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2008/12/24 (Wed) 21:00

汝の敵を愛せよ

キリストの言葉で最も重要なのは、「汝の隣人を愛せよ、汝の敵を愛せよ」でしょう。
全ての人を敵味方無く愛せよ、これ以上重要なキリストの教えは無いでしょう。
でも頭では「その通り、誰でも分け隔てなく愛さねば」と思っても、実際には困難です。
しかしこれを実践できるようになる方法を2つ紹介しておきます。

1つはテーラワーダ仏教の慈悲の瞑想です。
以下のように唱えます。

私が幸せでありますように
私の悩み苦しみがなくなりますように
私の願いごとが叶えられますように
私に悟りの光が現れますように
私が幸せでありますように(3回)

私の親しい人々が幸せでありますように
私の親しい人々の悩み苦しみがなくなりますように
私の親しい人々の願いごとが叶えられますように
私の親しい人々にも悟りの光が現れますように
私の親しい人々が幸せでありますように(3回)

生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように
生きとし生けるものにも悟りの光が現れますように
生きとし生けるものが幸せでありますように(3回)

私の嫌いな人々も幸せでありますように
私の嫌いな人々の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々の願い事が叶えられますように
私の嫌いな人々にも悟りの光が現れますように

私を嫌っている人々も幸せでありますように
私を嫌っている人々の悩み苦しみがなくなりますように
私を嫌っている人々の願い事が叶えられますように
私を嫌っている人々にも悟りの光が現れますように

生きとし生けるものが幸せでありますように(3回)


もう1つはハワイに伝わるホオポノポノです。(公開時点でネット上に詳細情報なしです。)
以下のように唱えます。

ごめんなさい
許してください
ありがとう
愛しています


継続して実践している人達によると、どちらも絶大な効果があるようです。
どうしても愛せない人がいる人は、試してみてはいかがでしょうか。


【追記】

・瞑想の表記について
冥想という表記もありますが、
瞑想の方が一般的な表記のため、
また冥は冥界をイメージさせるため、
このブログでは瞑想という表記を用いています。

・ホオポノポノの表記について
ホ・オポノポノという表記もありますが、実はこれは誤訳だそうです。
詳しくは、ぱるばか日誌 2008 の、
「11月6日(木) ホオ・ポノポノ!」「11月24日(月) ポノポノ翁」をご参照ください。
瞑想・慈愛  |  コメント(6)  |  ↑Top

Comment

No title

慈悲の瞑想について。合理的にお話をしてくださるサイババさまにおうかがいしたい点があります。
生きとし生けるものというのはあらゆる生物という意味だと思いますが、生物の立場に立ってみると、幸せは良いとして、悩み、願い事が果たしてあるのでしょうか。悟りの光はあるのでしょうか。嫌っている人の願い事は、人々の幸せを願っているとは思えないと、下種のかんぐりをしてしまうのですが、良いことを願っていると読み替えてめんどくさい感じがします。流派によっては違う言葉で祈っているようでもありますが。ご意見をお聞かせください。
arthur |  2010年04月21日(水) 21:43 |   |  コメント編集

慈悲の瞑想

arthurさん

どれも難しい質問ですね ^^;

先ずはこれから。

>流派によっては違う言葉で祈っているようでもありますが。

違う言葉の場合もあります。慈悲の瞑想は母国語で行うのが良いとされ、翻訳によっても変わりますし、一説によるとブッダの時代ではなく、後世に作成されたものとも言われています。慈悲の瞑想は、それを行うことによって自分の心を変えるのが最大の目的で、それによってその文言の願いが叶うかどうかは二の次とされます。

これらを先ず踏まえた上で、、、

>生物の立場に立ってみると、幸せは良いとして、悩み、願い事が果たしてあるのでしょうか。

どうなのでしょう?人間ほどではないにしても多少はあるのかもしれません。しかし上述したように、慈悲の瞑想によって生物の悩みがなくなるとか、願い事が叶うとかが最大の目的ではありません。こういう気持ちになれることが大切だと考えられます。

>悟りの光はあるのでしょうか。

もし輪廻転生が本当にあるとすれば、いつかはそのチャンスが訪れるはずです。それを願うということではないでしょうか?しかしそれも実際に願いが叶うかどうかではなく、そういう気持ちになれるかどうかが重要なのだと思います。

>嫌っている人の願い事は、人々の幸せを願っているとは思えない

これは難しいですね。しかし、どんな人でも本当は心の奥では幸せを願っているのではないでしょうか?その人が表面的に願っていることではなく、人の本性・仏性を観るように、そういう気持ちになることが重要ではないかと考えられます。しかしこれは私にとっても難しい部分です。嫌っている人の項では、悟りの光が現れますように、とだけで後は省略することも結構あります。そうしないと気持ちが入らず、逆に怒りが湧いてくる場合もありますので。お坊さんなどの指導でも、この部分は無理して唱える必要はないとされています。先ず自分の幸せを願い、徐々に拡大していけば良いとされています。実際そういう気持ちになれるときはなれるので、いつでもそういう気持ちになれるよう、私も修行していきたいと思います。
CyberBaba |  2010年04月21日(水) 23:12 |   |  コメント編集

No title

温かいご解説、ご指導心に沁みます。ありがとうございます。
お釈迦様はバランスを大切にしていて教条主義ではないのですものね。「気持ちが入らず」嘘をついているような気分でどうもなじめないところがあったのです。お説のように自分でアレンジして徐々に拡大してやってみます。
arthur |  2010年04月22日(木) 08:42 |   |  コメント編集

徐々にで大丈夫です

arthurさん

いつもコメントありがとうございます。

慈悲の瞑想は、最初の方から順にできるものから徐々にで大丈夫です。
これは自己流ではなく、お坊さんたちもそう指導されています。
大切なのは、必ず最初に自分から始めることです。
理由はたくさんありますので、ご自分で考えてみてはいかがでしょうか?
CyberBaba |  2010年04月23日(金) 00:01 |   |  コメント編集

No title

サイババさま
ご親切な指導ありがとうございます。アドバイス拝見する前に、山下良道師の慈悲の瞑想録音を聞いてしまい、たくさんあるとおっしゃる理由の一つは自分で考えないで知ってしまいました。「己に背くもの」は過去の関心事ですっかり忘れていましたが、ペイン何とかとかのたとえで丁寧に語っていらっしゃいました。梵語でも発声していましたが、深く念じるのは慈の項目だけじっくりと時間をかけてなさっていました。これなら納得できます。蓋をあけると常識なので少し力が抜ける面もあります。慈悲喜捨のセットだからとか、いろいろ勘ぐって凄いわけがあるのではと神秘化しているうちが幸せという傾向が日本人にはあるようにも思われます。
arthur |  2010年04月24日(土) 08:21 |   |  コメント編集

ありがとうございます

arthurさん

実は理由のいくつかはこのブログのどこかに箇条書きされています。でもそういう知識なしで自分で発見・考察・洞察することが大切だと思い、あえて場所をかきませんでした。でも先に知っていても、もう一度自分で検討すれば良いので、知ってしまったことはしかたないのでそれで良いと思います。
ペイン何とかはペインボディのことですね。山下良道さんもなかなか素晴らしいですね。正しい見方、正見されていると思います。またパオを卒業されているのもすごいです。ご本人はパオにはあまり肯定的ではないようですが・・・
CyberBaba |  2010年04月24日(土) 20:58 |   |  コメント編集

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