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2009/12/02 (Wed) 21:00

ダンマパダに始まり般若心経に終わる

仏教はダンマパダに始まり般若心経に終わる、これが筆者の持論です。

ダンマパダは日本語では「法句経」と呼ばれ、
岩波文庫では「真理のことば」(中村元訳)とタイトルされています。

般若心経は日本で最も知られているおなじみの短いお経です。

従来よくあるこの2つのお経の評価ですが、
ダンマパダを評価する人は般若心経を評価せず、
般若心経を評価する人はダンマパダを評価しないというのが通常です。

なぜならダンマパダは主にテーラワーダ仏教(上座部仏教)で評価され、
般若心経は主に大乗仏教で評価されているからです。

テーラワーダ仏教では、ダンマパダはブッダの生のことばであり、
日常生活の心構えや生き方を具体的に書いたものとして高く評価しますが、
般若心経は後世の偽作で意味もはっきりしないとして評価しません。

大乗仏教では、ダンマパダは小乗仏教(テーラワーダ仏教の蔑称)の
低い教えとして評価しませんが、
般若心経は空の教えを短く説いた傑作であり、
また最後のマントラを意味も解らずご利益があるものとして評価します。

しかし両者は対立するお経ではないのです。

ダンマパダは日常生活の心構えや生き方を解りやすく説いており、
具体的に実生活で役に立ちます。

般若心経は自分自身や一切の物事は空である、
すなわち常に変化し核となる実体がないものであると理解すれば、
一切の苦を離れ涅槃に達することができると説き、
そのためにはヴィパッサナー瞑想(観の瞑想、自己観察瞑想)を
しっかりやることが最も重要だと説いています。

従って、仏教はダンマパダに始まり般若心経に終わる、
という筆者の結論に達するのです。

ダンマパダは「困った時はダンマパダ」というブログサイトがお勧めです。
http://76263383.at.webry.info/
般若心経の解釈は当ブログのカテゴリ「般若心経」シリーズがお勧めです。
http://cyberbaba.blog57.fc2.com/blog-category-1.html

両者あわせて2つのお経を良さを味わい、
テーラワーダ仏教、大乗仏教の枠を超えた、
仏教の真髄を理解していただきたいと思います。

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2009/12/05 (Sat) 21:00

直感と思考(右脳派と左脳派)

今回は直観と思考についてです。
直に観る直観ではなく、インスピレーション、ひらめきの方の直感です。

世の中ではよく、直感に頼る人は論理的思考を行わず、
思考に頼る人は直感が鈍いと思われています。
右脳派、左脳派などとも言われます。

しかしそんな単純なものでしょうか?
もちろんどちらかに偏っている人はたくさんいますが、
だれでも両方の要素をもっています。

先ず直感がどの程度頼れるのかを考察してみましょう。
ピーンと来た直感というのは当たる場合が多いのです。
しかし、100%当たるわけではありません。
比較的直感力に優れている人でも結構外れるのです。
従って直感を妄信するのは良くないことなのです。

にもかかわらず直感は必要です。
直感が必要なのは2つの理由からです。

1つは、思考とは時間を必要とするからです。
熟考していては間に合わない場合は、直感に頼らざるを得ません。

もう1つは、思考とは過去の記憶の蓄積からの産物なので、
新しい状況に対応したり、新しいアイデアを生み出すことが
困難な場合があるからです。

理想的なのは、直感が鋭く、かつ論理的思考を使ってその裏づけをできることです。
偉大な発明者や研究者や芸術家などは両方に優れています。

ステレオタイプに右脳派、左脳派などというのではなく、
両者をバランスよく磨いて使うべきでしょう。

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2009/12/09 (Wed) 21:00

判断と決断

前回の直感と思考(右脳派と左脳派)に少し関連して、
今回は何か行動を起こす際の判断と決断についてです。

判断と決断はどう違うのでしょうか?

