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2009/05/02 (Sat) 21:00

自由意志は存在するのか?

自由意志は存在するのか、それとも全ては運命で決まっているのか、
たぶん誰もが一度は考えたことがあると思います。

筆者の観察によると、自由意志は存在します。
以下の方法で確認してみました。

瞑想するか、シャヴァアーサナをやって、ゆっくり目を開けます。
そして瞬間に眼だけを右か左に動かすのです。
右か左に決めたら、即座にその方向に動かします。
そこに過去からの因果関係があるかどうかを観察します。

何度もやってみましたが、驚くべきことに、
過去からの因果関係を見出すことは全くできませんでした。

筆者の結論では、ある限定された範囲では生命は全く自由です。
この場合は眼をどの方向にも好きなように動かすことができます。
行動はもちろん限定はされています。
例えば目の後ろを見ることはできません。
しかし意思自体は全く自由です。

みなさんも是非実験してみてください。
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2009/05/06 (Wed) 21:00

サマーディについての誤解

今回はサマーディ(三昧、禅定)とは何かについてです。
サマーディはサマタ瞑想(精神統一をし、心を安定させる瞑想)の最高の境地で、
思考も感情も全くまたはほとんど無く、意識だけがある状態で平安な境地です。
いわゆる無心とも言える状態です。

ここでサマーディに関する誤解を挙げてみます。

1.サマーディ=覚り(大悟)である
 サマーディ=覚り(大悟)ではありません。
 高い境地ではありますが、サマーディから出ればまた世俗の苦しみが待っています。
 従ってサマーディは覚り(大悟)ではありません。

2.サマーディは恍惚である
 サマーディでは思考も感情もありません。
 従って恍惚という感情もありません。
 平安で平静な境地です。

3.無心であればサマーディである
 無心というのが、実はバヴァンガ(有分心)という眠りの一種の場合があります。
 眠りはサマーディではありません。
 サマーディでは意識はあります。

シリーズ記事
サマーディについての誤解
サマーディの達成の判定方法(五自在)
サマーディで残る心(五禅支)
サマーディは覚りに必須か?

関連記事
瞑想学基礎
悟りとは何か?

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2009/05/09 (Sat) 21:00

サマーディの達成の判定方法(五自在)

サマーディ(三昧、禅定)とは思考も感情もほとんど、または全く無い状態ですが、
サマーディ状態に自在に達することができるようにならなければ、
サマーディを達成したとはみなされません。

何が自在にできるかというと以下の5つが自在にできるということです。

五自在
1.引転自在-サマーディから出た後で、
 サマーディ中にまだ残っている思考・感情を判別・確認する能力
2.入定自在-サマーディに入りたいと思うとき、いつでも出来る能力
3.在定自在-自分の決めた時間にサマーディに留まることが出来る能力
4.出定自在-自分の決めた時間がきたらサマーディから出る能力
5.省察自在-サマーディ中にまだ残っている思考・感情を判別・確認できる能力


つまり、自分が決めた時間、いつでも自在にサマーディに入り出ることができ、
またその間の境地を確認できたときにサマーディを達成したとみなされます。
たまたまサマーディに達しただけではサマーディを達成したとはみなされません。

自分の決めた時間というのは、たまに誤解されるように、
何日でもぶっ続けというわけではありません。
2、3時間の範囲内で自分の決めた時間で、
誤差5分程度でサマーディに入れることができればOKです。

サマーディ中にまだ残っている5つの思考・感情(五禅支)が何かについては、
次回解説します。

シリーズ記事
サマーディについての誤解
サマーディの達成の判定方法(五自在)
サマーディで残る心(五禅支)
サマーディは覚りに必須か?

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2009/05/13 (Wed) 21:00

サマーディで残る心(五禅支)

サマーディ(三昧、禅定)とは思考も感情もほとんど、または全く無い状態ですが、
サマーディに達しても、五禅支と呼ばれる5つの心が残っています。

五禅支
尋(じん、vitakka)-意識を対象に向ける心。意志。
伺(し、vicaara)-対象に向けた意識を維持する心。意志。
喜(き、piti)-喜びの心。感情。
楽(らく、sukha)-楽な感覚又は楽しさ。感情、気分。
一境性(いっきょうせい、ekaggata)-対象に気づいている心。意識。


これ以外の心は起こりません。
ただし、完全に覚る(大悟)するまではその他の心もちらっとは現れるそうです。
また禅定が深まるにつれ、尋、伺、喜、楽の心がなくなっていきます。
禅定には初禅から四禅まで4つの段階(分類法によっては5つの段階)があります。
禅定の浅い順からどの心があるかを記述します。

初禅 尋、伺、喜、楽、一境性
二禅 喜、楽、一境性
三禅 楽、一境性
四禅 一境性


つまり初禅ではまだ対象に意識を向け、それを維持しようとする意志が働きますが、
二禅ではその意志がなくなり、自然に対象に意識が向けられます。

二禅では喜びの感情がまだありますが、
三禅になると喜びという強い感情は消えます。

三禅では楽だという感情がまだありますが、
四禅では意識のみが残り、平静な境地に達します。

さらにこれ以上の境地として、
四無色(空無辺処・識無辺処・有所無処・非想非非想処)という、
対象がなく意識だけがある境地が4つありますが、
筆者の理解の範囲を超えるので省略いたします。

概略を分かりやすく知りたい方には、「初期仏教キーワード」という書籍をお勧めします。

著者星飛雄馬さんのブログ The Sound of Silence Free Tibet !

シリーズ記事
サマーディについての誤解
サマーディの達成の判定方法(五自在)
サマーディで残る心(五禅支)
サマーディは覚りに必須か?

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2009/05/16 (Sat) 21:00

サマーディは覚りに必須か?

