2010/02/06 (Sat) 21:00
慈愛とは何か?
慈愛とは何でしょうか?
筆者はあえて慈悲でもなく愛でもなく、慈愛と書いています。
どちらの言葉も使い古されて、イメージがあまり良くないためです。
世間一般の人は慈悲とは高所から掛けてやるものだというイメージがあります。
仏教系の人は愛とは執着であるとして嫌います。
ですから、あえて慈愛という言葉を使っています。
またこの言葉が最も慈悲や愛の本質を表していると思います。
慈愛とは、全ての生き物の幸福を願う気持ちです。
また、全ての生き物が好きだという気持ちです。
幸福を願う根本には相手が好きだ、
少なくとも好ましいまたは本質的には嫌いではないという気持ちが必要です。
そしてその相手は全ての生き物なので、慈愛の気持ちを持つことは難しいことです。
本当は嫌いなのに慈悲を掛けることは一種の偽善です。
といって、好きなものだけに愛情を注ぐのは慈愛とは言えません。
ですから慈愛を育むというのはなかなか大変な修行なのです。
慈愛の境地とは神、仏の境地なのです。
筆者はマザー・テレサにちょっとだけお目にかかったことがありますが、
誰にでも、おばあちゃんが孫に接するように接していました。
それ以外は普通のおばあちゃんにしか見えず、
ヨーロッパの町を普通の格好をして歩いていたら、おそらく気づかないでしょう。
マザー・テレサについては偽善だとか焼け石に水だとか賛否両論ありますが、
慈愛とはああいうものだと思います。
筆者はあえて慈悲でもなく愛でもなく、慈愛と書いています。
どちらの言葉も使い古されて、イメージがあまり良くないためです。
世間一般の人は慈悲とは高所から掛けてやるものだというイメージがあります。
仏教系の人は愛とは執着であるとして嫌います。
ですから、あえて慈愛という言葉を使っています。
またこの言葉が最も慈悲や愛の本質を表していると思います。
慈愛とは、全ての生き物の幸福を願う気持ちです。
また、全ての生き物が好きだという気持ちです。
幸福を願う根本には相手が好きだ、
少なくとも好ましいまたは本質的には嫌いではないという気持ちが必要です。
そしてその相手は全ての生き物なので、慈愛の気持ちを持つことは難しいことです。
本当は嫌いなのに慈悲を掛けることは一種の偽善です。
といって、好きなものだけに愛情を注ぐのは慈愛とは言えません。
ですから慈愛を育むというのはなかなか大変な修行なのです。
慈愛の境地とは神、仏の境地なのです。
筆者はマザー・テレサにちょっとだけお目にかかったことがありますが、
誰にでも、おばあちゃんが孫に接するように接していました。
それ以外は普通のおばあちゃんにしか見えず、
ヨーロッパの町を普通の格好をして歩いていたら、おそらく気づかないでしょう。
マザー・テレサについては偽善だとか焼け石に水だとか賛否両論ありますが、
慈愛とはああいうものだと思います。
furさん
いつもありがとうございます。
マザー・テレサのところでボランティアされていたのですね。
私はやりませんでしたが、素晴らしいことだと思います。
仏教では愛は執着であるとし、慈悲という言葉を好みます。
渇愛という言葉があり、ネガティブな意味で使われています。
慈愛について書き始めたら、このコメントやミクシィの方のコメントも雰囲気が変わってきて、みなさん期待してくださっているようで励みになります。自分は慈愛タイプではないと思っていたので、書いていけるかな?と思っていたのですが、なんとか書いていけそうです。智恵タイプの人から見た慈愛、というような感じで、他の方がよく書いている愛や慈悲や慈愛とはちょっと違った記事が書けそうです。
今後ともよろしくお願いいたします。
いつもありがとうございます。
マザー・テレサのところでボランティアされていたのですね。
私はやりませんでしたが、素晴らしいことだと思います。
仏教では愛は執着であるとし、慈悲という言葉を好みます。
渇愛という言葉があり、ネガティブな意味で使われています。
慈愛について書き始めたら、このコメントやミクシィの方のコメントも雰囲気が変わってきて、みなさん期待してくださっているようで励みになります。自分は慈愛タイプではないと思っていたので、書いていけるかな?と思っていたのですが、なんとか書いていけそうです。智恵タイプの人から見た慈愛、というような感じで、他の方がよく書いている愛や慈悲や慈愛とはちょっと違った記事が書けそうです。
今後ともよろしくお願いいたします。
CyberBaba |
2010年02月08日(月) 14:26 |
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慈愛のお話しをこれからたくさんして下さるとのことで、楽しみにしていたら、
マザーのお話しを出して下さって、
ついつい、またまた、コメントいたします。
そーなんですよねー!私もお会いする光栄に授かりましたが、
本当に普通のおばあさんですよね。
私は亡くなられる直前にインドにいまして、一緒にお祈りしたり、
ボランティアをしていました。
亡くなられた時はインド中が喪に服しました。
カルカッタ中の花が売り切れて、全部マザーの死を悲しむ花束になりました。
ところで、愛という言葉は仏教で執着としてとられているなんて、知りませんでした!
慈愛という言葉を使われるというところ、とてもわかりやすく、
何かそのことを巡って、自分の中で考えることがありました。
ありがとうございます。
また、次も楽しみにしていま~~す!