QLOOKアクセス解析

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

スポンサー広告  |  ↑Top

2012/02/01 (Wed) 14:00

あるがままに観るポイント

前回、正見、つまり先入観や偏見なく観るためのポイントを筆者なりに解説しましたが、「あるがままに」観るためのポイントを解説して欲しいというリクエストをマイミクの方からいただきました。そこで今回は「あるがままに」観るためのポイントです。

このポイントは、正見だけでなく、人の話を正しく聴く場合や、自己観察瞑想(ヴィパッサナー瞑想)をする場合にも共通する重要なポイントです。そして重要なポイントはただ1点のみです。

・価値判断をしないで(保留して)観る・聴く

見たり聞いたりする場合、通常人間は半ば反射的に、好き・嫌い、良い・悪い、正しい・間違っているなどの価値判断をします。しかしその価値判断が最大のフィルター・色眼鏡となります。そのため、価値判断をせずに観る・聴く事が大切です。しかし全く価値判断をしないことは実際問題として困難ですし、また最終的には価値判断が必要な場合も多々あります。そこで、ここでは「保留」という言葉を補足しました。

「価値判断してるな」と気づいたら一旦価値判断を脇に置いておく、あるいは初めから「価値判断は後で行う」と自分で決心して、観たり聴いたりすることが重要です。このポイントのみです。また、いつもは「これは筆者の個人的な考えです」と但し書きをしていますが、これは筆者の個人的考えではなく、多くの賢者が皆言っていることです。


後のポイントは前回の繰り返しとなりますが、項目だけもう一度書きます。
(たぶん他にもあると思いますので、ご自分でご検討ください。)
・知っている、分かっていると思わないこと。
・よく観ること、聴くこと。
・物事の観方はたくさんあると認識すること。
・人や物事は常に変化していると認識すること。
・後ほど検討・考察(正思)すること。

しかし、「あるがまま」という事であれば、「価値判断を保留して観る・聴く」というただ1点となります。
とは言え、例によって必ずご自分で検討・考察(正思)してください。

やさしい八正道入門まとめと目次
スポンサーサイト

瞑想・慈愛  |  トラックバック(0)  |  コメント(2)  |  ↑Top

2012/02/02 (Thu) 14:00

多角的観方の具体例

elephant.jpg

前々回前回、正見(先入観なく正しくあるがまが見る事)ためのポイントとして、「物事の観方はたくさんあると認識する事」というのを挙げましたが、具体例の過去記事が分かりにくかったので、もっと分かりやすい例を挙げます。

「盲人、象を語る」という話があります。目の見えない人が3人集まり、象について語る話です。1人目は耳に触り「象とは風呂敷のような物だ」と言います。2人目は鼻に触り「いやいや象とはホースのような物だ」と言います。3人目は脚に触り「2人とも間違っている、象とは丸太のような物だ」と言います。そして3人で言い争いをするという話です。3人とも部分的には正しいのですが、全体像としては誰も象を語っていることにはなりません。

正見、多角的に観るということに戻ると、3人とも誰もが自分の経験、言い換えると先入観のみが正しいとして、人の話を正しく聴いておらず多角的に観ていません。

象について別の観方を書きます。

画家や写真家は色や形を観るでしょうし、獣医は健康を観るでしょうし、脳科学者は人間と象の脳の違いや共通点を観るかもしれないし、ある生物学者は生態や習性を観るかもしれないし、別の生物学者はアフリカ象とインド象の進化論的違いを観るかもしれないし、また別の生物学者はDNAや細胞組織を観るかもしれないし、様々な観方をすることが可能です。

ちょっと象の話からそれて、物理学の話になりますが、現在では物質は粒子としての性質と波動としての性質があることが知られています。しかし過去においては、粒子か波動かで論争になったこともあります。これも先入観で自分の考えだけが正しいという思い込みから発生した出来事です。

多角的に観る、先入観で見ない、つまり正見が大事だという事がお解かりいただけたと思います。

やさしい八正道入門まとめと目次

瞑想・慈愛  |  トラックバック(0)  |  コメント(0)  |  ↑Top

2012/02/04 (Sat) 16:30

八正道正念・正定入門

一般の方のためのやさしく説いた八正道シリーズ8回目となります。このシリーズではまだほとんど触れていませんでしたが、今回はいわゆる瞑想についてです。なぜ「いわゆる」と書いたかと言うと、例えばクリシュナムルティのように、坐ったり歩いたりする行としての瞑想は一切無意味で、本当の瞑想とは日常生活で自分の心を観察し静寂を見出すことだけだ、と説く人もいるからです。
参考記事
真の瞑想は人間関係の中にある
クリシュナムルティの瞑想

