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2011/01/01 (Sat) 10:00

勇気の湧き出る般若心経

あけましておめでとうございます。

新年にふさわしい記事ということで考えて、
今回は「勇気の湧き出る般若心経」にいたしました。

般若心経についてはいろいろな解釈がされていますが、実は明快なお経です。

一番重要なのは最後の真言です。
この真言はダブルミーニング・マルチミーニングかつ、音の詩的音楽的響きが重要なので、
ニュアンスまで訳すこと不可能ですが、中心的な意味はこう言っていることが解ります。

修行せよ修行せよ
彼岸に向かって修行せよ
彼岸に向かってもっともっと修行せよ
智恵、悟りよ幸いなれ

サンスクリット語の発音ではこうなります。

ガテーガテー
パーラガテー
パーラサンガテー
ボーディスヴァーハー

つまり一所懸命に修行しなさいという、
ブッダ自身の暖かく力強い励ましの言葉なのです。
そして実践以上の教えは無いという当たり前のことを繰り返し言っているのです。

なぜそういう解釈になるのか、具体的修行の内容は何か、修行の結果どうなるのか、
そのあたりは過去記事般若心経シリーズに解りやすく解説しているので、
是非そちらをご参照ください。
http://cyberbaba.blog57.fc2.com/blog-category-1.html

なお般若心経は後世の作で偽経であるとか、
ブッダはサンスクリット語ではなくパーリ語を使っていたはずだとか、
般若心経を説いているのはブッダではなく観自在菩薩のはずだとか、
空の解釈や法の解釈がおかしいから間違っているとか、
いろいろご意見はありましょうが、それらはどうでも良いことです。
事実だけが真理ではありません。フィクションの中にも真理はあります。

ブッダがこの言葉を直接自分に語りかけた、
そんな気持ちでサンスクリット語で真言を唱えてみてください。
よし、今年も頑張るぞ、そんな勇気が湧いてくるはずです。
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2011/01/03 (Mon) 20:00

気づきの量×質

この所ものの観方に関連した記事が続いていますが、
今回は気づき、言い換えれば意識の量と質というテーマです。
そしてちょっと面白い数式ですが、こんな式を立ててみました。
気づきの量 × 気づきの質 = ほぼ一定

先ず気づきの量ですが、例えばこんな例です。
球技ではボールと、自分の身体の動きと、他のプレーヤーの位置などに
気づいていることが重要です。
素人はボールしか見えない、自分しか見えない、そんな状態ですが、
一流プレーヤーは全てに同時に気づいています。
あるいは偏ったものの観方をする人は、特定のものの観方しかできませんが、
気づきの量の多い人は一度にいろんな角度から物事が見えてきます。
つまり気づきの量とはどれだけ全体像が見えているかという事だとも言えます。

次に気づきの質ですが、これは気づきの詳細さクリアーさのことです。
例えばある絵を見たとして、配置や色がなんとなく分かるか、
細部のディテールや色の微妙な変化までよく見えるかです。
あるいはスポーツの例ですと、素人はボールの軌道がなんとなく分かる程度ですが、
一流プレーヤーはボールの縫い目まで見えると言われています。
詳細にクリアーに見えていれば気づきの質が高いと言えます。

で、気づきの量 × 気づきの質 = ほぼ一定 という式ですが、
通常は量と質は反比例します。
量を増やそうとする、つまり広く全体像を観ようとすると、詳細さクリアーさが失われ、
質を高めようとする、つまり詳細にクリアーに観ようとすると、全体像が見えなくなります。

ここで大事なのは、何もしなければほぼ一定ですが、
トレーニングによって量、質ともに高めることができるという事です。
先ずは量と質を高めるトレーニングが必要です。
これがある意味「いわゆる」ヴィパッサナー瞑想です。

次に大事なのは、トレーニングで量、質ともに高めたとしても、
それでも気づきには限界があるということです。
ですから気づきをどこに向けるか、気づきのベクトルということが重要になります。
気づきのベクトルについてはまた回をあらためて書きたいと思います。


関連記事
気づきのベクトル

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2011/01/05 (Wed) 20:00

気づきのベクトル

前回気づきの量×質はほぼ一定である、
これを増す努力・トレーニング・修行が必要だと書きましたが、
今回は気づきのベクトル、つまり方向性についてです。
(ここでベクトルとは正確に数学的意味では使っていません。
 数学で言うベクトルとは方向と量を持っていて、始点・終点は関係ありませんが、
 ここでは始点・終点・量・質をもった「方向」であると認識してください。)

