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2010/12/30 (Thu) 18:00

健全なエゴ

エゴというのは否定的な文脈で語られることが多いですが、
健全なエゴというものは必要です。
プラユキさんはよくこうおっしゃります。筆者も自分なりに考察してみました。

エゴという言葉がどういう意味で使われるかは人により文脈により様々ですが、
基本にあるのは個としての自覚ということがあると思います。
「私」という意識です。
そして「私」には領域や境界という概念が伴い、通常は身体や身体の周りの空間や、
周りの物質や心を含めた情報などが「私」の領域に含まれます。
つまり区別です。
エゴというのは個としての自覚・区別が基本であり、社会生活を営む上では必須です。

ではエゴがなければどうなるかと考え、
個としてのエゴが希薄な生物の典型として、ミツバチを思い浮かべてみました。
ミツバチは個としての自覚がないまたは希薄で、
代わりに群れとしてのアイデンティティ、エゴを持っています。

働き蜂はせっせと働き、群れの危機の場合は進んで命を捧げます。
女王蜂と雄蜂は子作りに精を出しますが、
これも自分のためというより、群れのためという要素が強いです。

次に、こういう生活、個としてのエゴのない生活を人間がやったらどうなるかと考えました。
これは人間にとっては苦痛でしょう。
プライバシーは全くなく相部屋の生活、自他の区別もない、
個性もない部品のような生活が思い浮かびました。

さらに、別の観点から考えました。
ミツバチは個としてのエゴは希薄ですが、群れとしてのエゴはまだ持っています。
これもなくして宇宙全体の一部であるという意識を持ったらどうなるか。
ミツバチの生活はあまり変わらず、また今以上にハッピーでもないでしょう。

結論として、個としての自覚・区別という意味でのエゴは必要で、
それはブッダでもキリストでも持っています。
それがなければ教えも説けないどころか、生活もできません。
そして「私」のことだけが全てを理解できる可能性を持っていて、
また「私」のことだけが完全にコントロールできる可能性を持っています。

ではブッダの説いた無我とは何だろうかという疑問が残ります。
おそらくそれは善悪の判断をせず徹底的に我を観察した結果、
全く別の次元、別の角度からの観方を発見したのだと考えられます。
そして、エゴをただ否定するだけではその境地に達することは不可能でしょう。

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不健全なエゴ

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 |  2010年12月30日(木) 18:16 |   |  コメント編集

苦しみの命の危険が迫ったとき

苦しみの命の危険が迫ったとき

はじめまして、ブログ「智慧の海を」少し拝見させて戴きました。 
勉強になります本当に感謝申し上げます。
空の理論とか、国は概念という考え方に 大変興味が出ました。

今まで慈悲の瞑想程度を若干している程度で
まだまだまだまだ 不勉強ですのでどうか色々勉強させて下さい。
お願い申し上げます。

すみません、私は大変エゴが強い人間だろうと思います。
ある学校教育者の方からエゴは減らした方が良いが
全く無くなると動けなくなる人が多いので
「エゴエゴ人間なら時には大いなるセルフを育てるべき」
との進言を受けました。
本年ももう終わりますが、大いなるセルフと言う事で
瀬戸内海の環境問題などで少し頑張っております。

実は色々あり特にここ数年ストレス過多で悩んでおります。
そこで 上座仏教を第一に救いを求めるようになりつつあります。

誠に年末時に申し訳ない次第ですが、若干質問させて下さい。
文章が元来下手ですので以下の長文をどうかお許し下さい。

加えて初心者の未熟な質問を出来ればお許し下さい。

質問は
Q:「仏教信者のとくに悟りのレベルの方々は
外的要因で本当に苦しんだり、命の危険を感じた場合
どう対応されるのか?」と言う質問です。

命の危険を感じるような危険な時に
または死にそうな苦しみが身近に迫った時に
悟りのレベルまで行けば、その修行の程度により
いわゆる神様に救いを求めないような強い心でおられるように
なれるのでしょうか?あるいは仏様に救いを求めるのでしょうか?
最期まで自力本願で冷静に対応するのが本当の仏教信者の姿なのでしょうか?

