2010/09/08 (Wed) 21:00
自分の物語・カルマからの脱出
久しぶりのブログ更新になります。
今回は人生の物語からの脱出というテーマです。
人は自分の人生をある特定の視点からの物語からにしてしまいがちです。
どいういうことかというと、いろいろな出来事・事実に対して、
ある特定の視点・概念からの解釈・意味づけを行い、
その文脈から自分あるいは他人が幸不幸だと判断してしまいがちだということです。
このことは歴史物語を考えてみれば一目瞭然です。
歴史的事実はただ一つですが、物語を書いた作者の視点により、
さまざまな解釈・意味づけが行われ価値判断がされます。
私たちは同じようなことを自分の人生においてもやっているのです。
自分の人生では自分が主人公ですので、
その主人公の人生に対して「自分の価値観」を投影させているのです。
このことが自分の人生に対して客観性を欠くことになり、
様々な幸不幸、特に不幸が生じます。
筆者はカルマという言葉は好きではありませんし、輪廻があるかどうか分かりませんが、
もし輪廻があるなら、こういう固定した概念・考え方がカルマです。
(過去記事カルマの法則をご参照ください。)
ではこういう物語・カルマから脱出するにはどうすれば良いのでしょうか?
それには現在の自分をあるがまま客観的に見つめ、
過去の心理的束縛から離れるのが一番効果的です。
例えば考え事をせずにひたすら歩いてみます。
そのときの自分を客観的に見つめれば、そこには幸不幸を背負っている人はなく、
ただ歩いている一人の人間があるのみです。
現在の事実は歩いている人間がいる、ただそれだけです。
そして歩くのを終えても、再び物語・カルマに入り込まないようにすることです。
常に現在を客観的に見つめることができれば(これがヴィパッサナー瞑想ですが)、
やがて物語・カルマの世界から脱する、あるいは影響を弱めることができるでしょう。
今回は人生の物語からの脱出というテーマです。
人は自分の人生をある特定の視点からの物語からにしてしまいがちです。
どいういうことかというと、いろいろな出来事・事実に対して、
ある特定の視点・概念からの解釈・意味づけを行い、
その文脈から自分あるいは他人が幸不幸だと判断してしまいがちだということです。
このことは歴史物語を考えてみれば一目瞭然です。
歴史的事実はただ一つですが、物語を書いた作者の視点により、
さまざまな解釈・意味づけが行われ価値判断がされます。
私たちは同じようなことを自分の人生においてもやっているのです。
自分の人生では自分が主人公ですので、
その主人公の人生に対して「自分の価値観」を投影させているのです。
このことが自分の人生に対して客観性を欠くことになり、
様々な幸不幸、特に不幸が生じます。
筆者はカルマという言葉は好きではありませんし、輪廻があるかどうか分かりませんが、
もし輪廻があるなら、こういう固定した概念・考え方がカルマです。
(過去記事カルマの法則をご参照ください。)
ではこういう物語・カルマから脱出するにはどうすれば良いのでしょうか?
それには現在の自分をあるがまま客観的に見つめ、
過去の心理的束縛から離れるのが一番効果的です。
例えば考え事をせずにひたすら歩いてみます。
そのときの自分を客観的に見つめれば、そこには幸不幸を背負っている人はなく、
ただ歩いている一人の人間があるのみです。
現在の事実は歩いている人間がいる、ただそれだけです。
そして歩くのを終えても、再び物語・カルマに入り込まないようにすることです。
常に現在を客観的に見つめることができれば(これがヴィパッサナー瞑想ですが)、
やがて物語・カルマの世界から脱する、あるいは影響を弱めることができるでしょう。
しんちゃん |
2010年09月09日(木) 04:38 |
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コメント編集
しんちゃんさん
鋭いご指摘ありがとうございます。そういう考えもあって当然だと思います。もし現在幸福であるなら、本文のような事はとりあえず気にしなくても良いし、実際気にする人はほとんどいないと思います。本文の主な読者対象は、現在不幸にある人を対象にしています。
しかしながら主観的幸福にある人も、実は潜在的問題を抱えています。そういう幸福がいつまでも続くという保障はどこにもなく、また遅かれ早かれ不幸に転じるのが普通です。それは主観的幸福にある人は、その状態に執着しがちだからです。主観的な幸福というのは、通常幸福である状態の範囲が限られています。
そういう主観的な幸不幸から離れ、自分の物語を作り上げたり巻き込まれたりせずに平常心を保つことができれば、幸不幸の荒波から逃れることが可能です。
鋭いご指摘ありがとうございます。そういう考えもあって当然だと思います。もし現在幸福であるなら、本文のような事はとりあえず気にしなくても良いし、実際気にする人はほとんどいないと思います。本文の主な読者対象は、現在不幸にある人を対象にしています。
しかしながら主観的幸福にある人も、実は潜在的問題を抱えています。そういう幸福がいつまでも続くという保障はどこにもなく、また遅かれ早かれ不幸に転じるのが普通です。それは主観的幸福にある人は、その状態に執着しがちだからです。主観的な幸福というのは、通常幸福である状態の範囲が限られています。
そういう主観的な幸不幸から離れ、自分の物語を作り上げたり巻き込まれたりせずに平常心を保つことができれば、幸不幸の荒波から逃れることが可能です。
CyberBaba |
2010年09月09日(木) 21:53 |
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幸、不幸はその本人が決める、感じることだとするならば、主観的ではいけない理由はどこにあるのでしょうか?これは、逆説的なことですが、例えば「人生、すべてカネ次第」という観点から物事を判断し、その価値観のみに己のエネルギーを費やして、不幸を感じてない。悩み事などない。実際、すこぶる元気そうに見えるという方も現実的にいらっしゃっいます。そのような場合、客観的云々は不毛で、むしろ不幸な行為と見なされるかもしれませんね。その辺はどうなんでしょうかね?