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2011/12/15 (Thu) 14:30

夢を持つことといまここの平安な心

ある人に、いまここあるがままの自分に返り平静な心を保つことが大事だという話をしたところ、それも分からなくもないが、未来に思いを馳せて夢を描くことの方が大切ではないか、という意見を述べられました。これについて自分なりに考察してみたので、ヒントにしていただければ幸いです。

先ず、人間の苦しみの多くは、過去に執着したり後悔したり、未来を心配したり期待したり、今ここにいない人に愛着したり憎んだりすることから発生します。これらが全ての原因とは言いませんが、多くの部分を占めていることは確かです。従って、いまここあるがままの自分に立ち返り、平静な心を保つことが重要なのは間違いありません。

一方未来に夢を描くということはどうでしょうか?これはケースバイケースと言えると思います。単なる妄想や、今の自分を否定して別の存在になりたいとか、欲望を未来に投影してそれを満たしたいなどは、健全な心とは言えないでしょう。しかし自分や他人や他の生命の苦を滅するための建設的現実的プランを持って、それに対して精進努力することは大切だと言えると思います。

ここで動機ということが重要になると思います。欲望を満たしたい、他人より偉くなりたいなどの動機に基づいた夢は、たとえそれが一時的に叶えられたとしても、儚い夢となって再び消え去って行き、苦へと変わります。慈愛の心が動機にあれば、何か確実に前進するでしょう。そして過程ということも重要だと思います。結果を求めるのではなく、プロセスを生きるという意味です。結果は一瞬ですが、プロセスは続きます。また、夢に向かって努力するにしても、いまここの自分が原点ですから、いまここの平静な心はいずれにせよ必要だと言えるでしょう。

ちょっと視点を変えて過去の人物たちを振り返ってみましょう。天下を征服しようと野望に燃えた武将や王たちは、いくら領土を拡大し夢を叶えたとしてもそれで満足することはありませんでした。そして得た領土や権力についてもそれを維持することに必死になり、心が休まることなく死んで行きました。かたや夢や欲望を捨てた聖者たちは、心が平安で微笑みながら死んで行っています。

筆者なりの結論を書いてみます。夢を描くことは人により場合により有益な場合もあり、夢そのものを否定することまではできないが、それでもいまここの平安の境地の方が優るということです。あくまでも個人的な考察ですので、ヒントになれば幸いです。
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2011/12/16 (Fri) 14:30

男、女と見る前に

最近あらためて気づきましたが、人を見るときに、相手を人間として見る前に、先ず男、女として見る人が多いようですね。それはある意味仕方ないのですが、男、女とカテゴライズして枠に嵌める見方は正しい見方(正見)とは言えないでしょう。もちろん男性には男性のものの見方・考え方の傾向があり、女性には女性のものの見方・考え方の傾向がありますが、よくよく見れば個人差がかなり大きく、枠に嵌め込むことができない場合が多いことが判ります。

また宗教や職業に関しても同様です。あの人は何々という宗教をやっているからこういう人、こういう職業・肩書きだからこういう人、そういう決め付けをする人もいますが、それは自分の持っているその宗教なり職業なりのイメージ(それも勝手なイメージの場合が多いですが)、そのイメージを相手に投影しているだけで、実は相手を全く観ていないというケースが多々あります。

筆者はそういう決め付けをされることがよくあります。人の生き方についてなどの話をしていて、お互い良い雰囲気で会話を交わしているいるとき、ところで職業は何ですかと訊かれ、スピリチュアル・コンサルタントですとか宗教関係ですとか言うと、さっと態度が変わる人がいます。それまできちんと意見交換をしていたにも関わらずです。

こういうステレオタイプで相手を決めつけることをジャッジすると言いますが、心理学の世界などでもジャッジは相手に対しても最も失礼であり、自分自身のものの観方も狭めてしまい歪めてしまうので、絶対に避けるべきことだとされています。

相手がたとえカルト宗教に信者であっても、犯罪者であっても、逆に伝統宗教の聖職者であっても、大企業の社長であっても同じことです。接してみるとやっぱりこういう人かと思う場合も多々ありますが、それだけではないし、初めから決め付けするべきではないでしょう。さらに言えば、やっぱりこういう人だったとしても、なぜこういう人になったのかを理解しようとすることが、本当に相手を理解するということでしょう。