ごめんなさい、実は本当に私は弱い人間ですから
上座仏教的な方向に学ぶべきか
キリスト教的な他力本願も学ぶべきか
救いを求めて悩んでおります。

実はほんの少しの2つの神秘体験をしております。
一つ目は、13歳のとき(現在50歳)
般若心経を何度も唱えていたら、急に止め処なく
涙があふれてきて心の中から不思議な感動が生まれた事があります。

2つ目(これが問題ですが)
34歳の時に 急性アレルギーが原因で心臓不整脈が発生して
一度意識を無くしたあと何時間も体が痙攣してもう頑張れないほどの苦しみと恐怖の体験した事があります。
もしかすれば?臨死様体験をしまして
命を救って欲しいと何らかの神様にその時に何度もおすがりした体験があります。
やがていわゆる花畑のような映像の後にイメージとしてマリア様のような方が現れ体の力を抜くように言われ、家族や今後の人生への言葉を戴きその後に不思議ですが、
何とか命が救われた体験があり、この幻覚的な体験が関係してどうしても
他力本願への希望が出てしまいます。

自己流でスマナサラーナ長老の本やDVDを見させて
戴き、本当に慈悲の瞑想やヴィパッサナー瞑想を
開始した程度の超初心者です。 わかりにくい文章お許し下さい。
nintarou |  2010年12月30日(木) 20:48 |   |  コメント編集

エゴの昇華

今回も分かり易いお話を、ありがとうございます。私も、無我とは何か、エゴとは何、について、時々考える事があります。若い時は、「仏陀が無我を説いた」というのを、ご多分に漏れず「自分(のエゴ)を持ってはいけない」という風に理解して、何でもOKのイエスマンになりかけたのですが、これはあまりにも不自然で不快で、自己を高める道ではない、と思いました。いつの日にか、無我を悟ってエゴ(に内在する負の面)を捨てる日が来るかも知れないけれど、自我=エゴというのは、「先ずは確立するもの」ではないのか、と思い、方向転換しました。先日、台湾の聖厳法師の本を読んでいたら、自己=エゴは、「確立し、成熟させ、その後に昇華するべきである」という文言に出会い、我が意を得たりと思いました。自分が何であるかも分からない人間に、自己が捨てられる訳もない。無我には別の意味があり、決して「私がない」などということではない、と私も思っています。
猫ちゃん |  2010年12月31日(金) 06:32 |   |  コメント編集

No title

>個としての自覚・区別という意味でのエゴは必要で、
それがなければ教えも説けないどころか、生活もできません。
そして「私」のことだけが全てを理解できる可能性を持っていて、
また「私」のことだけが完全にコントロールできる可能性を持っている。


この部分共感します。

ブッタの無我については、自我、つまり、本心の願いに逆らおうとする邪心を完全に無くす。。

こうゆう事だと思います。


この自我が多い事多い事。。
tokage |  2010年12月31日(金) 08:08 |   |  コメント編集

Re: 苦しみの命の危険が迫ったとき

nintarouさん

あけましておめでとうございます。ご質問ありがとうございます。

学校教育者の方の助言は的を得ていると思います。環境問題に取り組むというのは素晴らしいと思います。これに関連して「カルマヨーガ」という過去記事をご一読いただければ幸いです。
http://cyberbaba.blog57.fc2.com/blog-entry-47.html

さてご質問の「仏教信者のとくに悟りのレベルの方々は外的要因で本当に苦しんだり、命の危険を感じた場合どう対応されるのか?」というご質問ですが、いつものように、人によって異なるということを先ず最初に書いておきます。どういうケースがあるかということを2つ書かせていただきます。

先ず根本仏教を修行して悟りまたはそれに近いレベルに達した人は祈ることはないでしょう。神や仏が助けてくれるとも信じていませんし、生に対する執着もないので、そのまま受け入れると思います。しかし何もせずに諦めるのとは違います。肉体はこの世での乗り物ですから大切に扱うべきです。そういう人たちがそういう場面に遭遇した時は、壊れた車を修理するように、平静な気持ちで淡々とやるべきことはやると思います。しかしダメだったらどうしようとかいう心配が無いのです。これはいわゆる強い心とは違います。あくまでも冷静で執着・こだわり・心配がないのです。どのような心境かについては「般若心経シリーズ」の現代語訳をお読みください。
http://cyberbaba.blog57.fc2.com/blog-entry-7.html

