QLOOKアクセス解析

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

スポンサー広告  |  ↑Top

2010/01/02 (Sat) 21:00

100%正しい教えは存在しない

100%正しい教えというのは存在せず、また100%間違った教えというのも存在しない。
これが筆者の基本的考え方です。

その理由は2つあります。

どんな聖人賢者であっても多少の間違いはあるはずです。
ブッダにもオショウ(ラジニーシ)にもクリシュナムルティにも、
ピンと来ない部分がいくつかあり、また明らかな間違いもあります。
例えばオショウがタイチーのチーはチーコンのチーであると言ったことがあります。
タイチーとは太極でチーコンとは気功のことです。
アルファベットに音訳してしまうとどちらもチーですが、
太極の極と気功の気では意味が違い、明らかな間違いです。
いろいろ探していき、そして自分自身の理解が深まれば、
ブッダにもクリシュナムルティにもおそらく間違いはあるでしょう。

また賢者たちは対機説法を使います。
特定のその時のその人にしか通じない説法です。
分かりやすく言えば、ある時ある人に右に行きなさいと言ったとします。
右に行くことは、その時のその人には正しいのですが、
別の時または別の人は左に行かなければならないのかもしれません。
もしかするとまっすぐ行くべきなのかもしれませんし、
もしかすると戻るべきなのかもしれません。
ですから、すべての教えが自分に適合しているとは限りません。

よって賢者たちは、
「いまこの瞬間」「臨機応変」「自分で確かめよ」ということを強調します。
やみくもに教えに従う必要はないのです。
というよりやみくもに従ってはいけないのです。

反対に、間違ったことが多い教えの中にも、正しいことは必ず含まれているはずです。
いくつか間違いがあるといって、その教え全てを完全に否定する必要はないのです。
結局、自分自分で吟味しながら良いとこ取りをしていくのがベストなのです。
そういう方針で今後もブログを書き進めていく予定です。

最後にオショウの言葉の引用です。

私は月を指す指である。
月に向かって行きなさい。
指に来てはいけない。

スポンサーサイト

瞑想・慈愛  |  トラックバック(0)  |  コメント(16)  |  ↑Top

2010/01/06 (Wed) 23:30

チャクラ

chakra.jpg

今回はチャクラとは何か、覚りと関係があるのかについての考察です。

先ずチャクラとは何でしょうか?
ヒンドゥーの教義によると、
チャクラとはプラーナ(気、生体エネルギー)のジャンクション(交差点)です。
伝統的には7つあるとされていますが、
もっとあるとか、もっと少ないと主張する人もいます。
これらはおそらくすべて正しいのです。
ジャンクションだとすると、プラーナはあちこちに向かって流れていますから、
ジャンクション自体は無数にあるはずです。
そのなかで目立つ大きなジャンクションが、伝統的な7つだと考えられます。

そしてこれらのチャクラは想像上のものではなく、
多くの人が実感として体感しているはずです。
子供のころを思い出してみましょう。
悲しい思いをして胸が詰まった経験はないでしょうか?
それが胸のチャクラ、アナハタチャクラです。
何か言いたいのに何も言えなくて、喉が詰まった経験はないでしょうか?
それが喉のチャクラ、ヴィシュダチャクラです。

このようにチャクラは実際に存在しており、
チャクラを活性化させることにより、プラーナの流れが良くなり、
体も心も健康になります。

では次に、チャクラは覚り、つまり一切の苦から解放されることと、
何か関連はあるのでしょうか?
チャクラが何らかの感覚で感じられるということは、自己観察が進んでいる証拠です。
またチャクラが活性化されるということは、心身が健康になることを意味します。

しかし、それだけといえばそれだけのことなのです。
いくらチャクラを体感できようが、活性化させることができようが、
四苦八苦から完全に解放されるわけではありません。
すべての苦から解放されるには、自己の本質を洞察する必要があるでしょう。

したがって、チャクラは覚りに無関係とは言わないが、
一般に思われているほど深い関係はなく、
またチャクラに捉われることは執着となり、
覚りから遠ざかる可能性もあるというのが、筆者の見解です。


