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2009/08/01 (Sat) 21:00

ヴィパッサナーの選び方(中級篇)

ヴィパッサナーの選び方の中級篇です。
ここでは、中級者とは、
だいたい30分から1時間くらい安定して坐れる人を指すことにします。
ただしあくまでも便宜上の分け方ですのであまりこだわらないようにお願いします。

このレベルの人は、自分に合った瞑想を探すようにするべきです。
従って、パオ式マハシ式ゴエンカ式オショウ式
また番外編としてティク・ナット・ハン式全てを体験することをお勧めします。
この中から自分に合った方法を続けるのが良いでしょう。

大切なのは続けられる方法を選ぶことです。
そのためにはメソッドだけでなく、
指導者との相性や周りの人たちの雰囲気も重要になってきます。

避けるべき態度は、自分が選んだ方法だけが優れていると思い込むことです。
自分には合っているかもしれませんが、他の人には向いていないかもしれません。
自分が選んだ方法が一番だと思うのは誰にでもあることですが、
これはエゴに他なりません。

これを避けるためにも全てを自分で体験することが重要です。
全部が無理な場合でもせめて2,3種類くらいは体験してみましょう。
ただし、一度にあっちこっちに手を出すのは勧められません。
一つの方法をある程度マスターしてから次の方法へ移りましょう。

シリーズ記事
ヴィパッサナーの選び方(初級篇)
ヴィパッサナーの選び方(中級篇)
ヴィパッサナーの選び方(上級篇)

参考記事
ヴィパッサナーの種類
パオ式ヴィパッサナーの特徴
マハシ式ヴィパッサナーの特徴
ゴエンカ式ヴィパッサナーの特徴
オショウ式ヴィパッサナーの特徴
ティク・ナット・ハン式瞑想の特徴
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2009/08/05 (Wed) 21:00

ヴィパッサナーの選び方(上級篇)

ヴィパッサナーの選び方の上級篇です。
ここでは、上級者とは、1時間安定して坐れる人を指すことにします。
ただしあくまでも時間の観点からだけみた便宜上の分け方で、
一般の人が1時間坐れればかなり瞑想できているというだけであり、
ある意味ここからが本格的な瞑想の始まりでもあるので、
本当の意味での上級者とは言えない場合があるので注意してください。

このレベルに達したら自分の方針を確立するべきだと考えられます。
この場合、出家するつもりがあるのかないのかが重要なポイントになります。

出家して数年から十年くらい瞑想に専念するつもりがあるのなら、
先ず最初に考えるのはパオ式でしょう。
システムがはっきりしていますし、伝統的な方法でもあります。

出家はしたいがパオはどうしても合わないというのなら、
マハシ式またはティク・ナット・ハン式を考慮に入れるべきでしょう。
出家をする場合は以上の選択になります。

出家をしない場合はパオ式以外ならどれでも自分に合ったもので良いと考えられます。
一般的にはゴエンカ式、またはマハシ式になるかと思われます。

オショウ式を選択する場合には、伝統仏教とはかけ離れた面があり、
独特の雰囲気があるので好みが分かれるところだと思います。
またヴィパッサナーだけの瞑想会の頻度もそれほど多くはないので、
他のオショウ式の瞑想と並行してやっていくか、独自にやっていくかの選択も必要です。
しかしそれでもオショウ式ヴィパッサナーは、最も瞑想らしい瞑想だと言えます。

その他これまでには触れませんでしたが、
チベット仏教式も出家する場合には有力な候補ではありますが、
実際に綿密な指導を受ける機会があまりないので、
実際問題としては難しいかと思われます。

またある程度徹底的にやった上でどうしても自分の限界が見えたら、
再び考え直す勇気も必要だと思います。

以上、方針を確立する上で参考になれば幸いです。

シリーズ記事
ヴィパッサナーの選び方(初級篇)
ヴィパッサナーの選び方(中級篇)
ヴィパッサナーの選び方(上級篇)

