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2011/02/01 (Tue) 18:00

悟った人に師事すれば悟れるか

正しい師を探すというのは大切なことではありますが、よくある誤解に、悟った人(大悟した人)なら教える能力も高く、その人に師事すれば必ず悟れるはずだというのがあります。そうではありません。

ブッダの時代はブッダが多くの人を悟りに導きました。もし悟った人の教える能力が必ず高いなら、その後はネズミ算式に悟った人が増えていくはずです。そしてとおの昔に人類全てが悟っているはずです。しかしそうはなっていません。

buddha.jpg


悟りの境地と教える能力は直接は関係しないのです。

さらに2つの要因があります。

1つ目は弟子のレベルです。学問を例にしましょう。例えば相対性理論を理解することが悟りだとします。いきなり大学院教授に相対性理論を説かれても理解できません。先ず基礎的な数学や物理を学ぶ必要があります。そのためには大学院教授を師にすることは適切ではありません。中学や高校の先生の方が良師になる場合が多々あります。

もう1つは師との相性です。武道では自分と体格の似た師を選ぶことが一つのポイントとされています。例えば体が大きければ小技を屈指するより直線的な大技が有効です。体が小さければ小技を磨く必要があります。体格が似ていればそういう技を伝えてもらいやすいからです。精神修養でも同じようなことが言えます。ブッダの教えを一言聴いて忽然と悟った農夫が、知識をたっぷり詰め込んだ学者に教えることは困難でしょう。

ですから、よほど悟りに近い一握りの人を除き、悟った人を師にするために探し求めることはあまり意味がありません。それよりも縁のある相性の合う人を師にした方が通常は有効です。

また悟った人と言えども悟りそのものを教えることはできないそうです。ただヒントを与えるだけだそうです。結局は自分で悟るしかない。ブッダもそうやって悟りました。ならば、どんな人からも物事からも動物からも自然からも学ぶ、そういう態度が一番有効だと考えられます。
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2011/02/02 (Wed) 18:00

Ogion the Silent(沈黙のオジオン)

Ogion the Silent, the master of Ged, bought his disciple to travel.

Though he was a great wizard, he never used magic.
They walked in the cold rain, and slept under the cold sky.
Had he used his magic, it should have been nothing for them.

Ged doubted and asked his silent master.
"When do you start teaching?"
"I've already started.
Just this is not understandable for you."
So he replied, and went into the silence again.

Ged felt displeased, but the only thing he could do was to be quiet.



前回の師の話に関連して、アーシュラ・K・ル=グウィン作「ゲド戦記」第一巻「影との戦い」の1シーンを、日本語版で読んだ記憶を元に筆者が英語で書いた文章です。ここで登場する沈黙のオジオンは、いかにも老賢者という感じで師らしい師です。

主人公のゲドは魔法使いになるために師匠の沈黙のオジオンとともに旅に出ます。しかしオジオンは魔法を全く使わず辛い旅が続きます。ゲドは魔法を使えばいいのに、早く魔法を教えてくれればいいのにと思い、オジオンに不平を言います。しかしオジオンはすでに教え始めているとだけ答え、再び沈黙の中へ入っていきます。

オジオンは言葉で教えるのではなく、自分の背中で教えています。オジオンの教えは、魔法などできる限り使うべきではない、苦労して当たり前のことを当たり前にやることが一番大事だということです。本当の賢者だと思います。



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2011/02/05 (Sat) 21:00

独りになる重要性

よく瞑想者は独りになることが重要だと言われます。また瞑想合宿などでは会話禁止、参加者同士で目を合わせてもいけないということもよくあります。今回は独りになる重要性を、次回は人と交わる重要性について書いていきます。

Siddhartha.jpg


瞑想合宿などではなぜ会話や目を合わせることさえ禁止の場合が多いのでしょうか?それは内なるおしゃべり、つまり思考を静めるためです。人と会話をしていると、内なるおしゃべりを止めることはほとんど不可能です。合宿の最後の日など、長期の沈黙から解禁になったとき自分を観察すると特によく解りますが、他人と会話をする前に自分の内側の会話がすでに始まっている場合があるのが解ります。さらに他人との会話の後は内側の会話はもっと長く続きます。一言の会話でも、目を合わせただけでも、沈黙の中ではずうっとエコーが残ります。

もう外部からの情報の入力の影響がほとんどなく、内なるおしゃべりがほとんどない、この状態を作る事が瞑想修行では重要です。

もう一つ独りになることの重要性は、孤独になることです。人は独りで生れて来て独りで死んで生きます。自分に関する重要な決断は、最終的には独りでしなくてはなりません。人に依存する気持ち、甘える気持ちは捨てなくてはいけません。人に対する執着も捨てなくてはいけません。