もちろん性別、宗教、職業などである程度の傾向が分かりますし便利ではあります。しかしそれは副次的なものに過ぎないという認識が必要です。人間は誰でも多面性を持っていて、またいつも同じではありません。人間は己れ自身を知ることさえ難しいのです。まして他人のことはもっと難しいのです。

相手を男、女として見る前に、宗教、職業などで判断する前に、トータルに人間として観る心がけが必要です。こういう心がけは心の習慣・癖なので、意識しないとなかなか変えることができません。今度誰かと接した時、自分はどういう風に相手を観ているのか、その自分自身の心の動き(ファンクション、プロセス)を観察してみることをお勧めします。

シリーズ記事
男、女と見る前に
人間関係に線引きすることについて
嫉妬、束縛、浮気、別れ

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2011/12/19 (Mon) 17:00

人間関係に線引きすることについて

前回は人をカテゴライズして決め付けをすることについて書きましたが、それに関連して今回は人間関係の線引きについて、筆者の個人的考えを書いてみます。たぶん大多数の方の考えとは大きく異なると思いますので、一意見としてお読みいただければありがたいです。

社会生活を営む上で、人間関係に線引きをするのは必要なことです。家族であるとか、何かの団体のメンバーであるとか、そういう線引きが必要なことは確かです。しかし個人対個人の関係で線引きするのは必要なことでしょうか?例えば、彼または彼女とつきあっているとかつきあっていないとか、誰々とは友達だが誰々とは友達ではないとかです。

筆者はそういう線引きを否定する考えを持っています。ただ距離が近いか遠いかの関係で、線というものは思考によって生み出された妄想であると考えています。また、そういう線の内側にある人は大切にして、線の外側にいる人は粗末に扱う。こういうことが正しいとは思えません。分かりやすい例で言えば、政治的に不安定な国にありがちですが、縁故のある人を重用し、ない人は能力があっても採用しないなどです。これは分かりやすい例ですが、こういう身内、他人という線引きはどこにでも存在しています。

では人を平等に観ることができない、線を引くという心理はどこから来ているのでしょうか?それはエゴ(自我)から来ていて、誰々は自分のものであるという考えから来ているというのが筆者の考えです。またもう一つの理由は、前回書いたように人をカテゴライズするという心理からからも来ていると考えます。

本来人間は皆平等のはずです。誰に対してでも可能な限り慈愛の気持ちで接するというのが正しいありかたではないでしょうか?親や子や恋人であっても、今日初めて会った人でも、あるいは見知らぬ土地に住んでいる人でも、皆同じ人間、もっと言えば生命です。

もちろん距離の近い人を大切にするべきなのは言うまでもありませんが、過剰に贔屓したり、あるいは他人を自分の所有物だと考えて、恋人が他人と話をしたりすることまでを禁じたりするのは行き過ぎで、それは線を引いているからだと考えます。また他人なら騙したり搾取しても良いなどいうのは論外です。

ここから先はさらに異なる考えを持つ人が多いでしょうが、もっと言えば法的制度にも問題があると考えます。家族というだけで、過剰な権利と義務が生じます。例えば相続です。極端に言えば亡くなった人の財産は社会で公平に分けてしまえば良いのです。(あくまでも極端に言えばで、ある程度の相続はまあ仕方ないと筆者も思っていますが)。また子供の扶養義務についても問題があります。子供は社会の財産であり、親の所有物ではありません。親が金持ちなら良い大学へ行け、貧乏なら高校へも行けないというのは偏りがありすぎです。男女間でも婚姻届を役所に出してあるかないかだけで、扱いが全く違ってきます。昨日知り合って婚姻届を出せば、明日配偶者が亡くなれば相続できます。逆に婚姻届を出してなければ、何年同居していたとしても病気で入院した場合にも情報を開示してくれません。

最初に書いた通り、社会生活を営む上である程度の線引きが必要なのは確かです。しかしその線引きを過剰に強めたり、あるいは個人対個人の心理的関係に線引きをするのは間違っているというのが筆者の考えです。人間関係は本来、近い遠いという距離があるだけで、線は無いというのが筆者の考えです。ご参考になれば幸いです。

シリーズ記事
男、女と見る前に
人間関係に線引きすることについて
嫉妬、束縛、浮気、別れ

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2011/12/21 (Wed) 15:00

嫉妬、束縛、浮気、別れ

前回、前々回と人間関係におけるものの観方・考え方を書いてきましたが、今回はもっと具体的にテーマを絞って男女の関係についてです。前回同様大多数の方の意見とは異なる部分が多々あるとは思いますが、自分自身の観方・考え方を見つめなおすヒントにしていただければ幸いです。