ヒンドゥー  |  トラックバック(0)  |  コメント(8)  |  ↑Top

2010/01/09 (Sat) 21:00

クリシュナムルティの瞑想

krishnamurti.jpg


以前全ての瞑想は無意味であるで、
クリシュナムルティはいわゆる瞑想を一切否定したと書きましたが、
誤解を招く書き方だったため、いろいろご意見ご質問をいただきましたので、
クリシュナムルティの言う瞑想とは何かを、あらためて書くことにしました。

クリシュナムルティが否定したのは、「いわゆる」瞑想、
つまり座って目を閉じてじっとしている瞑想「法」で、
瞑想自体を否定したわけではありません。

クリシュナムルティにとっての瞑想とは、ただ観察し理解すること、
つまり純粋なヴィパッサナー瞑想のことです。
またその純粋なヴィパッサナー瞑想を、日常の人間関係においても行うことで、
自分の心を直接理解することが瞑想なのです。

またクリシュナムルティにとって、そこにはメソッドやテクニックも必要ないのです。
ただ観察して理解するだけなのです。
それがクリシュナムルティが一切の瞑想を否定したという意味で、
瞑想自体を否定したわけではありません。

以下「自我の終焉―絶対自由への道」よりクリシュナムルティの言葉の抜粋をします。

「瞑想とは何でしょうか。確かに瞑想は理解することです。つまり心の瞑想とは理解することです。」
「瞑想の出発点は自己認識です。そしてこの自己認識は、思考や感情のすべての動きを凝視し、表面的な上層ばかりでなく、奥深いところに隠れている下層の活動も含めて、私のあらゆる意識を知ることなのです。」
「精神は、それ自身の活動の正確な意味を理解し、それによって精神に静寂をもたらさなければならないのです。しかし単なる訓練や強制や鍛錬によって、その静寂と沈黙を得ることはできません。」
「精神自身の活動を理解し、それを注意深く観察し、凝視し、精神の無慈悲な働きや、召使や妻や娘や母親などに対する話し方などを見つめることによってのみ、精神は静寂と平和と沈黙をもたらすことができるのです。」
「瞑想は自己認識であり、自己認識がなければ瞑想はないのです。もしあなたが絶え間なくあなたのすべての反応を凝視することもせず、またあなたの毎日の活動を注意深く見守りもしないで、ただ瞑想するために部屋に閉じ籠もって、あなたの精神的指導者や師の写真の前に座っているだけなら、それは逃避に過ぎないのです。」
「完全に凝視している人が、本当の意味で瞑想しているのです。」
「精神の全過程についての理解は、分析や内省によって生れるものではありません。」


誤解を招く表現をして申し訳ありませんでした。

関連記事
全ての瞑想は無意味である
真の瞑想は人間関係の中にある
オショウ(ラジニーシ)の瞑想


瞑想・慈愛  |  トラックバック(0)  |  コメント(4)  |  ↑Top

2010/01/13 (Wed) 22:00

オショウ(ラジニーシ)の瞑想

Osho2.jpg

前回クリシュナムルティの瞑想で、
クリシュナムルティが瞑想をどう捉えていたかを書きましたが、
今回はオショウ(ラジニーシ)が瞑想をどう捉えていたかについて書きます。

かなり誤解される可能性があるので書くことを躊躇しましたが、
クリシュナムルティの瞑想に触れてオショウの瞑想に触れないのは片手落ちなので、
(この二人が二十世紀精神世界の最大の偉人なので)
誤解を怖れず書くことにしました。

一切の瞑想「法」を否定したクリシュナムルティに対し、
オショウは様々な瞑想法を考案しています。
またクリシュナムルティが論理的に直線的に瞑想を含めた真理を説こうとするのに対し、
オショウは論理が嫌いで、様々な方便やたとえ話、さらにはジョークなども交えて、
人々の興味を引きつけながら理解させようとします。
一見二人の瞑想は異なっているように見えますが、
実は瞑想の本質については、二人の見解は全く同じと言ってよいでしょう。