確かにそれはその通りとも言えるのですが、やはり通常は行としての瞑想も必要だと言えると思いますし、特にこのシリーズは八正道なので、八正道の中で述べられている瞑想について今回は解説します。

八正道の中での瞑想は、7番目の正念(正しい気づき)と8番目の正定(正しい心の安定)です。この2つが最後に来ているのは、八正道全体の仕上げ的意味があるからだと考えられます。それほど八正道の中でも重要です。

正念で行う瞑想は自己観察瞑想で、自分自身の体の感覚、行動、思考、感情などを観察して気づき、そして洞察して理解する瞑想です。ヴィパッサナー瞑想、あるいは止観の観の瞑想とも呼ばれます。

正定で行う瞑想は心を安定させる瞑想で、様々な手法がありますが、通常は何かに集中して心を安定させるという手法を用います。サマタ瞑想(サマーディ瞑想)、あるいは止観の止の瞑想とも呼ばれます。

ここで正念について補足しておくと、日本では従来正念とは、正しく念ずる、つまり正しい思いを持ち続けると解釈されていることが多いのですが、それは誤りです。日本の仏教はインド、パキスタン、アフガニスタン、中央アジア、中国、韓国等を経由してきていわば伝言ゲーム的になっていて、それではよく理解できない事があまりにも多いので、主に平安・鎌倉時代の僧侶たちが独自に努力を重ねて起こした宗教で、原型を留めていない部分が多々あります。正念も正しく念ずると解釈される事が多いのですが、国際化・インターネット化が進んだ現在、それは誤りであり、正しい気づきが正しいと判明しています。そして正しい気づきでないと、八正道の意味が通りません。(もちろん正しく念ずる事自体が間違っていると言っている訳ではありません。そういう心がけが必要な人もいるでしょう。しかし八正道の文脈ではないと言っているだけです。)

一般の方は瞑想というと何か得体の知れないものだとか、危ないものだとか、あるいは一部の修行者のみが行うマニアックな修行だと思う方もいらっしゃるかと思いますが、そうではありません。一般の方でも寝る前などに心を落ち着かせたり、一日を振り返って自分の心を観察したりする方もたくさんいらっしゃると思います。そういうことも一種の瞑想です。ただし、ここで、正念、正定に「正」の字がついていることに注目する必要があります。正しい瞑想をしているのかどうか、自分で調べるなり、習うなり、検討・考察(正思)するなりが必要でしょう。

しかしそれでも入門篇としては、寝る前などに正念・正定をやることは十分に価値があります。そしてその心の状態を日常生活でも活かせるように心がければさらに効果があります。この時気をつけるべき事は「正念・正定である」ということを心がけることです。つまり、自分自身に気づいているか、別の言い方をすれば注意力・意識が自分自身の内側に向けられているかということと、心の安定を心がけているかということです。空想・妄想などは瞑想の内に入りません。(ただし空想などが全て悪だと言ってる訳ではありません。作家などにとっては必要でしょうし、筆者も空想は好きです。しかしそれは瞑想ではないと認識すべきだという事です。)

より詳しい行法としての瞑想については、過去記事にたくさんありますので、以下の目次などから検索して調べてください。
瞑想・慈愛目次

やさしい八正道入門まとめと目次

瞑想・慈愛  |  トラックバック(0)  |  コメント(0)  |  ↑Top

2012/02/05 (Sun) 16:00

八正道と瞑想

前回、八正道の正念・正定は瞑想が必要となってくるという事と、瞑想と言っても特殊なことではなく、実は誰でもある程度はやっている事だという事を書きましたが、今回は八正道と瞑想とのバランス関係についてです。

瞑想は正念・正定の一部であり(と言っても大きな部分ですが)、正念・正定はさらに八正道の一部である。これは知っている人なら誰でも「知識としては」知っています。しかしそれを実感として理解している人は、筆者の見る限りそれほど多くはありません。八正道は八正道、瞑想は瞑想と分けている人が多いように見えます。

そして、瞑想は一所懸命やり瞑想中は心が安定していろいろ洞察していても他の八正道の項目が疎かで対人関係は滅茶苦茶だとか、逆に、八正道を規則として守っていて人に迷惑をかけたりとかはしないが瞑想を正しくやっていないために心が固く貧しく本人はとても幸福とは思えないとか、そういう人がかなりいるように見えます。

