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2009/11/04 (Wed) 21:00

乳牛の生涯

肉牛と違い、のんびりと草を食べ平和な生涯を送る印象のある乳牛ですが、
実態は違います。
このような乳牛はごく一部の限られた牛のみで、実際には過酷な運命が待っています。

牛は生れるとすぐに親から離され、親は子の姿を見ることもできません。
オスはすぐに出荷され、肉牛として育てられ、1年後には肉となります。
メスは乳牛として育てられますが、牛乳は与えられません。
牛乳は人間が飲むので、肉骨粉などが含まれた人工乳を与えられます。
角や尻尾は邪魔なので、切られる場合もよくあります。
ある程度成長すると狭い牛舎に一頭づつ隔離して入れられます。
ほとんど身動きできない狭い牛舎ですが、牛舎によってはさらに、
身動きすると電気ショックが与えられるようにしてあるところもあります。
牛は出産しないと乳を出さないので、何度も人工授精させられます。
乳がよく出るようにホルモン剤などが大量に投与されます。
清潔にしてある牛舎もありますが、不潔な牛舎もよくあります。
狭いところに閉じ込められているので、当然病気にもよくかかります。
また飼料は草ではなく、牛乳がおいしくなるよう穀物が与えられます。
穀物は牛にとっては不健康な餌で、これも病気の原因となります。
牛にとって不健康なだけではなく、食糧問題や環境問題の原因ともなっています。
牛の寿命は約20年ですが、数年で廃牛となり、やはり肉となります。

人間が食べている肉や乳製品はこのように大きな問題を抱えています。

なによりも映像で見た牛の眼、あまりにも哀れで残酷でした。
肉牛や豚や鶏も推して知るべしです。
肉や乳製品はなるべく控えましょう。
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社会・科学  |  トラックバック(0)  |  コメント(0)  |  ↑Top

2009/11/11 (Wed) 21:00

自分自身を誤魔化してはいけない

仏教では人は貪瞋癡(とんじんち、欲望、怒り、無知)を滅するべきだとされています。
これは当然と言えば当然のことなのですが、修行者が陥りやすい罠について書きます。

避けるべき罠は、貪瞋癡を無理やり押さえつけて、自分自身を誤魔化してしまう事です。
貪瞋癡は悟る(大悟する)までは必ずあります。
欲望、怒り、嫌悪、高慢などを表に出さないようにすることは悪いことではありませんが、
それらを押さえつけて、それらがなくなってきたと自分を誤魔化してはいけません。
それは単なる偽善となるばかりではなく、自分自身を見失うからです。

では貪瞋癡が心に生じたらどうすれば良いのでしょうか?
先ずすべきことはそれを認め、観察し、受け入れることです。
現在の己自身をそこで認識するのです。
もしそれで済んでしまい、一時的にでも消えてしまえばそれが最良です。

消えてしまわない場合は対処方法がいくつかあります。
どういう方法が良いかはケースバイケースで判断は難しいところです。

自分自身でなんとかできそうなら、生じた貪瞋癡をじっくり味わって消化しましょう。
自分自身でどうにもならないなら、信頼できる人に話を聴いてもらいましょう。
それでもどうにもならない場合は、表面に出さざるを得ません。

しかし抑圧して自分自身を誤魔化すことだけは避けるべきです。
決して表面的にだけ道徳的な偽善者になってはいけません。
根底に存在する貪瞋癡が、闇の中で成長するだけです。

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2009/11/18 (Wed) 21:30

瞑想の失敗

瞑想がうまくいかない、失敗したということをよく聞きますが、
どういう場合に瞑想が失敗したというのでしょうか?
ある意味、瞑想に失敗ということはないとも言えます。

瞑想学基礎で書いたように、瞑想とは心を安定させることと自己観察です。
これさえできていれば瞑想に失敗ということは基本的ないとも言えます。

自己観察ができていなくても心を安定させることができればそれで良いですし、
心を安定させることができなくても己をより深く知ることができればそれで良いのです。

従ってこの2つを意識していれば、
瞑想が全くうまく行かないということは、基本的にありません。

ただし、瞑想が失敗というケースももちろんあります。
1つは眠ってしまったとき、もう1つは早く終わることばかり考えているときです。

眠ってしまってもそれで心が安定すればそれはそれでも良いとも言えますが、
瞑想は眠りではなく覚醒です。
眠ってしまうことはなるべく避けるべきです。
ただし初心者の内は眠ってしまうことはある程度避けられないので、
神経質になりすぎてもよくありませんが。