オショウはこのようなことを言っています。
「クリシュナムルティは実に正しい。
 私にはそれが理解できる。
 しかしあなた方にはそれは役に立たない。
 だから私は様々な方便を使い、様々な瞑想法を考案したのだ。」

オショウの説く瞑想とは、本質的には観察・理解と静寂・無心で、
本質的にはクリシュナムルティや仏教と同じです。

オショウの考案した瞑想の多くは、
1セッションの瞑想をいくつかのステージに分け、きっちりと時間配分をし、
体を使うものが多いのが特徴です。

体を動かすステージで自己観察をしながらエネルギーを解放させ、
静寂のステージでほっとした気分で伝統的な瞑想を行う、
だいたいそのような構成になっていて、
瞑想初心者でも自然に瞑想できるように合理的に構成されています。

オショウが自己観察とともに重視したのが静寂・ノーマインドです。
クリシュナムルティの言う思考のない状態です。
伝統的にはサマーディや無心と言われる状態です。

しかしオショウは、サマタ瞑想(心を安定させ静寂にする瞑想)と
ヴィパッサナー瞑想(自己観察瞑想)を分けることはしません。
自己観察の中に静寂を求め、静寂の中で自己観察をします。

例えばこんな具合です。
「思考が沸き起こって来ても、空に雲が流れるようにただ見つめなさい。
 雲の切れ目に青い空、静寂を感じることができるだろう。」

オショウはオショウ派の人からも反オショウ派の人からもひどく誤解されていますが、
他の教えと併せて理解するとその素晴らしさがよく理解できます。

最後にオショウの言葉の引用です。

私の方便だけは私の死後でも通用すると思うほど、私はお人よしではない。



関連記事
クリシュナムルティの瞑想
瞑想学基礎
オショウ式ヴィパッサナーの特徴
オショウ(ラジニーシ)は欲望怒りを肯定しているか?

参考URL
OSHO.com メディテーション
http://www.osho.com/main.cfm?Area=Meditation&Language=Japanese



瞑想・慈愛  |  トラックバック(0)  |  コメント(0)  |  ↑Top

2010/01/16 (Sat) 21:00

オショウ(ラジニーシ)は欲望怒りを肯定しているか?

Osho3.jpg

前回オショウ(ラジニーシ)の瞑想で、
オショウはかなり誤解されていると書きましたが、
最も誤解されていると思われる点について書きます。

よく誤解されるのは、オショウは欲望や怒りを肯定しているという点です。
セックスグルというあだ名もあるくらいです。

オショウは覚れば(大悟すれば)欲望や怒りはなくなるし、
また無くすべきだと言っています。
しかし覚るまでは欲望や怒りはなくならないので、
抑圧して誤魔化すべきではないと言っているだけです。

オショウは自分の考案した様々な瞑想法の中で、
欲望や怒りをカタルシスとしてストレス解消し、
消化し昇華できるように工夫しています。

しかしそれでも解消できない欲望や怒りについては、
日常生活で押さえつけずに体験し観察することにより昇華することを説いています。
例えばセックスするときや怒るときはトータルでありなさい、という表現です。
体験し観察し理解すれば、欲望や怒りは自然に落ちていくものなのです。

オショウが誤解される大きな理由は、
オショウの言葉に過剰な拒否反応を起こした反オショウ派の人たちと、
オショウの言葉を自分に都合の良いように解釈したオショウ派の人たちにあります。

オショウ派の人たちの一部は、言葉だけ「トータルに生きる」と言って、
実際には欲望や怒りをじっくり観察することもなく、欲望や怒りを撒き散らしています。
彼らにとっては「悟っていないからしかたない」というのが免罪符になっていて、
悟っていないから欲望や怒りを他人に対して発散しても良いと思い込んでいます。

