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2009/10/03 (Sat) 23:30

第二回瞑想と食事の会

星辰堂の庭


今日は「瞑想と食事の会」の瞑想会と食事会がありました。

午後は東京世田谷区羽根木公園の茶室、星辰堂で瞑想会を行いました。
緑に囲まれた環境抜群の場所でした。(写真は茶室から見た庭です)
瞑想は45分を三回行いました。
瞑想法は参加者各自の自由で、座禅をする人も歩行禅をする人もいました。
筆者は訳あって最近瞑想をしていなかったのですが、久しぶりにやってとても良かったです。

夕方は近くの喫茶店で雑談、旅行の話などが主題になりました。

夜は下北沢のポポラ・マーマというパスタ屋さんで食事会となり、
オーダーバイキングのスパゲッティとピザを食べました。
話題は瞑想の話が主体でした。
特に瞑想を始めて三ヶ月という方から瞑想中に体が自然に動くという相談を受けたので、
体が動くのは瞑想で身体感覚が敏感になってきて、
身体エネルギー(気、プラーナ)が動いているためであること、
この感覚や動きに特別な意味を与えたり執着したりしないこと、
心身は本来不可分ではあるが、しばらくは体は体、心は心で区別をして瞑想すること、
今は自己流でやっているので、きちんとした指導者についた方が安全であること、
体の感覚が敏感になってきているので、
体の感覚を観察するゴエンカの10日間の合宿がお勧めであることをアドバイスしました。
(会で話が出てきたのでもちろん無料です)

会は来月も開催予定です。
興味のある方はミクシィコミュニティ「瞑想と食事の会」へ是非ご参加ください。
http://mixi.jp/view_community.pl?id=4333648
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2009/10/10 (Sat) 21:00

ベジタリアン考

先日、日本ベジタリアン協会東京支部の定例会へ出席した。
以前ベジタリアンもいろいろにも書いたが、筆者はベジタリアンではない。
肉はなるべく食べないようにしているだけである。
従ってかなり後ろめたい気持ちだったがそれでも出席したのは訳がある。

ベジタリアンになる人の理由はさまざまだが、大きな理由は3つである。

1.健康のため
2.動物の命を尊重するため
3.食糧問題、環境問題に貢献するため

筆者の場合は、主に動物を尊重するために食べない。
また食糧問題や環境問題も重視している。
従って、自分だけベジタリアンになっても意味があまりないのである。
肉食は社会問題だと考えている。

しかし現実はベジタリアンでいることは大変な苦労が伴う。
蕎麦の出汁にも気を使わなければならず、
外食や人に出された場合などにも拒否するのも大変である。
またどうしてもラーメンが食べたくなるときもある。
結局筆者の場合は極端な生活にならざるをえず、挫折した。

このように挫折した人は他にもたくさんいる。
ある若いマイミクはこう日記に書いていた。
東京ベジタリアンフェスティバルに行ってみたが、高くて量が少ない。
これなら貧乏人はマクドナルドへ行く。

またベジタリアンの伝統のあるインドでも、
6割の人がベジタリアンであるが、
言い換えると4割の人たちはノンベジである。

これが現実で、肉食をゼロにすることはまず不可能なのである。

そこで、できるだけ肉食しないことを普及させることに何か協力できないかと思い、
後ろめたいながらベジタリアン協会の定例会に出席することにした。
この問題についてはまた書いていきたいと思う。

関連記事
ベジタリアンもいろいろ

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2009/10/14 (Wed) 21:00

人間の雑食性

人間は雑食動物だとよく言われますが、どの程度の雑食なのかを考察してみます。

人間が道具を持たない時代は雑食と言っても、
せいぜい昆虫や鳥の卵くらいで、大型動物や海産物はもちろん、
小型動物さえ食べる機会はあまりなかったと考えられます。

つまり類人猿の食性に近かったはずです。
類人猿でもゴリラなどは完全な菜食です。

歯の形状や消化器官などを見ても、人間は肉食にはあまり適していません。

つまり人間は肉も食べられると言う程度の雑食で、
本来肉や魚は必要ないのです。
日本でも江戸時代までは一部の地域や階級の人たちを除いて、ほとんど菜食でした。

現代は肉や魚を食べすぎです。
味覚を満足させるために食べている場合がほとんどです。

厳格なベジタリアンも堅苦しくて大変ですが、
感覚を満足させるために動物の自由や命を奪うのは避けるべきでしょう。

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2009/10/17 (Sat) 21:00

シュリ・シュリ・ラヴィシャンカール講演会

昨日シュリ・シュリ・ラヴィシャンカール講演会へ行って来ました。
今回の記事は講演会の概要です。

先ず導入で少しお話があり、
次に全員席から立ち上がって簡易ヨガというかマッサージなどをやりました。

その次が瞑想。
注意としては、瞑想は集中ではなく、集中を解くことだということと、
思考が訪れても無理に追い払おうとしてはいけないということがありました。
これは筆者自身も最近忘れかけていたことなので、我に返った思いでした。
瞑想中は心の中でなにをするかについてのいろいろな指示がありました。
20分間でしたが、あっと言うまでした。

