて、体の変調を静めることを課題とする。

第二の四考察(感受に関する組)
5.息を吸って、喜悦を感受することを課題とする。
 息を吐いて、喜悦を感受することを課題とする。
6.息を吸って、幸福を感受することを課題とする。
 息を吐いて、幸福を感受することを課題とする。
7.息を吸って、心の変調を感受することを課題とする。
 息を吐いて、心の変調を感受することを課題とする。
8.息を吸って、心の変調を静めることを課題とする。
 息を吐いて、心の変調を静めることを課題とする。

第三の四考察(心に関する組)
9.息を吸って、心を感受することを課題とする。
 息を吐いて、心を感受することを課題とする。
10.息を吸って、心を歓喜で満たすことを課題とする。
  息を吐いて、心を歓喜で満たすことを課題とする。
11.息を吸って、心を安定させることを課題とする。
  息を吐いて、心を安定させることを課題とする。
12.息を吸って、心を解放することを課題とする。
  息を吐いて、心を解放することを課題とする。

第四の四考察(法則性に関する組)
13.息を吸って、常に無常を見ることを課題とする。
  息を吐いて、常に無常を見ることを課題とする。
14.息を吸って、常に色あせてゆくのを見ることを課題とする。
  息を吐いて、常に色あせてゆくのを見ることを課題とする。
15.息を吸って、常に消滅を見ることを課題とする。
  息を吐いて、常に消滅を見ることを課題とする。
16.息を吸って、常に手放すことを見ることを課題とする。
  息を吐いて、常に手放すことを見ることを課題とする。


このようにアーナパーナ・サティは、サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想の、
両方の要素を兼ね備えていることが分かります。
是非呼吸を観る瞑想、アーナパーナ瞑想をお勧めします。

関連記事
瞑想学基礎
ヴィパッサナーで観るもの
呼吸を観る瞑想(瞑想の基本)

シリーズ記事
呼吸を観る瞑想(瞑想の基本)
呼吸を観る瞑想(アーナパーナ・サティ)
呼吸を観る瞑想(注意点)

参考URL
http://hikumano.umin.ac.jp/anapanasati.doc
http://72.14.235.132/search?q=cache:7er3pxKvm0QJ:hikumano.umin.ac.jp/anapanasati.doc+%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%82%B5%E3%83%86%E3%82%A3&cd=2&hl=ja&ct=clnk&gl=jp
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=41363322&comm_id=3876435

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2009/04/18 (Sat) 21:00

黙示録666の謎を仏教で解く

ここに知恵が必要である。賢い人は、獣の数字にどのような意味があるかを考えるがよい。数字は人間を指している。そして、数字は六百六十六である。
新約聖書 ヨハネの黙示録 / 13章 18節


有名なヨハネの黙示録の謎の数字である。
この数字を仏教から解いてみよう。
仏教はとにかく数字が好きである。
何にでもほとんど数字がついてくる。
四聖諦、八正道、四苦八苦、百八の煩悩、その他数え上げればきりがない。

そこで仏教で666を探してみると、あったのである。
六根・六境・六識である。

六根とは眼・耳・鼻・舌・身・意(げん・に・び・ぜつ・しん・い)、
六境とは色・声・香・味・触・法(しき・しょう・こう・み・そく・ほう)、
六識とは眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識である。

そしてこれは見事に人間を指している。
六根・六境・六識が他の動物にも当てはまるとは限らない。
眼の無い動物もいるからである。

666が果たして本当に六根・六境・六識を指しているのかは定かではないが、
般若心経でも言っているように、六根・六境・六識は全て無常であり、
人間の本質ではないと看破することが悟りであり、
六根・六境・六識の世界から離れる、または超越するのが解脱である。

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2009/04/22 (Wed) 21:00

呼吸を観る瞑想(注意点)

呼吸を観る瞑想の注意点です。瞑想一般の注意点も含まれています。

1.基本的やり方
 呼吸を観る瞑想(アーナパーナ・サティ)の1番と2番をやることから始めます。
 この2つだけで他の瞑想に移る方法や、ひたすら1番と2番だけをやる方法もあるので、
 先ず以下の2つから始めてください。

1.長く息を吸ったときは、私は長く息を吸ったと余すところなく自覚し、
 長く息を吐いたとき、私は長く息を吐いたと余すところなく自覚する。
2.短く息を吸ったときは、私は短く息を吸ったと余すところなく自覚し、
 短く息を吐いたとき、私は短く息を吐いたと余すところなく自覚する。


