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2009/12/16 (Wed) 21:00

努力は報われるのか

前回の無為自然に関連して、努力は報われるのかと言うことを考察してみます。

結論から言うと、相対的な何かを求めること、
つまり人との比較において何かを求める努力は最終的には報われないでしょう。
報われたとしても、それは一時的な満足に過ぎません。
必ずそれを超える人がいつかは現れます。
人と比較する、そこにエゴが存在し、
エゴは決して報われることはありません。

では絶対的な何かを求めること、例えば覚りを求めることは報われるのでしょうか?
それも徒労に終わることがほとんどでしょう。
絶対的な何かを求める動機を見極める必要があります。
絶対的な何かを求める場合でも、
現状に満足していないから、より何かを求めるのです。

絶対的だと思っていても、そこには現在の自分との比較があります。
比較があるとき、そこには必ず不満があります。

何かを達成しようとする心、何かを得ようとする心、
その心そのものが不満の裏返しであり、
財産を得ようとするような俗世の欲望となんら変わることがないのです。
そしてそのような欲望は必ず失敗に終わると、
古今の賢者達が証言しています。

現在の瞬間に満足する、そういう心がけがない限り、
如何なる努力も最終的にはどこへも到達することができないでしょう。

努力自体を楽しむこと、それは悪戦苦闘するいわゆる努力ではなく、
現在の瞬間に満足して楽しむ無為自然な努力、
そういう努力以外の努力は報われることは決してないでしょう。


瞑想・慈愛  |  トラックバック(0)  |  コメント(6)  |  ↑Top

Comment

No title

こんにちは!

>現在の瞬間に満足する、そういう心がけがない限り、
如何なる努力も最終的にはどこへも到達することができないでしょう。

>努力自体を楽しむこと、それは悪戦苦闘するいわゆる努力ではなく、現在の瞬間に満足して楽しむ無為自然な努力、
そういう努力以外の努力は報われることは決してないでしょう。

すばらしい言葉ですね。おっしゃる事は頭では良く分かるのです。
しかし、すぐ次の瞬間 いつの間にか 不満足 不安 に心が覆われてしまいがちです。

在るもの、所有しているものはすぐ当たり前になってしまうようです。その結果 不足するもの 無いものにばかり目が行き 不満不安に覆われてしまいます。

心に刻んで置きたいですね!
ウタカタ |  2009年12月28日(月) 11:40 |   |  コメント編集

こんばんは!

ウタカタさん

すばらしいコメントありがとうございます。
何度も読み返しています。
所有しているものが当たり前になってしまう感覚は私にもあります。
そうではなく、仮にここにあるという感覚を持ちたいと思いました。
ありがとうございます。
CyberBaba |  2009年12月28日(月) 21:30 |   |  コメント編集

No title

CyberBabaさん こんにちは!
コメントありがとうございます。恐縮です。

何かを得ればさらにもっと欲しいとどうしても欲望が芽生えます。そういった意味では欲望というのは心が 今 ではなく 未来にあるのでしょうか!大金で買った電気製品やら、その後ほとんど飾り物です。(笑い)
又人類全体が営々とさらに良い生活をと築いたこの社会・現状は永続性がなくかえって将来が暗い展望となっています。

>努力自体を楽しむこと、それは悪戦苦闘するいわゆる努力ではなく、現在の瞬間に満足して楽しむ無為自然な努力、

そういった意味もあり余計 ご指摘の 現在の瞬間に満足・・・ は
心に響きます。心を 今 にとどめることが大切と思いました。

>そうではなく、仮にここにあるという感覚を持ちたいと思いました。

ですが、深いですね。私の想定外です。
所有しているものが仮にあり そしてその状態を明確に認識するということ でしょうか?諸行無常 と いう真実とサティー の実践の両方と捉えればいいのでしょうか?
あるいは小欲知足の知足ですね?



ウタカタ |  2009年12月30日(水) 17:44 |   |  コメント編集

こんにちは!

ウタカタさん

コメントありがとうございます。

> 大金で買った電気製品やら、その後ほとんど飾り物です。(笑い)

私はケチな方なので、買ったものは使い潰すまで使います。(笑)
食べ物も賞味期限が切れても捨てずに食べきります。


>> そうではなく、仮にここにあるという感覚を持ちたいと思いました。

> ですが、深いですね。私の想定外です。
> 所有しているものが仮にあり そしてその状態を明確に認識するということ でしょうか?諸行無常 と いう真実とサティー の実践の両方と捉えればいいのでしょうか?
> あるいは小欲知足の知足ですね?

これは何も私が言い出したことではありません。(笑)
自分は本来何も所有していない、
所有するとは一時的に自分のそばにあるだけであり、
やがては離れていくものだというのが、
仏教でもヒンドゥー教でもジャイナ教でも、インドの思想の根底です。

ですからヒンディー語では、
持っているという言葉(英語のhaveにあたる動詞)はありません。
もしくは、あるのかもしれませんが使いません。

「私が持っている」というのは、「私のそばにある」と表現します。
店で「何々ありますか?」と聞くときは、「何々に会えますか?」と聞きます。

しかしそれが、インド人は所有欲少ないということにはなっていないのが実情ですが。(笑)
CyberBaba |  2009年12月30日(水) 18:20 |   |  コメント編集

No title

あけまして おめでとうございます!!
今年もよろしく お願いします。

>ですからヒンディー語では、
持っているという言葉(英語のhaveにあたる動詞)はありません。
もしくは、あるのかもしれませんが使いません。

なるほど、根本的な考え方が違うのですね。知りませんでした。
それにしても、根本的な言語構造が所有を否定しているのに、実際の行動は異なるというのは、人間の欲望の深さですね。(笑い)

いずれにしろ、物質的な文化では限界があるのが明白であり、スピリチュアルな世界がますます要望されていると思います。

CyberBaba さん 大変ですけど 色々活躍下さい。

ウタカタ |  2010年01月01日(金) 11:56 |   |  コメント編集

あけましておめでとうございます

ウタカタさん

あけましておめでとうございます!
いつもコメントとご声援ありがとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。


ところで、

>> ですからヒンディー語では、
>> 持っているという言葉(英語のhaveにあたる動詞)はありません。
>> もしくは、あるのかもしれませんが使いません。
> なるほど、根本的な考え方が違うのですね。知りませんでした。
> それにしても、根本的な言語構造が所有を否定しているのに、実際の行動は異なるというのは、人間の欲望の深さですね。(笑い)

ですが、思い起こしてみると「誰々の」という所有代名詞や疑問詞は存在し、
またよく使います。
不思議ですね。(笑)
CyberBaba |  2010年01月01日(金) 12:29 |   |  コメント編集

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