しかし以前自分自身を誤魔化してはいけないで書いたように、
本当は外に出さずに自分の内側で欲望や怒りを消化した方が良いのです。

オショウは覚るまでの「過程」として、
欲望や怒りを体験し味わい消化した方が抑圧するより良いと言っているだけで、
いつまでも欲望や怒りを抱えていることを勧めているわけではありません。

関連記事
オショウ(ラジニーシ)の瞑想
自分自身を誤魔化してはいけない
オショウ式ヴィパッサナーの特徴
過去のトラウマを消せない人のための瞑想


瞑想・慈愛  |  トラックバック(0)  |  コメント(2)  |  ↑Top

2010/01/20 (Wed) 21:00

パオ瞑想と只管打坐

パオ式瞑想は仏教上座部に伝わっている、
ブッダの時代から変わらないメソッドを受け継いだと言われる瞑想システムです。
サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想がはっきり分けられ、
サマタ瞑想修了後にヴィパッサナー瞑想に進むよう、
カリキュラムがきちんと組まれています。

一方只管打坐は道元が開いた曹洞宗の座禅で、
悟りを得たいとか、心を落ち着けたいということすら否定して、
坐禅に徹し、坐禅になりきり、ただ坐るという瞑想法です。

両者は同じ仏教の瞑想といっても、
方やメソッド・システムがはっきりしていて、
方やメソッド・システムを完全に否定し、全く対照的です。

一体どちらが優れているのでしょうか?
究極的には両者が行き着くところは同じと思われます。

パオ式瞑想の場合は、カリキュラムがしっかりしているので、
やりやすい人にはやりやすいでしょう。
しかし、予備知識があるためにそれが先入観となり、
瞑想に目的を持つことが、かえって瞑想の妨げになるという欠点があります。

只管打坐は、本来の純粋な瞑想と言え、その点が優れていますが、
どうしてよいか全く分からなくなり迷う人も多いでしょう。
天才タイプの人向けの瞑想と言えるかもしれません。
天才タイプに人はごちゃごちゃ言われるとかえって上手くできなくなります。

結局どちらが優れているかではなく、個人の向き不向きの問題と考えられます。
行き着くところは同じだと考えられます。

関連記事
瞑想学基礎
ヴィパッサナーの種類
瞑想できているか?(総合篇)
全ての瞑想は無意味である


瞑想・慈愛  |  トラックバック(0)  |  コメント(0)  |  ↑Top

2010/01/23 (Sat) 21:00

瞑想中の痛み

今回は、座って行う瞑想中の痛みに対する対処方法です。
瞑想中どうしても体が痛いとき、どうしていますか?
特に瞑想を始めたばかりの人は、痛みばかりで瞑想がばからしく思えてしまいます。
通常はヨガやストレッチなどで体を柔軟にすることが一番の対処法ですが、
今回はちょっと違った方法を紹介してみます。

瞑想中いつも体が痛い場合には、思い切って瞑想の最初から最後まで、
痛みを瞑想、つまり痛みを観察してみましょう。

痛みというのは、急に現れるわけではありません。
だんだんと現れてくるので、その過程を詳細に観察します。
また痛みが激しくなったり、瞑想時間が終わったりして体を動かす場合も、
痛みがなくなっていく様子を観察し続けます。
痛みを観察をするときは、楽、苦でも楽でもない、苦の状態も同時に観察をします。
そうすると、痛みや苦というものに対する理解が生じ、
痛みに対する認識が変化します。

もし瞑想中体を動かす場合は、ゆっくりと体を動かします。
見張っている人がいたとしてもばれないくらいじわじわとゆっくり動かします。
そうするとほんの僅か動いただけで体が安定し痛まない所を発見できるかもしれません。

もうひとつ面白いことは、瞑想しなければそのような痛みはないということです。
つまり痛みの原因は瞑想にあります。
自分自身が苦を作り出しているのです。
ではなぜ苦を作り出してまで瞑想しているのか?
それも考察してみると面白いでしょう。