本当に孤独になった時、自分を本当によく観ることができるようになります。
またその時、他人のこともよく理解できるようになります。

ですから、孤独というのは必要不可欠の体験なのです。

シリーズ記事
独りになる重要性
人と交わる重要性

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2011/02/07 (Mon) 18:00

人と交わる重要性

前回独りになる重要性について書きましたが、今回は人と交わる重要性です。

修行者の中には孤高であることを善しとし、人と交わることを極力避ける人もいますが、人と交わることも重要です。物事は関係性、つまり縁ですから、人と交わることは避けることができません。時期によって独りになることが重要な時期もありますし、人と交わることが重要な時期もありますが、両者のバランス、つまり中道が必要です。

yajirobei.jpg


独りで瞑想するのは主に智恵の修行ですが、人と交わるのは慈愛の修行です。人によってまたやり方にもよるでしょうが、通常は人と交わる事は慈悲の瞑想よりもはるかに強力な慈悲行で、1時間独りで慈悲の瞑想をやるより、ちょっと顔を合わせて微笑む方がよっぽど強力な場合が多々あります。また、孤高にこだわると独善的になりがちですが、正しく人と交わればそういう危険も避けられます。

特に重要なのは法友・同志です。筆者は師よりも重要だと考えています。対等に物を言い合い、時には師になり時には弟子にもなってくれる人、こういう同志・法友は非常に大事です。こういう人がいれば独善的になって魔境に落ちる可能性も激減させることができます。また、語り合える人がなく独りで修行するのは辛いことです。ブッダは善友がいない場合は犀の角のように独りで歩めと言いましたが、実際問題それが出来る人は僅かしかいないでしょう。

これに関連して師が法友になれるかどうかです。師が法友になってくれればこれほど心強いことはありませんが、実際問題としては難しいと思います。その師にもよりますが、コミュニケーションが一方的であったり、対等な目線に立ってくれない人は法友になれないでしょう。逆にコミュニケーションがキャッチボール的で、対等な目線に立ってくれる人であれば法友になれるでしょう。

また、無視してはいけないのは修行などに興味のない一般の人です。悪縁になる可能性もあるので慎重さを必要としますが、いろいろなものの観方を学ぶ事も重要ですし、なによりも誰とでもできるだけ公平に接するということが大事です。

オショウ(ラジニーシ)はこう言っています。
瞑想は独りある技で、愛は共にある技である。

究極的には独りでいても人と接していても、くつろいで気づいている、こういう状態になるのが理想と考えられます。

シリーズ記事
独りになる重要性
人と交わる重要性

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2011/02/09 (Wed) 18:30

禅は瞑想か?

今回は禅は瞑想かということです。禅をやっているの中には「禅と瞑想とは違う、なぜなら禅は半眼で行い瞑想閉眼で行うから」とか、いろいろ他の瞑想と比べて差別化しようとする人たちがいます。しかし禅は瞑想です。

先ず、禅の語源はサンスクリット語のディアーナ、パーリ語のジャーナの音訳の禅那です。ディアーナもジャーナも瞑想そのものを意味しています。

次に、禅で何をするかを考えて見ましょう。禅で行うことは「心身脱落し、己を証する」ことです。これは言葉を変えると、心を安定させ(これは言い回しの問題で心を脱落させることと同意です)、己を洞察することです。ですからサマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想を同時に行っていることになります。
参考 サマタとヴィパッサナーの定義

以上2点より、禅は瞑想の一種にほかなりません。半眼であるとか閉眼であるとか、そういう外見上のことはどうでも良いのです。ただし、禅は方法論を否定します。そこが確かに他の方法論を持った瞑想法とは違った部分ではありますが、実際には、半眼でどこを見るとか、脚の組み方とかいろいろうるさい方法論があります。

禅を瞑想ではないという人たちの中には共通した心理的傾向があります。それは差別化です。禅を他の瞑想と差別することにより、自分の優位性を強調する傾向があります。しかしそれこそ禅の精神である「無分別」に反していて、そういうい人は禅を本当は理解していないと考えられます。

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2011/02/12 (Sat) 23:00

心の修行とは何か、なぜ必要か

今回は素朴な疑問、心の修行とは何か、なぜ必要かについてです。もうすでに瞑想をしている人やこのブログをいつも読んでくださっている人には当たり前のことだと思いますが、あらためて訊かれると上手く説明するのは結構難しいと思います。筆者もあらためて簡単に説明しようとすると上手くできないので、今回整理してみることにしました。
practice.jpg