先ず気づきはどこまで高められるかということについてです。
例によってスポーツ選手の例です。

1つ目はハードルの為末大選手。
ハードルでは飛び越すときの踏切足が5センチずれただけで失敗なのだそうです。
風や体調などそのときのコンディションによって狂ってくるので、
常にずれないようにしながら走っているそうです。
つまり、全力疾走しながら歩く瞑想が完璧にできているのです。

2つ目はハンマー投げの室伏広治選手。
背骨の一つ一つの状態が明瞭に判るそうです。
思いっきり体を回転させながら、なお体の内部の微妙な感覚に気づいている。
つまり、全力を振り絞りながらゴエンカ式ヴィパッサナーが完全に出来ています。

何を言いたいかというと、我々のやっている「いわゆる」ヴィパッサナーは、
ある意味ではまだまだ序の口だということ、
もう一つそれより重要な事は、それだけで悟り苦を滅することができるなら、
スポーツ選手はみな悟っていることになるということです。

そこで重要なのは気づき・意識のベクトル、つまり方向性ということです。
スポーツ選手の意識のベクトルは身体や障害物などという方向に向いています。
しかし修行者の意識のベクトルはそれではダメです。
苦というものや、己というものやなどにベクトルを向けるべきです。

さらに、ある瞬間瞬間については、詳細さにベクトルを向けるか、
全体像にベクトルを向けるか、角度や次元はどの方向に向けるか、
常に気づきと瞬時の判断と決断が必要とされます。

つまり、日常生活でも常に観察(ヴィパッサナー)していることが必要ですし、
また、気づき・意識のベクトルそのものにも気づいている必要があります。

そしてさらには、観ている者、気づいている者そのものに気づくということが重要です。
実はこの観ている者、気づいている者に対する気づきが一番重要だと言われています。
観ている者、気づいている者が何者か、
これが実感として理解できればある意味大悟だと言えるでしょう。

しかしこれについては筆者自身まだまだですし、
また理解したとしても(その時にならなければ分かりませんが)、
たぶん詳しくは書かないと思います。
なぜなら先入観になる可能性が高いからです。

先ずは対象に気づく、次に気づきのベクトルに気づく、
そして気づいている者そのものに気づくというのが良いのではないかと考えらます。


関連記事
気づきの量×質
参考記事
ゴエンカ式ヴィパッサナー
判断と決断

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2011/01/07 (Fri) 18:00

坐る瞑想か日常生活瞑想か

ここ最近の記事でたぶん気になっておられた方もいらっしゃると思いますが、
ここ最近の記事は日常生活での瞑想という視点に偏っています。
またある所で、坐る瞑想と日常生活瞑想とどちらが大切かということが話題になっています。
そのこととこれまでの記事の視点の修正を兼ねて今回の記事です。

先ず坐る瞑想その1ですが、なんと言っても瞑想の基本であり、これは外せません。
落ち着いて坐って、心を安定させ(サマタ瞑想)と自己観察をする(ヴィパッサナー瞑想)。
これがある程度できなければ日常生活瞑想など不可能です。
(もちろんあらためて瞑想などと言わなくても、
 幼少の頃より気をつけている人などは別です)

次の段階として日常生活瞑想ですが、これも大事です。
坐っているときは仏様でも、日常生活で悪鬼羅刹では意味がありません。
日常生活瞑想で大切なのは、なんと言っても人との関わりでしょう。
独居生活やそれに近い生活での日常生活瞑想は、
基本的に坐る瞑想その1の延長でしかないとも言えます。
人と関わったときに心の本音が表れるものです。
人と関わった時の好悪や喜怒哀楽の感情や、人の話をちゃんと聴いているか、
正しく相手に伝わる言葉を使っているか、どんな表情をしているかなど、
しっかり認識することが必要です。
これをやらなければ日常生活瞑想をしている内には入らないでしょう。

そして坐る瞑想その2です。
人と関わっていると、どうしてもいろいろなことに意識を向ける必要が出てきます。
もう一度じっくり坐って、さらに心を安定させ、
もっと自己の本質を洞察する必要があるでしょう。
そしてその意識状態を日常生活でも維持できるようにする、これが重要だと考えられます。

ですから、坐る瞑想と日常生活瞑想のどちらが重要かという問題ではないでしょう。
その時によりどちらかに重みが傾くことがあってもどちらも重要だと言えます。

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2011/01/09 (Sun) 18:10

不健全なエゴ

以前健全なエゴ、つまり個としての自覚・区別というものは必要で、
また無くすことはできないと書きましたが、今回は不健全なエゴです。

お断りしておきますが、何回も書いているように、ものの観方はいろいろあります。
このブログに書いてあることは、例えば健全なエゴと不健全なエゴなどは、
これだけが正しいという主張を書いている訳ではありません。
こういう観方・考え方もあるという参考にしていただければそれで結構です。