筆者の考えは、瞑想は八正道という大きな体系の中の一部の正念・正定のさらに一部の修行と位置づけて、八正道全体のバランスの中に瞑想を位置づけるのが良いと考えます。

もちろん僧侶などの専門の修行者や、あるいは一般の人でも瞑想合宿などで、ある時期瞑想だけに集中するなどは別です。しかしその場合でも長期的に見た場合には、八正道全体のバランスが取れるよう心がけるべきでしょう。

そして、坐って行うなどの瞑想は正念・正定の一部であると認識し、日常生活でも正念・正定を心がけることも大切だと思います。普段から自分の内側に意識・注意力を向ければ自分という者に気づいて理解できますし、心が動揺したときに正定を思い出すだけで動揺がかなり治まります。

瞑想を八正道の一部であると位置づけると、2つのメリットが生じます。1つは全体のバランスが取れてくることです。もう1つは瞑想をやらなかった日でも、サボったという罪悪感がなくなることです。一般の人にとって、いやかなり上級の修行者にとっても、この2つのメリットは大きいと思います。

八正道は八正道、瞑想は瞑想と分けるのではなく、全体のバランスを心がけるべきだというのが筆者の考えです。

やさしい八正道入門まとめと目次

瞑想・慈愛  |  トラックバック(0)  |  コメント(0)  |  ↑Top

2012/02/06 (Mon) 16:00

瞑想って何?(ある職人の話)

前々回前回と、正念・正定では瞑想が必要となってくること、一般の人にとっても瞑想は特殊な修行ではないことと、一般の人でも瞑想と意識せずに瞑想していることも結構あるということを書きましたが、瞑想状態についてのイメージをもっと具体的に分かりやすく書きます。

瞑想方法や人により時と場合により、瞑想状態はかなり違うとも言えますが、分かりやすいイメージで言えば、没頭状態あるいは満喫状態です。例えば子供が砂遊びに夢中になっている状態です。没頭していて余計なことは一切考えず(妄想が全く無く)周りの音さえ耳に入りません。あるいは温泉に入っている状態です。リラックスして感覚をフルに満喫して味わっていますが、やはり余計なことは何も考えません。そういう余計なことを考えず、余計なことが耳にも入らず、「今ここ」を味わっている状態が瞑想です。

さてタイトルのある職人の話についてですが、最近、左官・ペンキ職人の親方の仕事についてその弟子から話を聴きました。まさにこれは瞑想だと思ったので紹介します。

壁を塗る仕事というのは難しく、斑無くきれいに塗るには相当の熟練が必要です。そしてそのためにはいわゆるテクニックだけでなく、精神修養的な要素がかなり大きいそうです。壁を塗っていると、心が安定して行き、雑念は一切消えるそうです。雑念だけでなく思考もほとんど無くなり、ただ塗っているという没頭状態になるそうです。そして周囲の音なども耳に入らなくなります。余計な事を考えたりすると、きれいに塗れないそうです。この状態は正定と言えるでしょう。

しかし気づき・注意力は保たれています。斑にならないように細心の注意を払っています。そして驚くべき事は、周囲の音などが耳に入らない状態にも関わらず、必要な情報については「自然に」入ってくるそうです。どういうことかと言うと、例えば、親方と弟子が二人で屋根のこっち側と向こう側を分担して塗っていても、親方は弟子の塗り斑を見ないで判るのだそうです!一通り二人が塗り終わった後、親方は弟子が塗っていたの塗り斑の部分に一直線に行き塗り直す。こんなことがしょっちゅうあるそうです。音や気配で分かるのだそうですが、余計な音は一切聞こえないのに必要な音だけは耳に入り、気づきが非常に保たれており、正念と言えるでしょう。

こういう、今ここに没頭し、思考が無いながらも気づきが失われず、また緊張もしていない、これが分かりやすい瞑想のイメージです。一般の方でも経験している人ならしょっちゅう、少ない人でも何回かはあるはずです。いわゆる集中とは違うことがお解かりいただけると思います。ただし、坐って行う瞑想の場合は、意識・気づきが自分自身の内側に向けられる所が違います。また、より高度な修行をしている人の境地については、筆者も知る由もありません。

ところで、この親方の場合、仕事以外では全くそういう境地ではないようです。熟女バーが好きな普通のおじさんだそうです。それはけしからんと思う人もいるでしょうし、それはそれで人間味があって良いと思う人もいるでしょう。筆者の感想としては、多少遊びがあった方が人間味があって良いと思いますが、それでも仕事だけでなく、自分の内側にも意識・気づきを持つように心がければさらに良いのにと思います。