判断とは、情報や経験と判断するための時間が十分にあり、
考えて結果が予想できる場合を判断と呼びます。

決断とは、情報や経験または判断するための時間が十分になく、
考えて結果が予想できない場合を決断と呼びます。

つまり、判断は思考、決断は直感に頼るということになります。

実際には、完全にどちらか片方だけということは先ずないでしょう。

特に結果が完璧に予想できることは先ずないので、
決断の要素は常に多少はあると言えます。
そして結果が予想できないのに行動を起こすことには勇気がいります。


しかし通常の人たちは普段、判断も決断もあまりしていません。
ただ機械的にルーティンワークをしているだけです。
もし気づきがあれば、生きていることは判断と決断の連続となるはずです。

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2009/12/12 (Sat) 22:30

無為自然

中国の代表的な思想の一つであるタオイズム(タオ、道)の基本は無為自然です。
おそらく禅などにも影響を与えたのではないかと考えられます。

今回は無為自然について書いてみます。
(そんなことすること自体、無為自然ではないと突っ込まれそうですが・・・)

タオでは何かになろうとする作為が不幸を生み出すと考えています。
なんでもないありのままの自分で自然でいることが一番であると言っています。

これはおそらくそのとおりだと思います。
人間の浅知恵でいくら考えても何をやっても、
どこへも行き着くことはできないかもしれません。
クリシュナムルティが全ての瞑想は無意味であると言ったのとも似ています。
オショウ(ラジニーシ)もタオを高く評価しています。

では努力や修行などというのは無意味なのか?
究極的にはそうでしょうが、現代の一般人にとってはそうではないでしょう。
なぜなら、通常は作為の中に生きていて、全く自然ではないからです。
ですから、無為自然になる努力や修行が必要だという矛盾したことになるのです。

これは自然に還ろうというブームがあることからも分かります。
自然に還るには努力が必要なのです。

瞑想修行も同様です。
瞑想とは心を安定させることと自己観察です。(瞑想学基礎をご参照ください。)
こんな簡単で根本的なことは子供でもできます。
しかし実際には大変な努力が必要な場合が多々あります。
それは思考という作為の中に通常の人たちは住んでいるからです。

無為自然、本当にこのように生きられるようになったとき、
いわゆる瞑想も自然と努力なくできるようになり、
また努力や修行も必要もなくなるのではないでしょうか?
しかしそうなるまでは積もった垢を落とす努力や修行が必要だと考えられます。


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2009/12/16 (Wed) 21:00

努力は報われるのか

前回の無為自然に関連して、努力は報われるのかと言うことを考察してみます。

結論から言うと、相対的な何かを求めること、
つまり人との比較において何かを求める努力は最終的には報われないでしょう。
報われたとしても、それは一時的な満足に過ぎません。
必ずそれを超える人がいつかは現れます。
人と比較する、そこにエゴが存在し、
エゴは決して報われることはありません。

では絶対的な何かを求めること、例えば覚りを求めることは報われるのでしょうか?
それも徒労に終わることがほとんどでしょう。
絶対的な何かを求める動機を見極める必要があります。
絶対的な何かを求める場合でも、
現状に満足していないから、より何かを求めるのです。

絶対的だと思っていても、そこには現在の自分との比較があります。
比較があるとき、そこには必ず不満があります。

何かを達成しようとする心、何かを得ようとする心、
その心そのものが不満の裏返しであり、
財産を得ようとするような俗世の欲望となんら変わることがないのです。
そしてそのような欲望は必ず失敗に終わると、
古今の賢者達が証言しています。

現在の瞬間に満足する、そういう心がけがない限り、
如何なる努力も最終的にはどこへも到達することができないでしょう。

努力自体を楽しむこと、それは悪戦苦闘するいわゆる努力ではなく、
現在の瞬間に満足して楽しむ無為自然な努力、
そういう努力以外の努力は報われることは決してないでしょう。


