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2010/01/09 (Sat) 21:00

クリシュナムルティの瞑想

krishnamurti.jpg


以前全ての瞑想は無意味であるで、
クリシュナムルティはいわゆる瞑想を一切否定したと書きましたが、
誤解を招く書き方だったため、いろいろご意見ご質問をいただきましたので、
クリシュナムルティの言う瞑想とは何かを、あらためて書くことにしました。

クリシュナムルティが否定したのは、「いわゆる」瞑想、
つまり座って目を閉じてじっとしている瞑想「法」で、
瞑想自体を否定したわけではありません。

クリシュナムルティにとっての瞑想とは、ただ観察し理解すること、
つまり純粋なヴィパッサナー瞑想のことです。
またその純粋なヴィパッサナー瞑想を、日常の人間関係においても行うことで、
自分の心を直接理解することが瞑想なのです。

またクリシュナムルティにとって、そこにはメソッドやテクニックも必要ないのです。
ただ観察して理解するだけなのです。
それがクリシュナムルティが一切の瞑想を否定したという意味で、
瞑想自体を否定したわけではありません。

以下「自我の終焉―絶対自由への道」よりクリシュナムルティの言葉の抜粋をします。

「瞑想とは何でしょうか。確かに瞑想は理解することです。つまり心の瞑想とは理解することです。」
「瞑想の出発点は自己認識です。そしてこの自己認識は、思考や感情のすべての動きを凝視し、表面的な上層ばかりでなく、奥深いところに隠れている下層の活動も含めて、私のあらゆる意識を知ることなのです。」
「精神は、それ自身の活動の正確な意味を理解し、それによって精神に静寂をもたらさなければならないのです。しかし単なる訓練や強制や鍛錬によって、その静寂と沈黙を得ることはできません。」
「精神自身の活動を理解し、それを注意深く観察し、凝視し、精神の無慈悲な働きや、召使や妻や娘や母親などに対する話し方などを見つめることによってのみ、精神は静寂と平和と沈黙をもたらすことができるのです。」
「瞑想は自己認識であり、自己認識がなければ瞑想はないのです。もしあなたが絶え間なくあなたのすべての反応を凝視することもせず、またあなたの毎日の活動を注意深く見守りもしないで、ただ瞑想するために部屋に閉じ籠もって、あなたの精神的指導者や師の写真の前に座っているだけなら、それは逃避に過ぎないのです。」
「完全に凝視している人が、本当の意味で瞑想しているのです。」
「精神の全過程についての理解は、分析や内省によって生れるものではありません。」


誤解を招く表現をして申し訳ありませんでした。

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瞑想・慈愛  |  トラックバック(0)  |  コメント(4)  |  ↑Top

Comment

No title

こんばんは!

クリシュナムルティの瞑想 について 再度の アップ 拝読いたしました。
誠実なcyberbabaさんの熱意を感じました。わたしも改めて感じなければと思いました。

確かに前回の切り出しはショキングでした。
しかし だからこそ 私の如きの目にもとまり 色々やりとりさせていただきました。先ず改めて感謝いたします。

さて 私 彼のこと まだですので 恥ずかしいのですが 瞑想の行き着くところとして置いているのは どうも やはり 精神の 静寂と平和と沈黙 なのですか?

そうだとすると 一方では安心しました。やはり 広い意味では 瞑想は手段かな?と。反面 人間 よくばりですね!瞑想が手段であるとすると 今度は 瞑想が メソッドに成り落ちる危険性があるかなと?

その点で 第1稿は厳しくメソッドとしての瞑想に関して警鐘をならしているとも思いますし、今回とあわせて 改めて 素晴らしいと思います。

瞑想の失敗 の稿とかとあわせて 拝読させていただくと おっしゃる意味はよく分かる気がします。

あらためて瞑想の素晴らしさと危険性を再認識しました。

ありがとう ございました!!!
ウタカタ |  2010年01月11日(月) 20:58 |   |  コメント編集

こんばんは!

ウタカタさん

いつもコメントありがとうございます。

「全ての瞑想は無意味である」はショッキングでしたか?
ちょっと驚かせてやろうという意図に引っかかりましたね^^;

さて、クリシュナムルティの瞑想の行き着くところですが、
私もいま読み直しています。

幸い書籍を買いなおさなくても、ネットで読める時代となりました。
「クリシュナムルティ語録」
http://krishnamurti.blog62.fc2.com/
「クリシュナムルティ」
http://www.geocities.jp/andreaskjp/jk/framepage4.htm

それらによると、瞑想とは、いかなる過去とも離れ、
現在あるがままを味わうことのようです。
そしてそこにはなんの目的もないようです。

私の読み違いかもしれませんので、
是非ご自身でお読みになることをお勧めします。

本年もよろしくお願いいたします。
CyberBaba |  2010年01月11日(月) 22:22 |   |  コメント編集

No title

mixiから来ました。

質問にご回答頂きありがとうございました。

瞑想とかチャクラとか、あまり重要視していなかったのですが、いわゆる悟りは得てみたいと思っていて、試しに座禅をしましたら、意外にも「気」というものの存在を実感しました。

その時、正直、気の流れと、私の意識?内心とはあまり関係ないかな?という感じもしましたが、古来から悟りを目指す人たちが瞑想したりチャクラを開発することに余念がなかったということからも、全く無関係ではないのかな?とも感じております。

そこのところが知りたくて、今いろいろ情報を探していますが、本当の答えは自分の中にしかないのかな?




ごんりえ |  2010年01月13日(水) 14:51 |   |  コメント編集

いらっしゃいませ

ごんりえさん

智恵の海へようこそ、ご来訪ありがとうございます!

気というものは実際にありますし、チャクラとかもあります。
しかしそれらは生体エネルギーやそのジャンクションに過ぎず、
いわば肉体の一部だともいえます。

そういうものを活性化させれば心身ともに健康になりますが、
それに捉われるのはかえって悟りから遠ざかると思います。

詳しくは以下の記事をご参照ください。
チャクラ
http://cyberbaba.blog57.fc2.com/blog-entry-118.html
CyberBaba |  2010年01月13日(水) 22:25 |   |  コメント編集

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