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2010/02/03 (Wed) 21:00

智恵の道と慈愛の道

悟りとは、智恵と慈愛の完成です。
智恵とは観察力と洞察力、慈愛とは全ての生き物の幸せを願うことです。

人にはタイプがあり、
智恵の道を修行した方がやりやすい人と、
慈愛の道を修行した方がやりやすい人がいます。
(もちろん大雑把なわけ方です。)

智恵の道は主に瞑想です。独りでいることが好きな人に向いています。
慈愛の道は主に奉仕です。人といることが好きな人に向いています。

もちろん両方バランスをとること必要なのですが、
実際にはどちらかのタイプに偏っている人が多く、
バランスをとることは難しいでしょう。

今まで瞑想について多くを書いてきましたが、
それでもやっぱり瞑想は苦手だと思う人は、
たぶん慈愛タイプに人なのです。
そういう人や奉仕や布施を行うと良いでしょう。

今後慈愛についての記事を増やしていく予定です。

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2010/02/06 (Sat) 21:00

慈愛とは何か?

慈愛とは何でしょうか?
筆者はあえて慈悲でもなく愛でもなく、慈愛と書いています。
どちらの言葉も使い古されて、イメージがあまり良くないためです。
世間一般の人は慈悲とは高所から掛けてやるものだというイメージがあります。
仏教系の人は愛とは執着であるとして嫌います。
ですから、あえて慈愛という言葉を使っています。
またこの言葉が最も慈悲や愛の本質を表していると思います。

慈愛とは、全ての生き物の幸福を願う気持ちです。
また、全ての生き物が好きだという気持ちです。
幸福を願う根本には相手が好きだ、
少なくとも好ましいまたは本質的には嫌いではないという気持ちが必要です。
そしてその相手は全ての生き物なので、慈愛の気持ちを持つことは難しいことです。

本当は嫌いなのに慈悲を掛けることは一種の偽善です。
といって、好きなものだけに愛情を注ぐのは慈愛とは言えません。
ですから慈愛を育むというのはなかなか大変な修行なのです。
慈愛の境地とは神、仏の境地なのです。

筆者はマザー・テレサにちょっとだけお目にかかったことがありますが、
誰にでも、おばあちゃんが孫に接するように接していました。
それ以外は普通のおばあちゃんにしか見えず、
ヨーロッパの町を普通の格好をして歩いていたら、おそらく気づかないでしょう。
マザー・テレサについては偽善だとか焼け石に水だとか賛否両論ありますが、
慈愛とはああいうものだと思います。


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2010/02/10 (Wed) 21:00

慈愛にも智恵が必要

慈愛にも智恵が必要です。
慈愛とは全ての生き物の幸福を願うことです。
しかし、ただ漠然と願っていても何の解決にもなりません。
相手がどうすれば本当に幸福になれるかを洞察する必要があります。
そのためには生命の本質まで見極めないと、
本当の慈愛にならないことになります。

そんな難しいことを言わなくても、
例えば子供にお菓子をあげることを考えてみてください。
乞われるがままにお菓子をあげることは子供のためになりません。
良かれと思っても相手のためにならないこともあるのです。

ですから慈愛にも智恵が必要です。
自分のできる範囲で、相手に対して効果的なことをしてあげるのが慈愛です。
もしかすると自分は何もしないでただ見守るのが一番かもしれません。
究極的には、全ての生き物が覚りに近づけるようにしてあげるのが本当の慈愛です。

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2010/02/13 (Sat) 21:00

奉仕・布施は何をすればよいか?

以前智恵の道と慈愛の道で、人と交わることに好きな人は、
瞑想より奉仕・布施をすることの方が向いていると書きました。
今回は奉仕・布施とはなにをすればよいかについてです。

布施の方法はいろいろな分類方法がありますが、まとめてみると、
物施・身施・法施に分けられると思います。

物施とは、お金や物を与えることです。

身施とは、身体を使って相手のためになる行動をすることです。
いわゆる奉仕活動や、笑顔を与えること(顔施とも呼ばれます)も身施になります。

法施とは、法を与えることです。
法とは仏教だけに限らず、生きていく上で重要な道理を説くことです。
口頭か文章かなどは問いません。

これらの内、何を行うのが最上かと言うと、
一般には法施、身施、物施の順で優れているとされていますが、一概にそうとも言えません。
自分でできることと相手が必要なこととの相互関係によって変わってきます。
臨機応変に行うことが重要です。
法施が優れていると言っても、釈迦に説法や馬の耳に念仏では何の役にも立ちません。
ですから慈愛にも智恵が必要なのです。

奉仕・布施はやろうと思えば誰にでもできます。
(実は瞑想もやろうと思えば誰にでもできますが・・・)
物施・身施・法施のうち先ずはできることからやり、
徐々に苦手なこともできるようにするのが良いでしょう。

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2010/02/17 (Wed) 21:00

奉仕・布施のご利益・功徳

これまで奉仕や布施をすると慈愛の修行になると書いてきましたが、
奉仕や布施をするといわゆるご利益や功徳はあるのでしょうか?