もう1つの早く終わることばかり考えること、これは絶対に避けるべきです。
もちろん体が痛いとか、落ち着かないとか、早く終わりたいケースは多々あります。
その場合でも、例えば痛みとは何かとか、落ち着かないのはなぜかとか、
終わらせたい心や体を観察して、終わることばかり考えるのは避けましょう。
そうでなければただ苦痛なだけで、何の意味もありません。

これらを踏まえておけば瞑想に失敗はありません。
もちろん危険な瞑想法や妄想法など瞑想とは言いがたいものも存在しますが、
それらはここでは瞑想に含めていません。

心を安定させること、自己観察、この2つを心に留めて瞑想すれば、
瞑想に失敗は基本的に存在しないと言えます。

瞑想・慈愛  |  トラックバック(0)  |  コメント(8)  |  ↑Top

2009/11/21 (Sat) 21:00

集中についての考察

以前瞑想は集中ではないで瞑想の本質は集中ではないと書きましたが、
集中について詳しく書いて欲しいというご要望をいただきましたので、
少し難解ですが、集中とは何かについてもう少し深く考察します。

通常集中と呼ばれている行為は以下の2つから成り立っています。
1.対象以外に意識を向けず、対象以外からの情報を「排除」すること
2.対象に意識を向け、対象からの情報を「受容」すること

瞑想は集中ではないでは「集中は排除」「瞑想は受容」だと書きましたが、
その定義によると「いわゆる本当に集中している」状態、
言い換えれば没頭している状態は、
排除と受容の両方のレベルが高い状態だと言えます。

では受容するため、言い換えれば瞑想するためには、
排除、言い換えれば集中は必須でしょうか?
そうとは言い切れません。

例えばスポーツを例に考えて見ましょう。
ボールに意識を向けながら、ボールにいわゆる集中しながらも、
同時に相手の動きも良く見えている場合があります。

つまり意識の幅・大きさが広がれば、
排除なしにより多くのものを受容することが論理的には可能です。

しかし実際には人間の意識の幅・大きさは限られています。
排除する部分が多ければ多いほど、
受容している部分の情報精度が高くなるのが普通です。
従って受容したい部分の情報精度を高くしようとすれば、
必然的に他の部分の排除がある程度必要となります。

従って瞑想(受容)するためには、
集中(排除)から入るのが一般的なテクニックとなります。


結論として以下の事が言えます。
瞑想(受容)するためには集中(排除)は論理的には必須ではない。
しかし実際問題としては精度の高い受容するためには排除が必要となる。

さらに重要な結論として、以下の事が言えます。
排除をなるべく減らし、かつ受容の精度を高めるためには、
意識の幅・大きさを拡大することが必要。
これがいわゆる気づきを増すことであり、意識を高めることでもあります。

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2009/11/25 (Wed) 21:00

二大政党制の欠点

二大政党制は、現在民主主義の理想のように考えられている節がありますが、
二大政党制には大きな問題点、デメリット、というか欠陥があります。

社会主義政党と資本主義政党のようにはっきりとした方向性が違う政党が
二大政党として存在する場合は意味がありますが、
価値観や政策が多様化した場合、
政党によって政策を選ぶことが不可能となるためです。

例えば、政党Aは沖縄基地移転賛成で消費税増税賛成、
政党Bは沖縄基地移転反対で消費税増税反対とします。

ここで、沖縄基地移転は賛成だが消費税増税は反対の人、
または逆に、沖縄基地移転は反対だが消費税増税は賛成の人は、
どちらの政党も選ぶことができなくなってしまいます。

つまり政党は二つでは足りなくなり、
懸案事項の組み合わせの数だけ政党が必要となります。

しかし懸案事項ごとに政党を作ることは全く現実的ではありません。

この問題を解決するには2つの事が必要です。
1つは党議拘束をなくし、議員個人の判断で政策を選べるようにすること、
もう1つは議題によっては国民投票を行うことです。

政党という集団主義的な政策決定方法はもう意味を失いつつあり、
個人の判断がもっと重視される時代へと移り変わる必要があります。

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