瞑想・慈愛  |  トラックバック(0)  |  コメント(0)  |  ↑Top

2010/01/27 (Wed) 21:00

悟りの判定方法

自分や他人がどの程度悟っているかを簡単に判定する方法です。
もちろん正確に判定することは不可能ですが、ある程度判定することが可能です。
(悟りとは何かについては過去の記事、悟りとは何か?をご参照ください。)
判定方法を2つ紹介しますが、両者の方法の根底にあるのは、
自分・エゴがどの程度あるかということを観るというのが基本にあります。

判定方法1
悟りとは智恵と慈愛(伝統的な用語では智慧と慈悲)の完成です。
智恵と慈愛がどの程度あるのかを観れば、どの程度悟っているかを判定できます。
智恵を判定するには、知識があるかないかではなく、観察力、洞察力を観ます。
よく気づき、鋭い観察力と洞察力があれば、智恵があります。
慈愛を判定するには、分け隔てなく生きとし生けるものの幸せを願っているかを観ます。
特定の人や動物だけを愛するのは慈愛とは言えません。
また見返りを求めるのは、本当は相手のためではないので慈愛とは言えません。
智恵と慈愛が深ければそれだけ悟りのレベルが高いと判定できます。

判定方法2
貪(とん)、瞋(じん)、痴(ち)、つまり貪欲、怒り、無知がどれだけあるかを観ます。
悟れば貪、瞋、痴は完全に消えるので、どの程度残っているかで判定できます。
貪とは貪欲ですが、必要の無いものを望む気持ちと考えてください。
(貪については過去の記事、欲望と欲求もご参照ください。)
瞋とは怒りですが、怒りだけでなく、嫌悪、高慢なども含みます。
痴は通常無知と言われますが、智恵がないことです。
偏見、先入観、思い込み、過去の知識への執着と考えると解りやすいと思います。
偏見、先入観、思い込み、過去の知識への執着があると、
正しく物事を見たり考えたりできなくなり、智恵が失われます。
(痴については次回の記事、痴(無知)とは何か?もご参照ください。)
貪、瞋、痴は隠そうとしてもなかなか隠し切れません。
智恵と慈愛を観るよりも判定しやすい方法です。
貪、瞋、痴が少なければそれだけ悟りのレベルが高いと判定できます。

関連記事
悟りとは何か?
欲望と欲求
痴(無知)とは何か?

瞑想・慈愛  |  トラックバック(0)  |  コメント(0)  |  ↑Top

2010/01/30 (Sat) 21:00

痴(無知)とは何か?

前回悟りの判定方法で貪瞋痴(とんじんち)について触れましたが、
痴(無知)に関しては詳しい説明が必要なので、
痴についての筆者の見解を書かせていただきます。

痴は通常無知と言われていますが、ここでの無知とは、
一般的に使われている無知の意味である、知識がないということではありません。
貪瞋痴は別名三毒と呼ばれ、消すことができるものとされていますが、
知識がないことは毒でもなく、また完全に消し去ることは不可能です。
世の中の全ての知識を得ることは不可能ですし、その必要もありません。

痴とは誤った知識、思い込み、偏見、先入観、誤解、知識への執着と考えられます。
典型例は天動説です。
誤った知識を正しいと思い込み執着しています。

気をつけなければならないのは、全ての知識は痴となる可能性があることです。
無常の世の中では、過去の知識がいつまでも通用するという保証はなにもありません。
例えば、昨日会った人は今日も同じ人ではないのです。
人は物事を見るとき、知識のフィルターを通してしか見ることはできません。
また知識というものは必要不可欠です。
しかし物事を見るときには知識を一旦脇に置いておいて、
あるがままに観る心がけが必要です。
そのとき智恵が生じます。

人に痴があるかどうかを観るのは意外に簡単です。
痴の強い人は頑固で、特定に人の話を除き人の話を聴かず、
物事を多角的に観ることができません。
このことからも痴は消滅させるべき毒であることが解ります。

関連記事
悟りの判定方法


瞑想・慈愛  |  トラックバック(0)  |  コメント(4)  |  ↑Top
 | HOME | 
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。