参考記事
ヴィパッサナーの種類
パオ式ヴィパッサナーの特徴
マハシ式ヴィパッサナーの特徴
ゴエンカ式ヴィパッサナーの特徴
オショウ式ヴィパッサナーの特徴
ティク・ナット・ハン式瞑想の特徴

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2009/08/08 (Sat) 21:00

全ての瞑想は無意味である

全てのメソッドは無意味である。
いわゆる瞑想にも全く意味はない。
方法などなにも存在しない。
あなたがやるべきこと、それはただ観ることだけだ。
クリシュナムルティの言葉を要約)

いままで瞑想法、いわゆるメソッド・テクニックについていろいろ書いてきましたが、
筆者は実はこのクリシュナムルティの言葉が真実だと思っています。
いわゆる瞑想法は「観る」ための準備・練習でしかないというのが筆者の考えです。

筆者がバンガロールのクリシュナムルティの学校に立ち寄ったときのことです。
筆者はこの言葉を、なるほど、と思いさて真剣に観てみようとしたのですが、
そのとき思ったのは How、つまりどうやって観るかということでした。
この How こそクリシュナムルティが否定していることだったのです。
方法など存在しない、それは分かった、でもどうやって?
同じ所を考えがぐるぐる巡りました。

その時、やはりゲストとして来ていた人が、
ゴエンカのヴィパッサナーを紹介してくれたのです。
そのときは瞑想そのものより、沈黙行に惹かれました。
でも行ってみたくなり、学校の先生に相談すると、
やりたいことはなんでもやってみた方が良いと賛成してくれました。
そうしてメソッドを否定しつつ、10日間の合宿へ参加しました。

結果、役に立ちました。
自己観察が以前よりできるようになったのです。
その後他にもいくつか瞑想法を学びました。
ほとんど全て役に立ちました。
しかし、究極的にはやはり全てのメソッドは無意味でしょう。

最後にオショウの言葉の要約です。

私はクリシュナムルティが正しいことを知っている。
しかしそれはあなた方には役に立たない。
あなた方はただ観るということができなので、方法が必要だ。
そのために私は方便として様々な瞑想法を考案した。



関連記事
真の瞑想は人間関係の中にある
クリシュナムルティの瞑想

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2009/08/12 (Wed) 21:00

薬物規制違反の処罰の限度

酒井法子や押尾学が逮捕されて、処罰についていろいろ意見が出されていますが、
薬物規制違反がなぜ処罰されるかについて考えてみましょう。

本来薬物規制の最大の目的とは、本人が薬物によって被る不幸を未然に防ぐことにあります。
乗車する際のシートベルト着用義務と本来同じ発想です。

従って、薬物によって被る不幸以上の不幸を法律や社会が与えることは、
本末転倒なのです。

これは未成年者の飲酒喫煙についてもあてはまります。

禁止薬物を使用したから死刑にしてしまえとか永久追放だとか、
未成年が飲酒喫煙をしたから退学だとかは、
明らかに行き過ぎなのです。

禁止薬物使用者に対して先ず行うべきは、処罰ではありません。
治療と教育が最優先されるべきです。

また、薬物に対する無知と偏見も大きな問題です。
規制薬物の中には、処方箋があれば使用が認められるものなどもあります。
ほとんど全ての薬物には薬効と副作用があり、
それらを十分に理解した上で規制をする必要があります。

ただ薬物を使用したからといって、過剰な処罰や、
まして人格否定などはするべきではありません。

社会・科学  |  トラックバック(0)  |  コメント(0)  |  ↑Top

2009/08/15 (Sat) 21:00

真の瞑想は人間関係の中にある

真の瞑想は人間関係の中にある。

これはクリシュナムルティの言葉です。

独り座っていわゆる瞑想をやって、瞑想中に静寂になったとしても、
人と接すると貪瞋癡(とんじんち)があらわになってしまいます。
つまり人と接したときに本当の自分の心が解るのです。