さて不健全なエゴについてです。
エゴというのはある意味好き嫌いだとも言えます。
個としての自覚・区別があまりはっきりしていない赤ん坊でも、
好き嫌いというものは存在します。これがエゴだという観方です。

そして好き嫌いというのが少ない人には、いわゆるエゴを感じません。
好き嫌いというのは放っておくと増大する傾向にあります。
そしてそれは貪(欲望)と瞋(怒り)に発展します。
好き嫌いが無いことはそれだけでエゴが無いとも言えます。
ですから好き嫌いを無くす、これが不健全なエゴを無くす有効な方法だとも言えます。

しかし好き嫌いを完全に無くすことはできません。
また完全に無くす必要もありません。
一番重要なのは、好き嫌いに気づき、それを欲望や怒りに発展させないことです。
また、パターン化された無意識の好き嫌いを無くすことです。

好き嫌いに関しては、子供のころの教育が実は大きくものを言います。
好き嫌いなく食べる、あの子好きあの子嫌いとか思わない、そういうことが大切です。
しかし大人になるとなかなか難しい。
ですから先ず好き嫌いに気づく、もう一度先入観なしで味わってみる、
それでも好き嫌いがある場合には欲望や怒りに発展させない、
これが不健全なエゴを無くす一つの有効な方法だと言えるでしょう。

関連記事
健全なエゴ

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2011/01/10 (Mon) 21:00

サマタとヴィパッサナーの定義

このブログでのサマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想の定義は曖昧すぎないか、
このようなご指摘をある方から受けました。
そこでこのブログでサマタとヴィパッサナーをどのように区別しているか、
あらためてはっきり定義することにいたしました。

何がサマタで何がヴィパッサナーか、流派によって区別は様々です。
そこでこのブログでは、瞑想法・テクニックによって区別するのではなく、
それぞれの言葉の語源と意味より、先ず何を「目的」としているか、
そして次にどういう「状態」かによって、サマタとヴィパッサナーを区別しています。

サマタは別名サマーディ瞑想とも呼ばれ、
八正道の正定、止観の止にあたり、心を止めて定め、心を安定させる瞑想です。
究極の状態のサマーディは思考や感情が全くまたはほとんどなく、
意識だけがある状態です。

ヴィパッサナーは「よく観る」「物事をあるがままに見る」という意味であり、
八正道の正念、止観の観にあたり、
自己をあるがままによく観る(観察する)ことにより智慧を得る、つまり洞察の瞑想です。
究極の状態は自己の本質を洞察することです。

厳密に言えばサマタ瞑想はサマーディの状態、
ヴィパッサナー瞑想は洞察していなければ瞑想ではとは言えないという考えもありますが、
それがちゃんとできるのはごく一握りの人だけになってしまい、
ほとんどの人は瞑想など全くしていないことになってしまいます。

ですからこのブログでは、
心を安定させることを目的にしている、あるいは安定していればサマタ、
洞察を目的にしている、あるいは洞察していればヴィパッサナーと定義しています。

(今までは洞察ではなく観察という言葉を使っていましたが、洞察の方が適切です。
 なぜなら観察は手段であり、目的ではないからです。)

またサマタとヴィパッサナーを厳密に分ける人もいますが、
実際には厳密にどちらか片方だけの目的と状態ということはほとんどありえず、
サマタとヴィパッサナーは不可分だというのがこのブログでの見解です。

いろいろ異論はあるでしょうが、言葉の定義にこだわって言い争いをしても仕方ないので、
サマタとヴィパッサナーの語源や意味に立ち返り、
主に目的、次に状態によって分けています。
こういう次第ですのでご了承ください。

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2011/01/11 (Tue) 18:00

一切皆苦はやっぱり間違い

一切皆苦は間違いということであるサイトに書き込みをしたところ、
筆者の友人がいろいろ調べてくれて判明したことがあるので書かせていただきます。
調べて判ったことを整理すると以下になります。

・厳密にブッダの言葉を増支部三集より引用すると、
 「一切諸行は無常なり。一切諸行は苦なり。一切諸行は無我なり。」であり、
 この三つは三相と呼び常にセットである。
・ここでの苦(dukkha)とは勝義諦(聖なる真理(ariya sacca))としての苦で、
 苦しみと解釈するのではなく「不安定」「空しい」と解釈するのが正しいらしい。
・行(サンカーラ)とは一般的にはconditioned thingの意味、
 十二縁起や五蘊の文脈ではmental formationの意味で使われるらしい。