もうひとつのケースは大乗の南無阿弥陀仏と唱えたりする他力本願の宗派で高い境地に達した人の場合です。スマナサーラ長老などは仏教と認めておられないようですが、一応仏教に含めて解説をしておきます。他力本願の場合でも、高い境地に進んだ人は、藁をもすがる気持ちで神仏に頼ることは無いと推測されます。おそらく南無阿弥陀仏と唱え続けるのでしょうが、すがるというよりも大船に乗った気持ちでお任せするという境地だと推測されます。すがるのと大船に乗った気持ちでは、他力と一言で言っても全然心境が違います。これはキリスト教徒やイスラム教徒で高い境地に達した人でも同じだと考えられます。イエス・キリストは自分が処刑されるときでさえ、神よ私を助けてください、とは祈りませんでした。

このように、本来の仏教では神仏に救いを求めない心境を目指すのが本筋ですが、他力であっても大船に乗った気持ちを目指すことにより、すがるという気持ちは消滅すると考えられます。

(続く)
CyberBaba |  2011年01月01日(土) 21:28 |   |  コメント編集

Re: 苦しみの命の危険が迫ったとき

さて「上座仏教的な方向に学ぶべきかキリスト教的な他力本願も学ぶべきか救いを求めて悩んでおります」ということですが、祈りたい人は祈るなと言ってもピンチの時など思わず祈ってしまうのです。私自信も結構最近のことですが、自分のことで思わず祈ってしまったことがあります。しかしそういう付け焼刃のエゴイスティックな祈りは叶わないのです。それを分かっていても祈るというのは、過去の体験が大きいと言うのが私の見解です。あまり良い記事ではありませんが「人間は祈る動物である」をご一読ください。
http://cyberbaba.blog57.fc2.com/blog-entry-142.html

で、人間というのは人によって祈る傾向があるというのはどうしようもないことで、それならそれを生かした方が良いと思います。ですからテーラワーダ仏教などでも、祈るとは呼ばないものの、慈悲の瞑想や三帰依などの祈りのようなことをします。そして正しく祈ればある程度叶うのです。

どういう事かと言うと、慈悲の瞑想が典型的ですが、自分の心・潜在意識が変わってくるのです。そのことによって祈りが叶うというのが一つ。もう一つは私はそれほど信じてはいませんが、正しく祈る習慣を持つことにより、神(といって語弊があれば宇宙意識)と意識が一体になって祈りが叶うと言われています。さらにもう一つは、これは効果を信じていますが、大きな力に小さな自分をゆだねることによりエゴが減り、先に書いた大船に乗った心境になれるということです。こちらの例は仏教では三帰依です。

ですから自分が祈るタイプなのか、瞑想(内観)するタイプなのかを見極めることが先ず第一だと思います。こちらの記事をご参照ください。「祈りの宗教・瞑想の宗教」
http://cyberbaba.blog57.fc2.com/blog-entry-141.html
自分のタイプによって、無理のない方法を選ぶのが良いと思います。そして祈るタイプだった場合は、心の中で祈るだけでなく、行動として慈愛を実践することが重要だと言えます。私は祈り・慈愛タイプではないので、詳しくは書いていませんが、目次より検索して「智恵の道と慈愛の道」から「奉仕・布施のご利益・功徳」までと「自分自身も慈愛の対象になるか?」をお読みください。
http://cyberbaba.blog57.fc2.com/blog-category-3.html
既に環境問題に取り組んでおられるとのことで、それは非常に良いことだと思います。

(続く)
CyberBaba |  2011年01月01日(土) 22:03 |   |  コメント編集

Re: 苦しみの命の危険が迫ったとき

神秘体験についてですが、素晴らしい体験をされていますね。しかしそれを執着にしてはいけません。それはもう過去のことなのです。たとえて言えば、結婚式が素晴らしく感動した、というようなことです。それはそれで良いことですが、いつまでもそれにひたっている場合ではありません。現実の生活が待っていますから、どうやって生活していくか、こちらの方がより重要だと言えます。ですから、神秘体験は思い出として取っておいて、現実生活でどうするかと前向きに考えることが重要です。