上の図を見てください。心の修行の体系を図式化したものです。他の体系化もあるとは思いますが、このブログではこの体系を基に解説をしています。

図にもあるように、心の修行はバランスの取れた人格形成を目指しています。いや違う、空を観じて悟ることだなどの反論もあるでしょうが、あくまでも悟りとかに興味のない一般の人向けの解説です。

バランスの取れた人格とは、自己の成長と他者への思いやりによって成り立ちます。自己の心の成長は主に瞑想修行によって、他者への思いやりは主に慈愛修行(慈悲修行)によって育まれます。ここで重要なのは、瞑想も慈愛も両方バランスを取るということです。もちろん人によって偏りはあるでしょうし、今現在どちらに重点を置いているか状況によって変わるでしょうが、最終的にはバランスを取るようにすることが大切です。なぜなら自分だけ幸福になろうとして自己の成長だけを目指しても、物事は他者との関係性ですから一人だけ幸福になることはできませんし、他者の幸福を願っても自分がしっかりしていなければ実現させることは困難だからです。

慈愛の修行は様々あるのでここでは割愛します。瞑想修行の方をもう少し詳しく見てみましょう。

瞑想修行は主に心を安定させる瞑想であるサマタ瞑想と、智恵・洞察を得るためのヴィパッサナー瞑想に分類できます。具体的な手段としては、サマタ瞑想は主に精神統一であり、ヴィパッサナー瞑想は主に自己観察です。そして心を安定させて自己観察をすることにより、究極的には生命とは何かを洞察して、自分も他者も苦から解放させることを最終目的にしています。

しかしそんな究極まで至らなくても多くの効果があります。心が安定して洞察力が増せば、いろいろな状況に対する対応力がつくのは自明でしょう。思ったほど簡単には説明できませんでしたが、心の修行とは何か、なぜ必要かが大体解っていただけたと思います。

参考記事
スピリチュアリティの本質
智恵の道と慈愛の道
サマタとヴィパッサナーの定義
瞑想学基礎
慈愛とは何か?
汝の敵を愛せよ
慈愛にも智恵が必要

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2011/02/17 (Thu) 18:00

仏教の基礎

今回は仏教の基礎である、中道、四聖諦、八正道についてです。これらはブッダが悟った後の初説法でかつての修行仲間の5人にインドのサルナートで説かれたとされています。そして5人はその教えに従いやがて悟った(全ての苦を滅した)とされています。
参考 Wikipedia初転法輪

このように中道、四聖諦、八正道は仏教の基本中の基本であり、ある意味これだけでも十分なくらいです。逆にこれから外れていたら、いくら難しいことや立派な事を言っても、仏教ではないと言えます。中道、四聖諦、八正道については過去にも解説していますので今回は簡単にまとめます。過去記事のリンクを文中に貼っておきますので詳しくはリンク先をご参照ください。
buddhism.jpg

中道とは、極端に走らないこと、バランスをとることです。この世は矛盾に満ちています。厳密な主義主張や生き方は極端となり、必ず別の観点からは矛盾が生じます。そこで極端に走らずバランスをとることが必要になります。これがブッダの第一の教えです。
参考記事 中道とはバランスである

四聖諦とは、苦諦(生きている限り苦は免れない)、集諦(苦には原因がある)、滅諦(苦は滅することができる)、道諦(苦を滅する道がある)の4つの真理です。現代仏教では苦諦が強調される傾向がありますが、苦諦はブッダに言われるまでもなく当然の事なので、集諦と滅諦と道諦に重点が置かれるべきでしょう。これがブッダの第二の教えです。
参考記事 四聖諦

八正道とは、道諦を具体的に8つの方法で示したものです。
参考記事 八正道(はじめに)
正見と正思は、正しく見ること、正しく考えることです。
参考記事 八正道(正見・正思)
正語と正業は、正しい言葉、正しい行動です。
参考記事 八正道(正語・正業)
正命と正精進は、正しい生活、正しい努力です。
参考記事 八正道(正命・正精進)
正念と正定は、正しいヴィパッサナー瞑想と正しいサマタ瞑想です。
参考記事 八正道(正念・正定)
これらがブッダの第三の教えです。

最初の5人の弟子達はこれだけで悟った(全ての苦を滅した)ので、いかに重要かということが分かります。これらは暗記でもなければ道徳でもありません。善人ぶることでも中途半端の勧めでもありません。また難しい理論でもありません。シンプルに理解して実践していけば、やがて全ての苦を滅することができるとブッダは説いています。