先ず、嫉妬、束縛と言うのは欲望であり、本当の愛(アガペーの愛、慈愛、慈悲)ではないというのが大方の賢者たちの一致した意見です。本当の愛とは、相手の幸福や成長を願い、与えるということで、嫉妬や束縛は相手の幸福や成長を妨げ、奪うことだからです。特に自由は与えられるものの内最高に価値のあるものの一つです。その自由を奪おうとするのは本当には愛しておらず、相手を自分の欲望を満足させるための道具としてしか見ていないからです。

ここまでは賢者たちがよく言っていることですが、嫉妬や束縛をする人達のためにちょっとフォローをしておきます。嫉妬や束縛の感情が起きるのは、社会の風習による影響もあるということです。嫉妬や束縛が愛だという間違った風潮があり、また誰かと付き合ったら(何が付き合いなのか実ははっきり言葉が定義されずに使われていますが)他の人と親しくしてはいけないという社会的な掟があるからです。また、たとえそういう風潮・風習がなかったとしても、実際問題相手が誰か他人のために時間を割いたら自分に振り当てられる時間が減るという問題もあります。

しかし自分は社会的風習など気にしないと思い、かつ相手が自分と十分時間を共にしていて、自分が他のことに時間を割いている最中さえ束縛しようというのは、愛ではないと断言できるでしょう。(もちろん会ったら害になるような人と会わないようにと言う忠告は束縛の内に入りません。ただしその場合も何が害なのか、自分の主観が入っていることを十分認識するべきです。)

次に浮気についてですが、束縛がなければ浮気というのも基本的に存在しません。ただし、妊娠ということになれば話が別です。社会的な責任が生じますし、なによりも子供に対して責任が生じます。そうなれば当然パートナーも問題に巻き込むことになります。そういう問題がないのであれば、自分が相手といる時間が充実しているのであれば、相手の自由な時間、それも生きている貴重な時間を奪う権利は誰にもありません。束縛が無ければ浮気という概念も消えうせます。

分かりにくければ、兄弟姉妹を考えてみてください。自分を十分大切にしてくれるなら、後の時間は何をしていようが、関心はあったとしても気にはならないはずです。本当の愛とはそういうものです。

最後に別れについてです。前回書いたように、人間関係に近い遠いという距離はあるが、線や境界はないというのが筆者の基本的スタンスです。従って、いわゆる一般的な線を引くという意味での別れというのは間違っているというのが筆者の考えです。恋愛感情が消えたから、はいさようなら、友達でもないというのは相手を一人の人間としては見ていなかったのではないかとさえ思います。よっぽど相性が悪かったとか、よっぽどしこりを残すようなトラブルがあったとかではない限り、人間として友人として付き合いを続けるべきだと思います。そうなると、世間一般でいう別れというのも存在しないことになりますが、、、

もうすぐクリスマスですが、キリストが説いたのは愛です。それも無償の愛、与える愛、相手の幸福や成長を願う愛です。クリスマスを欲望を満たす日とするのではなく、愛について考え確かめる日にしてみてはいかがでしょうか?

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男、女と見る前に
人間関係に線引きすることについて
嫉妬、束縛、浮気、別れ

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2011/12/26 (Mon) 10:00

プラユキ・ナラテボー師個人面談のお知らせ

2013年11月のプラユキ・ナラテボー講演会・瞑想会の案内はこちらです。
http://cyberbaba.blog57.fc2.com/blog-entry-269.html

プラユキ・ナラテボー師個人面談のお知らせです。

【日時】  2012年1月9日(月) 14:00-21:00 くらい
【予備日】 2012年1月10日(火) 14:00-21:00 くらい

都合により場所を変更いたします。

喫茶室ルノアール 上野しのばず口店
JR上野駅しのばず口出口より徒歩0分中央通り
東京都台東区上野4-10-7タツミビル地下1階
03-3835-4493
http://www.ginza-renoir.co.jp/renoir/099.htm

喫茶室ルノアール 日暮里谷中店
JR日暮里駅北口徒歩1分
東京都台東区谷中7-20-6谷中ホ-ムズ1階
03-3822-8102
http://www.ginza-renoir.co.jp/renoir/108.htm