だいたいこんなところですが、先ずご自分が「瞑想・智恵」タイプなのか「祈り・慈愛」タイプなのかを見極めてください。もちろんはっきりとした境界はないと思いますが、だいたいの傾向を掴むことは重要です。どちらか見極めたら、その結論とともに、ご意見・ご感想・ご質問をもう一度お書きください。もう少し具体的なプランが立てられると思います。では、今後ともよろしくお願いいたします。
CyberBaba |  2011年01月01日(土) 22:20 |   |  コメント編集

Re: 苦しみの命の危険が迫ったとき

書き忘れましたが、こちらの記事も是非お読みください。
「70%の愛」
http://cyberbaba.blog57.fc2.com/blog-entry-56.html
CyberBaba |  2011年01月01日(土) 22:24 |   |  コメント編集

Re: エゴの昇華

猫ちゃんさん

あけましておめでとうございます。いつもありがとうございます。

全くおっしゃるとおりだと思います。

ただ一つだけ。これはこれで正しいと思いますが、別の観方もあるはずです。全面的に賛成すると決め打ちされてしまうかもしれないので、一応書かせていただきました。

本年もよろしくお願いいたします。
CyberBaba |  2011年01月01日(土) 22:29 |   |  コメント編集

はじめまして

tokageさん

はじめまして、あけましておめでとうございます。
共感いただきありがとうございます。

これも正しい観方だと思います。

今後ともよろしくお願いいたします。
CyberBaba |  2011年01月01日(土) 22:32 |   |  コメント編集

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 |  2011年01月02日(日) 07:04 |   |  コメント編集

ご返事が遅れて誠にすみません。

CyberBaba様

年末からのお忙しい時期に沢山ご教示戴き心から感謝申し上げます。

ご返事をしなければと思いつつ、実はまだまだ考えがまとまっておりません。
ご返事が遅れてしまいました、誠にすみません。

無常と言いますか、私のエゴ病だからかは分かりませんが。
過去の自分より、祈りたいと言う気持ちが強くなりつつあります。

歳とともに死期の自覚が強くなってくるからのようにも思えます。

お釈迦様の真理に共感し、またイエスキリストの言葉にも感動し、
いまだに、臨死前体験の幻覚体験からか、マリア様のようなあるいは観音様におすがりしたいという気持ちまであり、

全く我が心がエゴとわがままの無分別な方向に
散乱しているように思います。

祈りを切望する自分が根本にあるようです。
心の散乱を正すために瞑想も行いたいと考えておりますが・・・

正月が終わり、皆様と同様に、目の前にある責務や仕事に
忙殺される日々がはじまりました。
nintarou |  2011年01月07日(金) 13:12 |   |  コメント編集

じっくり内観してみてください

nintarouさん

大事なことですから、あせらずゆっくり自分自身を内観してみてください。実はご自分がどういうタイプであるかを知ること自体がすでに瞑想の始まり、というよりかなり重要な部分になっています。

それをしばらくじっくりやっていただくとして、慈悲の瞑想が効果もあったということなので、続けることをお勧めします。長い時間やる必要はないので、気持ちが入って落ち着けばそれで良いと思います。なお瞬間的に慈悲の瞑想の必要を感じたら、ホオポノポノも有効化と思います。ちょっと違う文脈ですが、以下の記事が参考になるかと思います。「汝の敵を愛せよ」
http://cyberbaba.blog57.fc2.com/blog-entry-15.html
なお慈悲の瞑想の文言は流派によって多少違う場合もありますが、自分のやりやすい方法でやれば良いと思います。形ではなく気持ちですので。

もう一つお勧めが歩く瞑想です。こちらも手軽に出来ます。なお、ゆっくりなんか歩いてられない、あるいはゆっくり歩いても上手く行かないなどの場合は以下の記事が参考になると思います。「片足歩行瞑想」
http://cyberbaba.blog57.fc2.com/blog-entry-160.html

これらと内観をやってみて、また何かありましたらご質問ください。
よろしくお願いいたします。
CyberBaba |  2011年01月07日(金) 20:21 |   |  コメント編集

ホオポノポノ風の瞑想効果があったようです!