その後講演。
東京にセンターを作りたいので、やってくれる人を募集ということでした。
帰り際に筆者も名前とメールアドレスを書いてきました。
都心に小さなセンターを作り、郊外に大きな施設を作るということでした。
呼吸法と瞑想を行い、人々を救おうということでした。

その他印象に残ったことは、女性と男性へのアドバイス。
女性には、男性をほめてあげてください、
男性には、女性の感情を大切にしてあげてください、ということでした。

会場の外では日本語訳の新刊が3種類もでていて、
いよいよ日本でも本格的に活動が始まりそうな雰囲気でした。


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2009/10/28 (Wed) 21:00

瞑想は集中ではない

瞑想は集中ではありません。
瞑想とは集中を解く事です。
(シュリ・シュリ・ラヴィシャンカールの言葉)

このことはクリシュナムルティもオショウ(ラジニーシ)も言っています。
集中を使う瞑想法もありますが、究極的には瞑想は集中ではありません。

集中とは対象以外の物の「排除」です。
瞑想とはあらゆる物事の「受容」です。

リラックスしてあるがままを受け入れて気づく、これが瞑想です。
ですから瞑想は本来精神的に疲れることはありません。

リラックス、受容、気づき、これが瞑想です。
集中はその対極にあります。

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2009/10/31 (Sat) 21:00

ダライ・ラマ講演会

ダライ・ラマ14世


今日ダライ・ラマ講演会「さとりへ導く三つの心と発菩提心」へ行って来ました。
今回の記事はその概要です。講演はチベット語で行われました。

先ず初めに般若心経の読経がありました。

講演の前半は以下のような内容でした。
現代は物質的豊かさだけでなく、心の平和を求める時代になりました。
世界には宗教を受け入れる人と受け入れない人がいますが、
そのどちらも心の平和と愛と慈悲が大切だと認めています。
愛と慈悲は宗教に関係なく必要なのです。
争いがなぜ起こるかを考えて見ましょう。
争いは自分と他人との間に境界を作ることに原因があります。
自分と他人との間に境界を作らなければ、他人を自分と同じように愛せば争いは起きません。
そのためには、相手の立場になって考えるということが必要です。
また自分を害する人に対しても慈悲の心を持つようにすることが大切です。
害をなす人はいつかその報いを受けます。
そのことに対して理性で慈悲を持つようにしましょう。

次はこれに関連して、自我の話になりました。
自我に関連する3つの問いについてです。
1.自我は実体として存在するのか
2.自我に始まりはあるのか
3.自我に終わりはあるのか
これらについて、仏教や他の宗教ではどう考えられているのかの客観的解説がありました。
内容については難解かつ多岐に渡るので割愛します。

後半は講演のテーマである、さとりへ導く三つの心と発菩提心の話になりました。
三つの心とは以下の三つです。
1.出離の心
2.菩提心
3.正しい見解

出離の心とは、輪廻の快楽と苦しみから離れて、今世や来世への執着をなくすことです。
ここで苦には三つに分類できるという話がありました。
1.苦痛による苦
2.変化による苦
3.普遍的な苦
この分類は初耳だったので新鮮でした。

菩提心とは、利他の心と、利他のための方法手段として一切地の悟りを求める心です。
愛と慈悲の心が必要であるということです。

正しい見解とは、ものごとのありようを正しく見、究極的には空を理解する智慧です。
出離の心や菩提心を育んでいても、ものごとのありようを正しく理解する智慧がなければ、
輪廻の源を断ち切ることはできません。
空とはなにかについても解説がありました。
空とは、ものごとは縁起(互いの関連性)の上に成り立っていて、
それ自体で実体として存在するものはなにもないということです。
しかしそれ自体で実体として存在していないというだけで、非存在ではありません。

以上、出離の心、菩提心、正しい見解の三つの心が修行には必要だという内容でした。

最後に十人弱の人たちの質疑応答がありましたが、多岐に渡るので割愛します。


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