面談費 お布施

上記時間帯でお一人様60分以内で受付いたします。
面談ご希望の方は必要事項をご記入の上、
以下のメールアドレスにタイトル「個人面談申込」でメールをお願いします。
mercy.wisdom.1@gmail.com

【必要事項】
お名前(ふりがな)
ご住所(市区町村名までで結構です)
当日連絡先(携帯電話番号またはメールアドレス)
ご都合
どこでこのお知らせを見たか

時間については誠に勝手ながら最終的にはこちらで調整させていただきますが、
都合の悪い時間帯やご希望の時間帯があればお書き添えください。
できる限り調整いたします。

日時は1月9日(月)がメインの日ですが、面談ご希望の方が多い場合は、
1月10日(火)を予備日として予定しております。
両日のご都合をお知らせください。

スケジュールの調整がありますので、
2012年1月3日(火)24:00までにお申し込みください。
1月4日(水)にスケジュールをお知らせします。


【プラユキ・ナラテボー師紹介】
本名、坂本秀幸。1962年、埼玉県生まれ、上智大学哲学科卒。
大学在学中よりボランティアやNGO活動を行い、タイ語を学ぶ。
大学卒業後、タイのチュラロンコン大学大学院に留学。
1988年、ルアンポー・カムキアン師の下にて出家。
現在タイ国スカトー寺副住職。
癒しを求めて日本からスカトー寺を訪れる人も多い。
特にうつ病の治療を得意とする。
穏やかな人柄と解りやすいお話で人気急上昇中。

【著作】


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2011/12/29 (Thu) 19:00

ついて良い嘘、悪い嘘

仏教の八正道の正語をはじめ、ほとんどの宗教で嘘は禁じられています。原則として嘘をつくのはいけない事であるのは自明だと思いますが、では嘘は全て悪いのかというと、そうとも言い切れない部分もあります。今回はついて良い嘘と悪い嘘について考察してみます。

先ず嘘を2つの分類法で分類してみます。1つは自分のための嘘と他人のための嘘です。もう1つは悪意と善意です。

原則として、自分のための嘘はつくべきではありません。しかし他人のための嘘なら許される場合があります。例えば、認知症の介護の現場では、認知症の人があらぬ事を言ったとしても決して否定してはいけないそうです。「芸能人の誰々さんがさっきいたねぇ。今見えないけどどうしたんだい?」と言われたとしたら、「誰々さんなんて元からいなかったよ。」とは決して言ってはいけないそうです。パニックに陥ってしまい、大変なことになるそうです。正しくは「ああ、今さっき帰りましたよ。」などと対応しなければならないそうです。こういう嘘はついて良い嘘、あるいは嘘のうちに入らないでしょう。相手が認知症でなかったとしても、真実を告げることによって受けるショックが大きすぎると思った場合は、嘘が許されるでしょう。ただし、一時的にショックを受けたとしても、真実を言ってあげた方が良い場合もあります。従って他人のためだからといって何でも嘘が許されるわけではないでしょう。嘘をつく場合には智恵が必要になります。また場合にもよりますが、お世辞はやはりついてはいけない嘘の部類に入るでしょう。

次に自分のための嘘ですが、原則として嘘をつくべきではありませんが、相手に悪意がある場合には許される場合があるというのが筆者の考えです。例えば、言いたくないプライバシーについて、興味本位やあるいは弱みを握ろうとして追求してきた場合です。その場合に適当な答えをするのはまあ許されるというのが筆者の考えです。

では嘘がなぜいけないのでしょうか?1つは混乱を招くからです。もう1つより大事な理由は、嘘をつかない人と嘘をつく人を比べてみればよく解ります。嘘をつかない人は誠実な印象、あるいはカラっと明るい印象を人に与えます。嘘をつく人は信用できない印象、あるいはじとじとした後ろ暗い印象を人に与えます。もちろん大雑把な傾向ですが、そういう傾向があることは確かです。それは心の内面が外面に浮き出てきてそういう印象を与えるのです。つまり嘘をつく人は自らの心を汚し、嘘をつかない人は自らの心を清めているのです。

原則として嘘はつくべきではありません。全部本音で言えたらこれほどサッパリして楽な事はないでしょう。しかし現実問題として、上記のように嘘が許される場合もあるというのが筆者の考えです。ただし嘘をつく場合は智恵をフルに使って、正当な理由を見出した時に限るというのが筆者の考えです。迷った場合は何も言わないというのが正しい選択肢である場合も多々あります。参考になれば幸いです。

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