誠にありがとうございます。

やり方が間違っているかもしれませんが?
日常の勤務が対人的な業務ですので、
以前にまして、必要時に限定して
日常で慈悲の瞑想を行いながら勤務を行ってみました。

今日は全くあきれ返る不愉快な方をフォローしなければ
成らない時がありました!
スマナサーラ長老が良くないと
言われる「怒り」が発生しそうになりましたので

ご指導戴きましたホオポノポノの瞑想を不完全ながら
思い出して行って見ました。

「ごめんなさい、感謝してます、愛してます」帰宅して調べると

真ん中の言葉は「許してください、ありがとう」でした。
かなり間違いましたが、怒りは消えて 不愉快な方も
怒りを爆発させずに帰られました! 感謝感激でした。
ありがとうございました。

許してくださいは、性格的になかなか言えない言葉だと
改めて分かりました。 努力します。

その他、入浴時、ひとりになった時、睡眠前、起床時などに
出来る限り慈悲の瞑想を行って行きたいと改めて思いました。

また以前から歩行時に行っておりました、
実況中継的な 右足、左足のビパッサナー的な自己流の
瞑想?方法を ご指導戴きましたように、右だけに専念して行ってみました。
明らかに今までより何かさらに一段と集中している感が分かりました。
効果がありそうです。ありがとうございます。

その他日常では、呼吸の瞑想的な事は
スマナサーラ長老様のDVDの記憶などから
時々行っております。

私は全く変なやつです。
ここ1年以上、左手に、仏教的なパワーストーンブレスレットを
継続して2種類も装着しております。とても落ち着くからです。

時には、「まがたま風」の数珠をつけたりもします。これは神道でしょうか?
以前は、スマナサーラ長老の本からお釈迦様の言葉を何度も
読ませて戴き理解に努め、最近は、キリストの言葉にも何か興味を
持ち始めております。
何か見えない世界に大変興味が出ているのだと思います。

いずれにしましても、ご指導いただきました、
慈悲の瞑想やホオポノポノの瞑想を実践します。
そして歩く瞑想を サイババ様のご指導のように片足で是非行ってみます。

まだ結論は出ておりませんが、
何かプラス方向の前進があるような予感がします。
ありがとうございました。 

マリア様の事や、お釈迦様のことを考えるのも大切と
思いますが、ご指導の瞑想で何か、快適な世界に近づけるような
予感を感じつつあります。 長文となり誠にすみません。


nintarou |  2011年01月08日(土) 23:11 |   |  コメント編集

効果があってよかったです

nintarouさん

コメントありがとうございます。

ホオポノポノと慈悲の瞑想の効果があったようでよかったです。多少の間違いは気にしなくて良いと思います。効果があればそれで良いのですから。許してくださいは、なかなか言えない言葉ですね。私も同様です。でも今回のホオポノポノは慈悲の瞑想の補助という位置づけにしていますから、徐々にで良いと思います。

慈悲の瞑想は名前は瞑想とついていますが、祈りの要素が強く、またホオポノポノも同様です。瞑想兼祈りと考えてよいと思います。瞑想の要素としては、落ち着く、人に対する見方が変わるという要素があります。

ちょっと話はそれますが、ホオポノポノの瞬間瞑想に関連して神社でのお祈りですが、私の場合は言葉を使いません。慈悲の瞑想やホオポノポノの心境に、一瞬にしてなれるよう心がけています。もちろん神社にしょっちゅう行く訳ではありませんが、今年の初詣もそれでやってきました。

一人になったときに慈悲の瞑想を行うという習慣は良い習慣ですね。それと内観もやると良いと思います。例えば寝る前は慈悲の瞑想をちょっとやってから内観するとか。ちょっと工夫してみてください


片足歩行瞑想は楽しいでしょう?これも続けてみてください。

パワーストーンについては、友人にそれを商売にしている人がいますが、確かにある種類の石にはパワーがあるそうです。しかし最近は石そのもののパワーというより、石についている効能書きで売れるそうで、その効能書きは本当にいい加減だそうです。ですから頼り過ぎないようにすべきだと思います。

では続けてみて、変化があったり、行き詰ったりしたらまたコメントまたはメッセージをください。内観についても何か分かったらよろしくおねがいします。

ではご幸運をお祈りしております。今後ともよろしくおねがいいたします。
CyberBaba |  2011年01月09日(日) 15:00 |   |  コメント編集

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