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2010/03/03 (Wed) 21:00

藤川チンナワンソ清弘和尚逝去

マハシ式ヴィパッサナー瞑想の指導者として知られる、
藤川チンナワンソ清弘和尚が、2010年2月24日午前0時過ぎ、逝去されました。
享年68歳。

筆者のマイミク(SNSミクシィの友人)でもあり、お会いしたことも数回あり、
個人的に食事をご一緒したこともあります。
仏教を等身大で語り、説教調では語らない気さくな方でした。

チンナワンソさんの評価は人によって結構分かれています。
評価する人は和尚と慕い、評価しない人は生臭坊主と嫌います。
私はそのどちらでもなく、僭越ながら僧侶というより、
友人・先輩と思って接していました。

確かに僧侶としては、特に上座部仏教の僧侶としては、
戒律を守らない、教義をあまり知らないなどの問題があったかもしれませんが、
人を思う慈愛の心を持ち、なによりも行動力に優れていたと思います。
病身にもかかわらず、日本全国やタイやミャンマーまでしょっちゅう旅に出ていました。
またヴィパッサナー瞑想の指導も熱心であられました。

書きたいことはたくさんありますが、筆者が多くを語らない方が良いでしょう。
心よりご冥福をお祈りいたします。

関連リンク
「オモロイ坊主を囲む会」HP
「オモロイ坊主を囲む会」Blog
「住職のひとりごと」Blog「タイ上座仏教長老・チンナワンソ・藤川清弘和尚追悼」


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2010/03/06 (Sat) 21:00

自分自身も慈愛の対象になるか?

自分自身も慈愛の対象になるのか?
以前こういう質問をいただきました。
またそれに対して二人の方から意見が寄せられました。
筆者および他の方々共通して、自分自身も慈愛の対象になるという見解でした。
というより、先ず最初に自分を愛すべきだということでした。

理由を以下に列挙します。

・自分自身が幸せでなければ、他の生命も幸せにすることは難しい。
・自分を大切にする人は自然に慈愛の心が芽生えてくる。
・自分自身に慈愛の気持ちをもてない人は、他の生命に慈愛の気持ちを持つことは困難。
・他の生命については自分の力ではどうしようもない部分が大きいが、
 自分自身のことならある程度なんとかなる。
 ならば先ず自分のことを大切にするべき。
・究極の慈愛とは、悟りを願い助けることである。
 自分自身の悟りも願い、それを助ける(努力する)べきである。
・慈愛とは自他の区別をしないことである。自分自身を含めないのは逆差別である。
 またそれがエゴを増長させる。

まだ他にもあるはずです。
先ず自分を大切にしましょう。
そして自分も他の生命も同等に大切にしましょう。

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2010/03/10 (Wed) 21:00

悪を知らねば善はない

先ず善悪について筆者の見解を明らかにしておきます。
筆者は善悪二元論を否定しています。
善と悪というのは、無常で変化する現象の一面を、
相対的に善悪と名づけたに過ぎないというのが筆者の見解です。

「悪を知らねば善はない」というタイトルですが、
善と悪とは相対的ならば、両者を比較しないと善悪は判定できません。
従って「悪を知らねば善はない」となるのです。

これは決して悪を勧めているわけではありません。
悪がなぜ悪なのかということを理解しなければ善もないということを言っています。

悪を理解するには、単なる知識として道徳的に善悪を守っているだけでは理解できません。
最も悪が理解できるのは、悪を実際に体験することです。
悪を意図的に実行することは現実問題としてまったくお勧めできませんが、
幸か不幸か悪の中にあるときはただ単に逃げたりせずに、しっかりと理解すべきです。
そうすれば同じ過ちを繰り返す可能性は減るでしょう。

また悪を見たときは、ただ避けたり批判するだけではなく、
悪の本質を洞察することが必要だと思います。
悪の本質を理解しなければ、善はおそらくないのです。

シリーズ記事
悪を知らねば善はない
善悪と幸不幸
善心と悪心
善なる心と智恵
幸福とは何か?

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2010/03/13 (Sat) 21:00

善悪と幸不幸

前回の悪を知らねば善はないについて、
当ブログおよびミクシィでたくさんのコメントをいただきました。
ありがとうございます。
今回は善悪についてもう少し考察を深めると同時にヒントを出しておきます。

筆者の考察では、善悪と幸不幸は密接な関係があります。
つまり、幸福に向かう力が善で、不幸に向かう力が悪だ、ということです。
言い換えれば、善を行えば幸福になり、悪を行えば不幸になります。

ここでまた何が幸福で、何が不幸かという問題が生じます。
また、自分にとって幸福は他の生命にとっては不幸という事態もありえます。

これらはまた各自で観察・考察・洞察していただくことにしたいと思います。
簡単ですが、今回はここまでにしておきます。

シリーズ記事
悪を知らねば善はない
善悪と幸不幸
善心と悪心
善なる心と智恵
幸福とは何か?