行(サンカーラ)についてはここでは正確には何を指しているのかさらに研究が必要ですが、
いずれにしても一切の「物事」という意味ではなく、心に関する何かを意味しています。

苦(dukkha)とは、「不安定」「空しい」という意味もあるとはよく言われますが、
そういう意味「も」あるのではなく、ここではそういう意味「しか」ないと考えられます。
苦しいという主観はでなく、不安定・空しいという客観事実だけです。
空しいというと主観的なようですが、仏教用語としての無常と同じで、
情緒的意味合いはないとするのが正しいでしょう。

従って一切皆苦ではなく、諸行空虚とするのが正しい。
(空虚という言葉もあまり適切ではありませんが、皆苦よりは良いでしょう。)
そうなれば意味は明瞭です。

「全ての行(サンカーラ)は不安定で空しい」

さらに三相とセットにすると一層はっきりします。

「全ての行(サンカーラ)は無常であり、不安定で空しく、
 それ自体で実在する存在ではない」

以上より従来の意味での一切皆苦、つまり一切の物事は苦しみであるという意味での
一切皆苦は間違いであるとほぼ断定できます。
次回は一切皆苦の矛盾ということを書きます。

関連記事
一切皆苦の矛盾

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2011/01/12 (Wed) 18:00

一切皆苦の矛盾

前回一切皆苦はやっぱり間違いで、あまり適切な表現ではないものの諸行空虚であり、
一切の物事は苦しみであるという解釈は誤りであると書きましたが、
一切の物事は苦しみであると解釈した場合の矛盾点を書きます。

・四聖諦の滅諦(苦は滅することができる)と矛盾する。
 一切皆苦なのに、滅することができるというのは矛盾である。
・無常、空の論理と矛盾する。
 一切の物事は無常、空であるのに、苦だけが実在するという矛盾がある。
・事実に反する。
 苦、楽、どちらでもない、の3つに分け、1日中自分の感じていることを観察すれば
 (それを言語化してラベリングするとなお良い)事実ではないことが明白。

以上と前回の記事の解釈により、一切の物事は苦しみであるという意味での
一切皆苦はやはり誤りです。

従って、息をするのは苦しいからとか、感覚は全て痛みであり苦しみであり、
それを認識していないだけだ等という意見もよくありますが、それらは全て誤りです。
息をするのは自然現象に過ぎず、感覚自体は苦でも楽でもなくただの感覚です。
苦や楽を感じるのは、感覚に主観的な意味づけをするから発生するだけです。

例えば子供はちょっと怪我をして血を見ただけで大泣きしますが、
怪我になれたスポーツ選手などは血を見ただけでは何とも思いませんし、
多少の痛みは痛いと思うだけで全く苦しみではありません。
マハーシ式ヴィパッサナー的に言えば、「色、色」「痛み、痛み」だけです。

何もかもが苦しみであるという思想は間違っているだけでなく、非常に有害です。
四六時中苦を感じていなければいけないという強迫観念にかられ、
本当にそうなっていまうと、ああ息をしていて苦しいとか、
葉っぱが落ちて苦だとか、水が流れるから苦だとか、一々辛く思い、
苦を感じていなければいないで、これではいけないと自分を責め、苦に追い込む、
そうなったらもう完全に病気、強迫神経症、鬱病です。(筆者も経験があります。)

だいたい一切皆苦を説く人たち自身が一切皆苦を感じているとは感じられず、
極端な場合はニコニコしながら嬉しそうに一切皆苦を説いている場合さえあります。

一切の物事は苦しみであるという一切皆苦は誤りです。
正しくは、一切の行(サンカーラ)は不安定で空しいであり、いわば諸行空虚です。
諸行無常、諸行無我(これも正しくは諸法無我ではないようです)とあわせると、
「全てのサンカーラは無常であり、不安定で空しく、それ自体で実在する存在ではない」
となりさらに意味がはっきりし、どこにも全てが苦しいなどとは言っていません。
苦しみはそれこそ無常であり、不安定で空しく、それ自体で実在する存在ではなく、
主観から生じるだけで、いわばいわゆる妄想だとも言えます。

一般に仏教は苦諦、特に一切皆苦を重視しすぎだと思います。
それより、滅諦と道諦、こちらに重きが置かれるべきでしょう。

関連記事
一切皆苦はやっぱり間違い

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2011/01/15 (Sat) 20:00

個としての意識・全体としての意識

このところ物事の観方や個としての自覚としての自我ということを結構書いてきましたが、今回はそれらに関連して「個としての意識・全体としての意識」「トップダウン的ものの観方・ボトムアップ的ものの観方」ということを書いてみます。