見渡してみると筆者自身を含め、瞑想について偉そうなことを言っていても、
人に接したときの態度に問題がある人がたくさんいます。
人と接したときの自分の心を観察することが真の瞑想なのです。

日常生活の中で人と接したとき、もっと自分の心を観察しましょう。



関連記事
全ての瞑想は無意味である
クリシュナムルティの瞑想

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2009/08/19 (Wed) 21:00

過去世を知るよりも

仏教やヒンドゥー教では輪廻を信じます。
また最近のスピリチュアル系の人たちも生まれ変わりを信じています。
そして自分の過去世を知りたいという人たちが増えています。
しかし過去世を知ることはそんなに重要なことなのでしょうか?

この世は原因と結果、つまり因果で成り立っているとされています。
(筆者の見解は因果と自由意志と確率的偶然で成り立っていると思いますが)

その因果はなにも過去世まで遡らなくても、
現世の中だけにも簡単に見いだすことができます。

あのとき努力したから、またはしなかったからこの現在があり、
あのとき人を傷つけたから、または助けたからこの現在があるのです。

特に自分が執着しているものや嫌悪しているのもについて、
現世で過去を振り返ってみましょう。
大抵の場合同じパターンを繰り返していることに気づくはずです。
(それがカルマです。)
そのパターンの原因は、パターンの最初の体験にある場合がほとんどです。
それは学生のころかもしれないし、子供のころかもしれません。
深く深く思い出して観察し、もし違った体験だったらとシミュレートしてみましょう。
そして何度も何度もより深い原因を探ってみましょう。
執着や嫌悪の原因が理解でき、解放できる場合があります。

過去世にこだわるより、現世を先ず深く観察しましょう。
その方がずっと現実的でためになるはずです。

参考記事
カルマの法則

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2009/08/22 (Sat) 21:00

閑さや 岩にしみ入 蝉の声

セミ


松尾芭蕉が山形県立石寺で詠んだ句である。
蝉の声が静かだとは、なんのことだか長年意味が理解できなかった。
筆者がこの句を得心したのは二十代後半のことだった。

夕暮れちかく、ある神社の参道を一人で歩いていた。
広く長い参道だった。
とても静かだ、そう思った時気づいた。
蝉がたくさん鳴いている。
カナカナカナカナ カナカナカナカナ
参道の木々にしみ入るような声だった。
ああこのことか、と芭蕉の句を思い出し得心した。


閑さや 岩にしみ入 蝉の声


芭蕉の聞いた蝉の種類はニイニイゼミだという説が主流のようだが、
アブラゼミ説や、ミンミンゼミの声を聞いて得心した人もいる。
筆者にとってはヒグラシの声が一番納得がいくが、
何百年も昔と今では気候や蝉の分布は違うだろうから、
何蝉かは今となっては断定できないし、本当は何蝉でも良いと思う。
夏の夕方の雰囲気さえ味わうことができれば・・・


奥の細道 Amazon検索



参考URL
奥の細道原文
http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/okunohosomichi/okuno23.htm
蝉の種類についての議論
http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/okunohosomichi/okuno23.htm#ku
ミンミンゼミの声を聞いて得心した人のブログ
http://blog.livedoor.jp/pollock324/archives/50826054.html

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2009/08/26 (Wed) 21:00

日本という国は存在しない

日本に限らず、国というものは本質的に存在しません。
このことを考察すると、
我というものが本質的に存在しないということの理解の助けになると思います。

国とは何でしょうか?
国土、土は国でしょうか?
国民、人間は国でしょうか?
法律、体制は国でしょうか?
文化、風習、言語は国でしょうか?