サマーディ(三昧、禅定)とは思考も感情もほとんど、または全く無い状態で、
また非常に高い境地ではあるが、覚り(大悟)ではないことを解説してきましたが、
ではサマーディは覚りに必須かという問題についてです。

いままでの研究調査による結論は以下になります。
覚るためにはサマーディに達していたほうが望ましいが、必須とはいえない。

以前悟りとは何か?で解説したように覚り(大悟)とは、
自己というものは本質的には存在しないと実感として理解し、
全ての苦しみから離れることです。

これを理解するためには、思考も感情も無い状態は必ずしも必要ではありません。
サマーディの体験無く覚った人を、仏教用語では乾観行者と呼びます。
乾観とはサマーディの潤いを知らずに、
観の瞑想(ヴィパッサナー瞑想)だけで覚ったためです。

しかし現実問題としては、
サマーディに達した方が覚れる可能性が高いというのが通論のようです。

なぜならば、精神統一され思考も感情も無い状態から、
そこからわずかに生じた心を精密に観察すると、
自己が存在するという錯覚が生じる過程がよく解り、
それによって覚れるからです。

しかし、サマーディを達成することも簡単ではありません。
サマーディ経由で覚りを目指すか、サマーディを経由しないで覚りを目指すか、
どちらが近道かについては異論がたくさんあります。

人によって向き不向きもあるでしょうから、
信頼できる指導者の判断に頼るか、
サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想の両方を、
真剣に何度もやってみるしかないでしょう。
勘や知識だけで簡単にどちらが良いかを勝手に判断するのは禁物だと考えられます。

以上でサマーディシリーズいったん終了です。

シリーズ記事
サマーディについての誤解
サマーディの達成の判定方法(五自在)
サマーディで残る心(五禅支)
サマーディは覚りに必須か?

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2009/05/23 (Sat) 21:00

論理を超えた神秘

筆者は基本的にはどんなことでもできる限り論理的に理解しようとしていますが、
論理を超えた神秘というものが存在することを論理的に認めています。

例1
三角形の内角の和は180度である。
論理的にはそのとおりですが、現実には理想的な三角形は存在しません。

例2
生あるものは必ず死す。
経験則ではそのとおりですが、なぜ必ず死ぬのか論理的に説明できません。

なぜこんな自明のようなことが、論理と現実とで違うのかとても神秘的です。
このような神秘は他にいくらでもあります。

初めから全く論理的に考えずになんでもかんでも神秘だとする、
偏った神秘主義やスピリチュアリズムには大反対ですが、
人智を超えた神秘が存在することは、上記のように論理的に説明できます。

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2009/05/27 (Wed) 21:00

マントラヨーガ

マントラヨーガとは、マントラ(真言)を繰り返し唱える修行法で、
ジャパヨーガとも呼ばれます。
広い意味では念仏や題目や読経なども含まれます。

はたして同じ言葉を唱え続けることに何の効果があるのかと、
疑問を持たれる方も多いと思いますが、一定の効果があります。

1.サマタ瞑想としての効果
 同じ言葉を唱え続けることにより、集中力がつき精神統一され、
 雑念・妄想を防ぐことができ、心が安定します。
 このためにはマントラはどんなマントラでも構いません。
 集中して唱え続けることに意味があります。

2.ヴィパッサナー瞑想としての効果
 雑念・妄想をある程度防げると言っても、やはり思考・感情は湧いてきます。
 その思考・感情が、普段気づかない自分の潜在意識の表れの場合があります。
 これに気づくことでヴィパッサナー瞑想としての効果があります。
 このためにはやはりマントラはどんなマントラでも構いません。

3.音韻が心に与える効果
 万国共通に、人は楽しいときにはハッハッハと笑い、痛いときにはウッと唸ります。
 逆に音韻を利用することにより心に影響を与えることができるのです。
 どの音韻がその人に良い影響を与えるかは、人によって異なります。
 そのためマントラを個別に授けるときには、その人を観て慎重にマントラが選ばれます。

4.意味的効果
 マントラに論理的意味がある場合には、その意味を繰り返すことにより、
 意味を納得できるようになっていきます。
 この場合はただ漫然を唱えるのではなく、意味を理解しながら唱える必要があります。
 例として、般若心経の般若波羅蜜多呪があります。
 参照 般若波羅蜜多呪はなぜ音訳されているか

その他神秘的な効果を謳う人もいますが、これについては筆者は懐疑的です。

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2009/05/30 (Sat) 21:00

瞑想できているか?(サマタ篇)

今回と次回は、どういう状態なら瞑想できているかの判定方法についてです。
今回はサマタ瞑想ができているかどうかの判定方法です。

サマタ瞑想で目指すのはサマーディ、つまり無心で意識だけがある状態です。
サマーディに達していればサマタ瞑想が完全にできています。

しかしサマーディに達するのは非常に困難です。
サマーディに達していなくても、
思考・感情が少なければある程度瞑想できていると考えてよいでしょう。

つまり、サマタ瞑想できているかどうかは、
思考・感情がどの程度あるかによって判定します。

思考・感情が瞑想中ずうっと完全に消えていることはまずないでしょう。
思考・感情がどれくらいあるかによって、どの程度瞑想できているかを判定すればOKです。


次回はヴィパッサナー篇です。
ただし、サマタとヴィパッサナーは完全に分離することはできません。
あくまでも便宜上の分け方と考えてください。

参考記事
瞑想学基礎
サマーディについての誤解
サマーディの達成の判定方法(五自在)
サマーディで残る心(五禅支)
サマーディは覚りに必須か?

シリーズ記事
瞑想できているか?(サマタ篇)
瞑想できているか?(ヴィパッサナー篇)
瞑想できているか?(総合篇)

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