筆者の以前の上司は、ボトムアップ的ものの観方を要求する人でした。どういう事かと言うと、プロジェクトに関して先ず自分の担当部分について徹底的に調べさせるのです。そして各自が調べたことを統合してプロジェクトの全体像を把握させるのです。逆に筆者はトップダウン的なものの観方をするタイプで、先ずプロジェクトの全体像を把握して自分の役割を認識してからでないと自分の担当部分の意味がよく判らないで、始めのころは結構行き違いがありいらいらしました。しかし上司のものの観方と筆者のものの観方が違うと気づいてからはいらいらしなくなりました。どちらのやり方が正しいとか言う問題ではなかったのです。

気づきの量×質気づきのベクトルということに関連して言えば、ベクトルの動きが違うとでも言えるでしょうか。またボトムアップの観方は個としての観方優先、トップダウンの観方は全体としての観方優先ということも言えると思います。

そしてボトムアップとトップダウン、言い換えれば個と全体の観方が一致したとき、プロジェクトは円滑に進みます。個は個としての自覚・意識を持ち、同時に全体の中の役割ということを意識して全体としての意識も持てます。

ちょっとこのタイル画を観てください。

Arabic_Calligraphy_at_Wazir_Khan_Mosque.jpg


部分は部分として生き生きとしていて、全体は全体で部分部分とは全く違った美しさを持っています。

個としての意識・全体としての意識も、このようであるのが良いのではないか、というのが筆者の考えです。自分自身は個としての自覚を持ち生き生きとしながら、同時に全体としての意識も持ち役割を果たし全体を生かす。こういう意識が理想ではないかということです。

このブログもそういう意識で書いています。個として好きなように自由に書いていますが、瞑想を直接指導している方々とは違った視点で瞑想者の方々のお役に立ち、瞑想界や宗教界ひいては世界のお役に立てればと思っています。微力ではありますが、またテーラワーダ系の瞑想に偏ったきらいはありますが、それでもそういう意識を持って書いておりますので、今後ともご愛読よろしくお願いいたします。それから、たまには宣伝もしておきます。気に入ったら下のランキングのクリックにもご協力いただければ嬉しいです。よろしくお願いします。

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2011/01/17 (Mon) 18:00

今ここの瞑想

瞑想中思考が現れた場合、思考を観るべきでしょうか、今ここに戻るべきでしょうか?こんなご質問をいただきました。そこで今回は「今ここの瞑想」がなぜ大切なのか、そして次回は「思考を観る瞑想」はどのように行えば良いのかということについて書いて行きたいと思います。

花


今ここはなぜ大切なのでしょうか?花の写真をアップしましたが、筆者の部屋にある花です。偉そうに書いていても筆者は普段この花を味わって観ていないのです。あらためて今ここにある物を見て、花を発見したような次第です。

このように人は通常、今ここにいません。過去の嫌な思いや未来の心配(今ではない不快な思考)、今顔も見ても話もしていない嫌な奴への怒りや恐怖(ここではない不快な思考)、過去の思い出や未来への願望(今ではない快な思考)、離れている家族や恋人のこと(ここではない快な思考)、空想的物語(今でもここでもない思考)になどに耽っていることが多いのです。

そして目の前の花を観ず、今話している人の話を聴かず、食べ物も味わわず、あるいはもっと深く自分が感じていることを感じず生きていることが多いのです。つまり本当の意味では生きておらず、生から逃避的に生きているのです。それは映画やテレビを見続けているのと本質的に同じことです。自分自身で生きていることを味わう、そして苦があれば滅していく、そのためには今ここが最も重要なのです。今ここは、観ないように聴かないようにしていたとしても、本当は逃げようがありません。過去は二度と戻ってこず、未来はどうなるか分からず、ここでない場所が今この瞬間どうなっているのかや、ここにいない人が今この瞬間何を考えているのかは、本当は知りようがありません。

そして今ここにいないことは、苦そのもの、または苦につながります。不快な思考はそれだけで苦ですし、快な思考も現実ではないので、現実に対するギャップがいずれ苦になる可能性の高い行為です。少なくとも無意味で無駄であることが多いのは事実でしょう。

ですから、今ここをじっくり味わい、向上心を持って生きることが最も大切となります。
そしてそれこそが生きていることであり、生きている意味であり、証だとも言えます。

シリーズ記事
今ここの瞑想
思考を観る瞑想

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