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2011/02/19 (Sat) 20:00

2011ティクナットハン日本ツアー概要

Thich_Nhat_Hanh_2.jpg

・ ティク・ナット・ハン(釈一行)は1926年ベトナムに生まれた禅僧であり、詩人、学者、平和活動家です。ベトナム戦争中の平和への取り組みに対して、 1967年にM.L.キング牧師によりノーベル平和賞候補に推挙されました。100冊以上の著書を世に問い、仏教の教えとその実践をわかりやすく説くこと で広く知られています。ヨー ロッパやアメリカではダライ・ラマ14世と並ぶ高い評価を受けています。
・ティク・ナット・ハンはフランスのプラム・ヴィレッジを本拠地として、アメリカ、ドイツなど各地にリトリートセンターをもうけ、仏教の教えにもとづいた学びと実践の指導を続けています。世界とともに平和に生きるためのシンプルな生き方を提唱しています。
・ 16年ぶりの来日となる今回の2011年日本ツアーでは、京都と横浜と東京で講演会を開催します。また、横浜では三日間の宿泊リトリート(日常生活から離 れ、自分を見つめ直す)を二回開催して、随伴の僧・尼僧らのサポートにより、ティク・ナット・ハンの中心的教えである気づき(マインドフルネス)を深める 練修を行います。

日本ツアー期間:2011年4月24日~5月7日
※講演とリトリートは英語で行われ、全て日本語の通訳がつきます。

京都講演
日 時:2011年4月24日(日) 13:30~16:00
会 場:花園大学無聖館ホール(5F)
〒604ー8454 京都市中央区西ノ京壷ノ内町8ー1花園大学内
参加費:2,000円(定員450名先着順)
申込先:(財)禅文化研究所
〒604ー8454 京都市中央区西ノ京壷ノ内町8ー1花園大学内
http://zenbunka.or.jp/tnh2011/
* 参加ご希望の方は、インターネットにて、上記のアドレスにアクセスしてお申込下さい。あるいは現金書留で「ティク・ナット・ハン2011京都講演 チケット希望」とお書きいただき、申込者の住所、氏名、電話番号、参加人数を明記の上、チケット料金(2000円×人数)を添えてご送付ください。追って 講演会チケットとなハガキをお送りいたします。一旦ご購入いただいたチケットの払い戻しは原則的にできません。万が一、講演中止となった場合には、参加費 用だけの払い戻 しをさせていただきます。その際、お支払い時の手数料等は返金の対象となりませんので、予めご了承下さい。
主 催:臨済宗妙心寺派/(財)禅文化研究所
協 賛:花園大学

横浜講演会・宿泊リトリート(前期・後期)
会 場:曹洞宗大本山 總持寺
〒230-8686 神奈川県横浜市鶴見区鶴見2ー1ー1
1.講演会
日 時:2011年4月29日(金・祝)14:00~16:00
参加費:一般3,000円/学生2,000円/中学生以下 無料
2.宿泊リトリート前期(講演会参加を含む/テーマ:マインドフルネス)
日 時:2011年4月29日(金) 14:00 ~ 5月1日(日) 15:00
(講演会はリトリートの一部となっております。宿泊リトリート前期は講演会からのご参加となります。)
参加費:一般38,000円/大学・高校生30,000円/小・中学生7,500円/乳幼児 無料
3.宿泊リトリート後期(テーマ:インタービーイング)
日 時:2011年5月3日(火) 14:00 ~ 5月5日(木) 15:00
参加費:一般38,000円/大学・高校生30,000円/小・中学生7,500円/乳幼児 無料
4.宿泊リトリート前期+後期
日 時:2011年4月29日(金) 14:00 ~ 5月1日(日) 15:00
+ 5月3日(火) 14:00 ~ 5月5日(木) 15:00
参加費:一般70,000円/大学・高校生60,000円/小・中学生15,000円/乳幼児 無料
⇒早期10%割引(3月末まで)、寝袋持参価格(一泊 2000円引き)、
障害をお持ちの方、付添いの方(1名)の割引制度もあります。
申込先:ティク・ナット・ハン2011来日事務局ホームページ http://thay.jp をご覧下さい。または下記まで。
〒530-0001 大阪市北区梅田1丁目11番4号 大阪駅前第4ビル9階932ー506号
「ティク・ナット・ハン2011来日事務局」FAX:06-6354-7931
*FAXの場合「ティク・ナット・ハン2011来日事務局宛」と明記して下さい。
主 催:ティク・ナット・ハン2011来日事務局
後 援:曹洞宗大本山 總持寺