ということで今回は、修行者でない一般の人でも瞑想の境地に達することができるという事と、その境地がどういうものであるかという事を解説しました。またその意識を内側に向ける事も大切だという事を書きました。次回は八正道と中道について書きます。

追記
コメントでとても良い質問をいただきました。コメントも是非お読みください。

やさしい八正道入門まとめと目次

瞑想・慈愛  |  トラックバック(0)  |  コメント(4)  |  ↑Top

2012/02/07 (Tue) 16:30

八正道と中道

このところ八正道をシリーズで、仏教的にではなく一般の人に解りやすいようやさしく平たく書いていますが、今回は中道についてです。

中道とは八正道に先立ち、ブッダが最初に説いた教え、心がけです。苦行を捨て、菩提樹の下で大悟したブッダが、昔の苦行仲間を探し、一番最初に説いた教えです。そしてその時の内容は「極端を避けよ」でした。苦行や快楽などの極端に走ることなく、中道を歩めという事です。しかしその後もブッダは中道ということをかなり言っていたようで、単に極端を避けるというだけでなく、もっと深い意味があり、ブッダの教えの中核となっています。今回は例によって仏教的にではなく、筆者の解釈を含め、中道について解説します。

中道でよく誤解されるのは、先ず「極端」という言葉です。極端を避けることは、無難・凡庸な道を歩む事だと解釈する人がいますが、それは間違いでしょう。「度を過ぎた事」を避けるという方がより正しい解釈です。「極端」という言葉には本来「度を過ぎた」という意味がありますが、今日ではそういう意味合いが減ってきて「突出した」という意味に解釈する人もいます。しかし突出する事自体は本来の意味では極端ではありません。度を過ぎるという事が極端であり、極端を避けるということは無難・凡庸ではありません。

次に、中道を筆者の言葉で平たく現代風に解釈してより深く探ってみます。

先ず「バランス感覚」というのが挙げられます。筆者がよく使う例えですが、例えばスキーです。ゲレンデの状態(人生の状態)は刻々と変化し、無常です。その中で常にバランスを取るという感覚です。常に状況は変化しているので、こうやっていれば良い、というパターンは存在しません。臨機応変に前後左右真ん中とバランスを取る必要があります。そのバランスの取れた状態が中道です。

またスキーの例で極端と言えば、1つの極端は到底出来もしない度を過ぎた大技や高速にいきなりチャレンジすることです。もう1つの極端は、とにかく転ばない事だけを考えてたらたら滑ることです。自分の力量に合ったチャレンジが中道と言えるでしょう。

日常生活での具体例も1つ挙げておきます。子供を叱る場合です。怒る(いかる)のは通常良くないとされていますが、場合によっては自分の怒りをはっきり子供に見せて叱る方が良い場合もあります。しかしいつも怒ってばかりでは子供は反発したり萎縮してしまったりします。ここで中道のバランス感覚が必要とされるでしょう。

中道を別の言葉で言えば、「ニュートラル」「フリー」という事も言えると思います。1つの見解やパターンに嵌りこむことなく、ニュートラルでフリーな立場にいる。以前書いた多角的観方にも通じますが、これも中道と言えると思います。たとえ自分の見解がある見地から見れば正しくても、それだけが正しいとして執着するのは中道とは言えないでしょう。必要であればいろいろな見地に立てるニュートラルでフリーな感覚が中道と言えるでしょう。

こうしてみると中道は、八正道(つまり日常生活での心がけ)全般に渡り、基本的に心がけておくべき重要な事項だと言えるでしょう。そして中道を現代的な言葉で言えば、バランス感覚、ニュートラル、フリーな感覚、臨機応変などと言えると思います。

やさしい八正道入門まとめと目次

瞑想・慈愛  |  トラックバック(0)  |  コメント(0)  |  ↑Top

2012/02/08 (Wed) 16:30

やさしい八正道入門まとめと目次

これまで八正道と中道について、主に一般の方を対象に、平たくやさしくシリーズで解説してきました。中道と八正道はブッダが先ず最初に説いた教え・心がけです。しかし今回筆者は、「仏教」として解説した訳ではありません。八正道は、仏教的に言えば全ての苦を滅するための道ですが、このシリーズでは一般論として、自他ともに幸福になるために有効な方法として、八正道を解説してきました。いわば、健康になりたい人(自他ともに幸福になりたい人)に運動(八正道)を勧めるような感じで書いてきました。従って、仏教修行者や研究者から見れば全く違うと思われる部分も多々あると思いますし、人にとって見ればそんな事はどうでも良いと思われる部分も多々あると思います。それについては八正道だけが完璧な心がけとは言えないという事も解説してきました。にも関わらず、やはり八正道は一般論としてとても有効かつ奥が深いです。