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2010/03/17 (Wed) 21:00

善心と悪心

前回善悪と幸不幸で善とは幸福に向かう力で、悪とは不幸に向かう力だと書きました。
もしそうだとすると、(別の解釈もあるでしょう)、
善心とは幸福を願う心で、悪心とは不幸を願う心であると言えます。
(何が幸福で何が不幸かという問題は保留しておきます。)
言い換えると善心とは本当の意味での愛の心で、悪心とは憎しみの心です。

しかし、善心と悪心はやはりはっきり区別できません。
なぜなら、ある生命の幸福は他の生命の不幸という状況もあるからです。
また同じ生命に対しても幸福を望む気持ちと不幸を望む気持ちが、
混ざっている場合もあります。

もうちょっと具体的に考えてみましょう。
ある人の不幸を願っているとします。
それはその人が不幸になれば自分が幸福になれると考えているとします。
そうなると相手に対しては悪心でも、自分に対しては善心なのです。

あるいはその人が不幸を味わうことにより良い幸福に近づけると考えているとします。
その場合は相手に対して悪心と善心両方を持っていることになります。

悪心をもっている場合、通常必ず何らかの意味で幸福に繋がると考えているはずです。
つまりあの人が不幸になれば自分の幸福になるとかです。
従って悪心だけの心というのは通常ないのです。
しかし、善心だけの心というのは存在します。
幸福を願う心が善心だとすると、
生命というのは根本的に善心を持っていると考えられます。

シリーズ記事
悪を知らねば善はない
善悪と幸不幸
善心と悪心
善なる心と智恵
幸福とは何か?

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2010/03/20 (Sat) 21:00

善なる心と智恵

前回善心と悪心で、善とは幸福を願う気持ちだと書きました。
(これは一つの見解に過ぎないので、これだけが絶対に正しいとかではありません。)

今回は善なる心も智恵が伴う必要があるという話です。
以前書いた慈愛にも智恵が必要と深く関連します。

善とは幸福を願う気持ちだとすると、言い換えれば善心とは慈愛でもあります。
(繰り返しますが、一つの見解です。)
慈愛にも智恵が必要では幸福のためにどういう手段をとるべきかということが主題でしたが、
もっと本質的に、何が幸福かという問題があります。
これが理解できなければ手段も何もありません。

何が幸福かについてはいずれ考察していく予定ですが、
筆者自身うまくまとめられるかどうか自信がありません。
ご自身で観察・考察・洞察していただき、後日ご意見いただければと思います。

しかしそんな難しいことを言わなくても、ある程度の見当はつくはずです。
今回は、その見当のついた幸福を願うことが善心であり、
それを手助けするのが智恵だということに留めて置きたいと思います。
また善が何かを知るには、同時に悪が何かを知る必要があると繰り返させていただきます。
(もっと究極には、善悪など全く存在しないという見解もありますので。)

シリーズ記事
悪を知らねば善はない
善悪と幸不幸
善心と悪心
善なる心と智恵
幸福とは何か?

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2010/03/27 (Sat) 21:00

幸福とは何か?

今まで善悪について書いてきましたが、
善悪と幸不幸は切り離せないというところまではご理解いただけたと思います。
(もちろんある見解に立てばの話ですが)

では幸福とは何かという大問題があります。
これについては多くを語れません。
いろいろな見解があると思います。

ちょっとだけ筆者の見解を書いておきます。
ヒントにでもなれば幸いです。

幸福とは苦がないこと、または苦を苦だと思わないこと。
すべては無常であると理解し、変化を楽しむこと。
つまり究極の幸福とは悟りであること。

簡単ですが、これでシリーズを一旦終了させていただきます。

シリーズ記事
悪を知らねば善はない
善悪と幸不幸
善心と悪心
善なる心と智恵
幸福とは何か?

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2010/03/31 (Wed) 21:00

マハシ式ラベリングの限界

今回は話が飛んで、マハシ式ヴィパッサナーのラベリングの限界についてです。
マハシ式ヴィパッサナー瞑想では、
一番大きな気づきを、1、2秒くらいの間隔で、頭の中で言語化します。
これをラベリングと呼び、マハシ式ヴィパッサナーの大きな特徴です。

しかしこれには限界があります。
本当は限界ぎりぎりまでラベリングを徹底的に行って、
ご自分でどうすれば良いかを発見していただくのが良いのですが、
少しだけ書いておきます。

ラベリングが限界に達する理由を3つ挙げておきます。
1.気づきの速度が速くなり、ラベリングが間に合わなくなる
2.気づきの質が広く深くなり、適切な単語が見つからなくなる
3.ラベリングのプロセス自体に気づいてしまう

次に対処方法を書いておきます。
1.ラベリングが間に合わなくなった場合は適当に間引きします
2.適切な単語が見つからない場合は、「気づいている」「感じている」など、
 適当な単語でラベリングします
3.ラベリングのプロセス自体に気づいたら、そのプロセスを自分の方法で十分観察し、
 それができるようになったら、ラベリングのプロセスについてのラベリングは省略します

しかしそれでもまたさらに限界がやってきます。
なぜならラベリング自体が一種の思考であり、行為だからです。
そこまで達すると、ラベリングなしで自然に多くのことに気づけるようになります。
マハシ式ヴィパッサナーをやっておられる方は、先ずはそこを目指すと良いでしょう。
(実際には、ラベリングありとなしの繰り返しの末、そこに達するでしょうが)

関連記事
マハシ式ヴィパッサナーの特徴
ヴィパッサナーで観るもの
瞑想できているか?(ヴィパッサナー篇)

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