奉仕や布施は相手のためにする心が第一です。
困っていたり苦しんでいるのを助ける、喜びを与える、成長を助ける、役に立ててもらう、
このような結果が功徳です。
そしてそれに貢献できたという喜びが功徳です。

さらにもっと深い見返りがあります。
心が浄化され執着が減り、心が成長し慈しみの心が増すのです。
奉仕や布施が自然にできるようになるいうことは、
エゴがなくなってくることであり、悟りに近づくことでもあるのです。

しかし実際問題として、もっと現実的な見返りを求めずに奉仕や布施はできるのでしょうか。
筆者はできると断言します。
自分の子に何かをして見返りを求めるでしょうか。
もちろん将来養って欲しいという下心のある親もいるでしょうが、
通常はそういう下心はほとんどありません。
自分の親に何かをして見返りを求めるでしょうか。
小遣いを貰いたいという下心がある場合もあるでしょうが、
親が年老いていればそんなものも求めません。
自分の家族や自分自身のことと同じように相手のことを考えて何かをする、
これが本当の奉仕・布施です。

いわゆるご利益や功徳を求めるのは本当の奉仕や布施ではありません。
それは商売や投資やギャンブルと同じ心理であり、
かえって自分の心を汚し執着を増しエゴを強めます。

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2010/02/20 (Sat) 21:00

修行者は恋愛を避けるべきか?

修行者は恋愛を避けるべきか?というご質問をいただきましたので、
筆者の私見を書くことにしました。

恋愛するかどうか、つまり人を好きになったり嫌いになったりすることを、
自分の意思でコントロールできるでしょうか?
自分の意思で好きになったり嫌いになったりできるのなら、
それは本当の恋愛ではありません。
本当の恋愛は理屈抜きで好きになるのです。

恋愛だとわかりにくいかもしれませんが、音楽のことを考えてみましょう。
ある音楽を好きになったり嫌いになったり、頭ではコントロールできません。

本当の恋愛は頭でコントロールできないのです。
できるとしたら、それは抑圧です。
抑圧は潜在意識にその思いを押し込めることです。
これは隠れた執着であり、奥深く根を張ってしまい、かえって修行の邪魔になります。
こういう潜在意識に押し込められたものを意識に浮上させて解決するのが、
修行の大きな目的ですので、抑圧は避けるべきです。

避けるべきは、恋活とかに目の色変えたりすることや、
恋愛ゲームにはまり込むことや、妄想を膨らませたりすることなどで、
恋愛そのものを抑圧すべきではないでしょう。

若い頃から自然な恋愛を抑圧すると、ほとんど必ずどこかに歪が生じます。
これは筆者自身体験があります。
ただ体験をし、そのときの自分自身を観察し、
放棄すべきときが来たら放棄すれば良いと思います。
時が来れば、歳をとれば、いずれ放棄できるときが来るかもしれません。

それまでは恋愛している自分自身を観察し、
恋愛をより大きな慈愛へと昇華させるための糧とすべきで、
いたずらに抑圧するのは避けるべきでしょう。

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2010/02/27 (Sat) 21:00

怒りと叱り

今回のテーマは難しいテーマで筆者もよく悩みます。
単なる一意見としてお読みください。

怒ることと叱ることは似て非なるものです。
表面はとても似ています。
しかし内面が全く違います。
怒ることは自分のために怒っています。
叱ることは相手のために怒っています。
つまり怒りはエゴより生じ、叱りは慈愛より生じます。

問題は相手に理解させるために叱るという手段を使うべきかどうかです。
叱ることは叱り方が難しいものです。
また実際には通常、怒りと叱りは混在しています。
優しく諭したり理詰めで説明することが最優先だと思います。
それでも解らない人には解らないので、
叱ることは状況によっては必要だと筆者は考えます。

しかし叱ることはよく失敗し、筆者自身、それで縁が切れてしまうこともよくありました。
相手にも寄りますが、叱ることは捨て身の最終手段と考えたほうが良いと思います。
叱る必然性があるのかどうか、叱り方は正しいのか、
相当深い慈愛と智恵が必要でしょう。
しょっちゅう叱っている人はもう一度よく自分の内面と状況を観察すべきでしょう。

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