2.あるがままを観察すること
 呼吸はコントロールせず、あるがままを観察します。
 コントロールしないことは結構難しいです。
 呼吸に意識を向けただけで呼吸は変わってしまいます。
 筆者の場合はよく息を詰める癖があるのですが、
 これを観察できるようになるにはかなり時間がかかりました。
 ただし多少変わるくらいはそれでも良いです。

3.呼吸自体を楽しむこと
 瞑想を何か目的を達成する手段にはしないようにしましょう。
 呼吸自体を楽しみ、呼吸と静寂を味わいましょう。

4.思考(雑念・妄想)が現れた場合の対処方法1
 思考が現れた場合は、そのまま受け流します。
 追いかけたり拒絶したりしてはいけません。
 また良いとか悪いとか判断してはいけません。
 空に浮かぶ雲を眺めるように思考を眺めます。
 雲と雲の切れ目、つまり思考の切れ目に青い空が見えます。

5.思考(雑念・妄想)が現れた場合の対処方法2
 思考が現れた場合は、意識を呼吸に引き戻します。
 思考を無理に押さえ込んではいけません。
 凧の糸を引っ張るようにぐいっと呼吸に意識をもどします。

シリーズ記事
呼吸を観る瞑想(瞑想の基本)
呼吸を観る瞑想(アーナパーナ・サティ)
呼吸を観る瞑想(注意点)

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2009/04/25 (Sat) 21:00

悟りとは何か?

今回は悟りとは何かという言葉の定義についてです。
悟りは言葉では表せないというのは真実であり、
定義とか嫌う人もいると思いますが、
その境地は言葉では表現できませんが、
意味自体ははっきりとしていて漠然としたものではありません。

悟りとは2つの意味で使われます。

・何か物事の本質に気づき、実感として解ること、理解すること(小悟)
・自分の本質を洞察して理解し、全ての苦しみから離れること(大悟、覚り)

小悟は普通の人でもいくらでもあります。言葉の使用例を挙げてみます。

・物事の道理を悟った
・相手の心の本音を悟った
・人の気配を悟った
・死期を悟った
・このやり方ではダメだと(あるいはこれでよいと)悟った

全て気づいて実感として理解したということを意味しています。

大悟、覚りとは、こういう悟りの内で最大のもので、自分の本質を悟ることです。
筆者は大悟していませんが、大悟したと思われる人たちの言葉によると、
自分(エゴ)というものは本質的には存在しないと解るそうです。
そうするとどうなるかというと、一切の苦しみから離れることができるのです。
なぜ苦しみがなくなるかというと、苦しむ自分がないからです。
そして自他の区別がなくなるので慈悲深くなるのです。
それが本当の智恵でもあります。

大悟するためには、つまり本質的には自己は存在しないと理解するには、
徹底した自己観察が必要だとされ、それが瞑想(ヴィパッサナー瞑想)です。

このことは般若心経にも書いてあります。
詳しくは般若心経シリーズをお読みください。

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2009/04/29 (Wed) 21:00

70%の愛

あなたは、人に親切をしたり、ボランティア活動したり、お布施や寄付をしたりするとき、
本当に愛情をもって、慈悲の心をもって、相手のためを思ってしているでしょうか?
それとも何か見返り、何かお返しがもらえるとか、徳が上がるとか、感謝されたいとか、
自己満足のためとかにやっているのでしょうか?

即答できた方はたぶん何か間違った思い込みをしています。
なぜなら人間の動機は通常一つではないからです。
いくつかの動機が重なって何か行動を起こすのです。
よく自分の心を観察してみましょう。
そして相手のためと自分のための割合を計算してみましょう。

もしかしたら100%相手のためにやったことがある場合もあるかもしれません。
例えば野良猫に餌をやったとか、小さなことかもしれません。
しかし通常はいくつかの動機が合わさっていることに気づくでしょう。

筆者は70%の愛で良いと思います。
常に100%相手のためだけに生きていけるとしたら、あなたはもう悟っています。
また相手のためとは、相手が喜ぶことだけとは限りません。
憎まれ役になっても、言ってやらなければいけないこともあります。
いつも自分の複数の動機を観察し、愛・慈悲のパーセンテージを上げていきましょう。

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