どこを探しても国というものの実体はどこにも見出すことができず、
国とは、国土、国民、体制、文化などの集合体の上に仮設(けせつ)された、
「概念」であることがあることが判ります。
さらにその構成要素である国土、国民、体制、文化なども無常で変化し、
実体として存在しないものであることが判ります。

この考察を我にあてはめてみましょう。
我とは五蘊(色受想行識)、つまり体と心のそれぞれの構成要素の集合体で、
実体としては何も存在しないことが判ります。

しかし我の場合に難しいのは、観る者、感じている者があることです。
これを通常我だと思っています。
観る者、感じている者も本質的には存在しないと実感できれば、
無我を悟れるはずです。

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2009/08/29 (Sat) 21:00

ベジタリアンもいろいろ

今日はNPO日本ベジタリアン協会主催のベジタリアンの集いという食事会に参加した。
場所は立川の健福(CHIEN-FU)という台湾中華菜食レストラン。
以前にも行ったことがあり美味しい。

ところでタイトルの「ベジタリアンもいろいろ」であるが実に様々である。
卵、乳製品も含め動物性食品は一切食べないビーガン・ベジタリアン、
乳製品は食べるラクト・ベジタリアン、
乳製品と卵も食べるオボ・ベジタリアンなどの人たちがいる。
さらに玄米正食やマクロビオテックや香味野菜を食べないなど細かく分けるときりが無い。

ベジタリアンになる動機も様々である。
健康上の理由のためにベジタリアンになる人、
動物愛護のためにベジタリアンになる人、
環境保護のためにベジタリアンになる人、
宗教上の理由のためにベジタリアンになる人などである。

筆者はというと、動物愛護のためになるべく肉食しないというだけで、
ベジタリアンではない。
インドにいたときや、それ以外でもラクト・ベジタリアンの時期があったが、
日本ではあまりにも煩わしいので肉食もするようになった。

是非日本でも手軽にベジタリアンでいられる環境を作りたいものだ。
例えば出汁に魚を使わないめんつゆとかの普及とか、
安くてボリュームもあるベジタリアン料理の店の普及とか。
筆者にとっての懸案である。

最後に「小説ブッダ いにしえの道、白い雲」282-283Pから引用。

ある日一緒に座っているとき、ジーヴァカが訊ねた。
「師よ、人から聞いた話ですが、あなたは比丘が肉食することをお許しになっているとか。人々がゴータマは動物を殺して自分や弟子をもてなすのを黙認していると噂し、さらには、ゴータマは人々に肉を供養するよう指図までしていると激しく非難する者さえおります。噂にすぎないとは思いますが、ご一考をいただければありがたいことです。」

ブッダは答えた。
「ジーヴァカ、噂は事実ではありません。私や比丘に供養するために動物を殺すことなど、私は容認していないのです。実のところ、この件については私は何度も言ってきました。供養するために動物を殺すのを見たら、比丘は供養を拒否しなければなりません。たとえ目の前で殺されるのを見なくても、供養のために殺したといわれたら、比丘は断らなくてはならないし、供養のために動物を殺したかもしれないという疑惑をもったら、比丘はやはり断らなければなりません。しかし、托鉢の慣行によれば比丘のために動物が殺されたのではないかぎり、何を供されてもその食物をいただくものです。人々が比丘の慈悲の誓いを理解していれば、菜食の料理を供養してくれるでしょうが、肉を使った食べものしかないとこもあります。ブッダ(仏)やダルマ(法)やサンガ(僧)に接したことがない人は、比丘が菜食を好むことを知らない場合もあるでしょう。その場合、比丘は、その人を落胆させないように、何を供されてもありがたくいただいて、その人との関係を大切にしたほうがいいのです。そうすれば、徐々に〈解脱の道〉について学んでくれるかもしれませんから。
 ジーヴァカ、比丘は動物が殺されることを望みません。人々もいつか理解してくれるでしょう。そうなれば誰も比丘に肉を供養することはなく、比丘も菜食の生活を楽しめるようになるでしょう」

ジーヴアカは言った。
「菜食は健康を増進します。体が軽くなるし、病気にも罹りにくくなります。私はもう10年来菜食を実践していますが、健康にもよいし、慈悲の心も育ちます。師よ、明快なお答えをいただけて、とても幸せです」




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