八正道の各項目と、八正道以外にも心がけた方が良い項目をもう一度列挙します。

1.正見 正しく観ること。
2.正思 正しく考えること。
3.正語 正しい言葉。正しく話すこと。
4.正業 正しい行い。(主に他に対して)
5.正命 正しい生活。(主に自分に対して)
6.正精進 正しい努力。
7.正念 正しい気づき。正し注意力。
8.正定 正しい心の安定。

その他の項目
1.正聴 正しく聴くこと。
2.正感謝 ありがたいと感じる、気づくこと。感謝を伝えること。
3.正謝 正しく謝ること。

八正道を実践する上で、時々リストと自分を照らし合わせてチェックすることがとても有効です。

これらの内、最も大切なのは正見(と正聴)です。そして正見とはどういうことであるかを具体的に解説しました。

また正念と正定については、八正道の仕上げ的意味があり、瞑想が必要となってくることを解説しました。そして瞑想とは、一部の修行者だけの特殊な修行ではなく、一般の人も瞑想と思わず瞑想をしていることもあるということと、瞑想の精神状態はどういうものであるかの例を解説しました。

そして中道については、バランス感覚、ニュートラルでフリーな立場、臨機応変な対応などの意味があり、八正道+アルファを実践する上で全般的に心がけた方が良いことを解説しました。

以上、自他ともに幸福になるために、少しでもお役に立てれば幸いです。

最後に目次を添付します。
連載シリーズで書いてきたので、まとまりに欠ける部分があることをご容赦ください。
八正道は必要十分か?
八正道が必要十分でない例(正しく聴く)
八正道を心がけない場合のデメリット
八正道超入門実践法
八正道正見心がけのポイント
あるがままに観るポイント
多角的観方の具体例
八正道正念・正定入門
八正道と瞑想
瞑想って何?(ある職人の話)
八正道と中道
やさしい八正道入門まとめと目次

瞑想・慈愛  |  トラックバック(0)  |  コメント(0)  |  ↑Top

2012/02/09 (Thu) 14:30

平常心で人間卒業

DalaiLama2.jpgThichNhatHanh2.jpg

何のために修行しているのか?筆者は最近よくそう訊かれます。昔はいろいろなことを考えていましたが、最近はこう答えるようにしています。

常に平常心を保ち、死ぬときに思い残すことなく笑って人間卒業と言えるように。

常に平常心と言うと、悟りすまして無味乾燥な心を想像する人もいるかもしれませんが、筆者の言う平常心はそうではありません。例えば音楽の演奏家です。どんなに喜怒哀楽を激しく表現していても、どこかに平常心・冷静な心がなければ演奏できません。あるいは別の例では、飛行機の機長や船の船長が事故に遭ったときの冷静な心です。もうだめだ、自分は死ぬ、そう思っても、一人でも多くの乗客を助けるために冷静な心で最後まで最善を尽くす。こういう心です。人間である限り心が動いたり動揺するのは避けられず、またそれを無理に平静を保つ必要はないでしょう。しかしどこかに平常心・冷静な心を持っていたいと思っています。

具体的な人物で言えば、ダライ・ラマやティク・ナット・ハンです。チベット虐殺やベトナム戦争のさなかでも、常に平常心を失わずに冷静に平和や微笑みを説いた人達です。そして彼らは無味乾燥ではありません。写真でも分かるように、ダライ・ラマは情熱的ですし、ティク・ナット・ハンは深く語りかけるような微笑みをしています。

人間卒業と微笑んでいられるようにというのも筆者の願いです。死んだら終わりなのか、天国地獄に振り分けられるのか、輪廻があるのか、それとも解脱があるのか、筆者には分かりません。しかしどのケースであっても、やるだけのことはやった、思い残す事はない、人間卒業と笑って死ねる人生となるよう、それが修行だと思っています。

そのためには、(と言うと実は本末転倒な表現ですが)、日々やるべき事できる事をやり、人のため他の生命のために少しでも役に立つことをやり、今ここを生きることだと思っています。そうやって自分にとって当たり前の事を当たり前にやって生きることが修行の目的であり同時にプロセスだと思っています。

また考えが変わることもあるかもしれませんが、今はそんな風に考えています。

コラム  |  トラックバック(0)  |  コメント(5)  |  ↑Top
 | HOME | 
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。