東京講演会
日 時:2011年5月7日(土)
会 場:日比谷公会堂
時間:12:30 開場 13:00開演 参加費:2000円
主 催:(株)木楽舎 (株)サンガ
申 込:チケット発売は2月中旬を予定(チケットぴあ/eプラス)
お問い合わせ:(株)木楽舎 (担当:志村)
TEL.03-3524-9572 FAX03-3524-9675
までお問い合わせ下さい。

その他関連催事(予定)
・ティク・ナット・ハン書画展の開催(会場/期日未定)
・ティク・ナット・ハンの著書を集めたブックフェアを開催。

日本ツアー全体企画・運営(お問い合わせ先)
ティク・ナット・ハン2011来日事務局(代表:田村和久)
公式ホームページ http://thay.jp
〒530-0001 大阪市北区梅田1丁目11番4号 大阪駅前第4ビル9階932ー506号
「ティク・ナット・ハン2011来日事務局」FAX:06-6354-7931
*FAXの場合「ティク・ナット・ハン2011来日事務局宛」と明記して下さい。

協力:安曇野パーマカルチャー塾 虚空山彼岸寺 (株)木楽舎(株)サンガ (株)春秋社 (有)大法輪閣 (株)法蔵館

*併せてお願い(寄付・ボランティア募集等に関して)
ティク・ナット・ハン2011来日企画は無報酬・無収益のボランティア企画です。運営となる事務局には、資金・人的母体となる団体もありませんし、事務局メンバーも企画に賛同した有志で行っております。
日本ツアーは、プラムヴィレッジから来られる約30名(ティク・ナット・ハンを含む)の旅費、交通費、宿泊費、食費、会場費用等の全ての経費を、リトリートや講演会の入場料と寄付金でまかなう予定になっています。
1.寄付について
この企画に賛同していただける方は是非ご寄付をお願いいたします。皆様からお預かりしたご寄付は、来日ツアーをより良いものにしていくために、大切に使用させていただきます。
ご寄付いただいた折には
・金額の多可を問わず、各催事当日パンフレットに全て記載(順不同)※無記名、非記載希望の方は記載いたしません。
・日本ツアー終了後に、報告冊子を送付。及び寄付金を含む会計を公開。
させていただきます。
また、このプロジェクトで収益を得られた場合、収益金はベトナムの貧困援助プロジェクト、その他緊急援助を必要とするプロジェクトのために活動しているプラムヴィレッジに寄付いたします。
ご寄付は
・日本ツアープレイベント各催事(書画展など)にて
・ティク・ナット・ハン2011来日事務局ホームページ http://thay.jp から、来日ツアーへの寄付のお願いページへ
から宜しくお願いします。
*領収書が必要な方はお申し付け下さい。対応させていただきます。

2.ボランティア募集について
重ねて上記の事情により、催事当日・事前にお手伝いいただける方を募集しております。ボランティア希望の方は
http://thay.jp/
よりお問い合わせ下さい。

追伸:用語説明
・マインドフルネス(気づき)
「気 づき」とは、いまここ、この瞬間に気づき目覚める力です。毎日の生活の一瞬一瞬に意識的に触れる練修です。気づきをもつとは、今ここに真に生きるというこ とであり、周囲の人たちや周りで起こっていることと一つになることです。「気づき」とともにあることで、理解、愛、慈しみ、喜びのこころが育ちます。自分 自身 や社会の中に存在する苦しみに気づいて、それを変容する助けとなります。
・インタービーイング(相互依存・相即)
近 年、ティク・ナット・ハンは気候変動や、先進諸国が抱える大量消費の問題に大きな関心を寄せています。「インタービーイング」とは、宇宙にあるすべてのも のは相互に依存しあって存在しているという仏教の洞察を、西欧諸国に分かりやすく伝えようとしたティク・ナット・ハンの造語です。
「ここにある」とは「ともにあること」です。私たちが、あるいは、何かのものが、ただ自分だけで存在するということはありえないのです。私たちは、ほかのすべてのものとともに存在しているのです。(ティク・ナット・ハン著「微笑みを生きる」より)
私たちの行動を深く見つめると、自分自身と地球にとっての平和な生き方が見つかります。

発信元:ティク・ナット・ハン2011来日事務局 *転載自由

ブログ内参考記事 ティク・ナット・ハン式瞑想の特徴

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