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2009/12/19 (Sat) 21:00

思い煩うなかれ

クリスマスも近いのでキリストの言葉です。

だから、言っておく。
命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。
命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。
烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。
だが、神は烏を養ってくださる。
あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか。
あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、
寿命をわずかでも延ばすことができようか。
こんなごく小さな事さえできないのに、なぜ、ほかの事まで思い悩むのか。
野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。
働きもせず紡ぎもしない。
しかし、言っておく。
栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、
神はこのように装ってくださる。
まして、あなたがたにはなおさらのことである。信仰の薄い者たちよ。
あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。
また、思い悩むな。

ルカによる福音書 / 12章 22-29節より


思えば人々はいかに些細なことに思い煩っていることでしょう。
何を着るべきか、何を飲食すべきか。

神は(という言葉が嫌いなら、存在は、世界は)すべてを賄ってくれているのです。
にもかかわらず身を飾るため、またはステータスを表すために衣服のことで思い悩み、
感覚を満足させるため、または健康のため、つまりわずかでも寿命を延ばすために、
食べ物のことで思い悩む。

まったく些細で意味がないことなのです。
普通にしていればそれで良いのです。

必ずどうにかなるのです。
どうにもならないときは、そのときはそのときなのです。
すべては神の意思、という表現が嫌いなら、無常なのです。
思い煩ってもしかたがないのです。
思い悩まず無為自然に生きることが幸福なのです。


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2009/12/23 (Wed) 21:00

過去のトラウマを消せない人のための瞑想

過去を振り返ることなく、未来を心配することなく、ただ現在を生きよ。
よく言われることで、また真理でもありますが、
どうしても過去のトラウマに支配され、現在を生きることができない人もいます。

それは未完結の過去の行動の痕跡が残っているためです。
完結された行動、つまり純粋に意識的に生きた行動は、心理的な痕跡を残しません。
未完結の行動がトラウマとなり、それに捉われるようになるのです。

ですからどうしても過去に思いを馳せ、現在に生きることができない人は、
まず過去のトラウマを消すことが必要となります。

具体的な方法を書きます。

毎晩1時間、過去に遡ることを日課にし、
完全に冷めたまま、もう一度過去を生きなおします。
やろうとしてもどうしてもできなかったこと、
たとえば親への反抗、片思いの恋人との一時を、
心の中で思い残すことがなくなるまで完全に生きます。

するとそれらの未完結な思いは消えていきます。
どうしても過去に捉われてしまう人は、
無理に現在に生きようとする前に、
先ず過去への思いを消し去ってしまいましょう。

詳しくは追記をお読みください。

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2009/12/30 (Wed) 21:00

瞑想と超能力

瞑想で超能力はつくのか?
こんな疑問を持たれる人もいるでしょう。

しかし瞑想に超能力を求めるのは邪道です。
これまで何度も書いてきているように、
瞑想とは心を安定させることと自己観察です。
両方とも超能力とは関係ありません。

では瞑想で超能力はつかないのかというと、人によります。
超能力をつけるための本来瞑想とはいえない瞑想をやっている人はもちろん、
そうでない真っ当な瞑想を行っている人でも超能力がつく場合があります。
それは瞑想によって心が安定し心の深いところに達すると、
眠っていた潜在能力が開発される可能性があるからです。

またそういう超能力でなくても、観察力・洞察力は確実に高まります。
そのため他人から見ると「あの人なんでも分かっちゃう」という状態になる人もいます。
しかしこちらの方はいわゆる超能力でもなんでもありません。


よくある問題に、超能力のある指導者を信頼して良いかということがあります。
一般的に言えば、超能力を売り物にする指導者は信頼しない方が良いでしょう。
何度も書きますが、瞑想とは心を安定させることと自己観察です。
それを重点にしない指導者は信頼に値しないでしょう。

以前スピリチュアリティの本質で書いたように、本当にスピリチュアルな人とは、
思い込み・こだわり・執着が無く、
物事(特に自分自身)の本質をあるがままに洞察する智恵を持ち、
全ての生命に対する慈悲の心を持ち、エゴ、自分が無い人です。
超能力のあるなしではなく、そこを指導者選びの判断基準にすると良いでしょう。

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