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2011/01/05 (Wed) 20:00

気づきのベクトル

前回気づきの量×質はほぼ一定である、
これを増す努力・トレーニング・修行が必要だと書きましたが、
今回は気づきのベクトル、つまり方向性についてです。
(ここでベクトルとは正確に数学的意味では使っていません。
 数学で言うベクトルとは方向と量を持っていて、始点・終点は関係ありませんが、
 ここでは始点・終点・量・質をもった「方向」であると認識してください。)

先ず気づきはどこまで高められるかということについてです。
例によってスポーツ選手の例です。

1つ目はハードルの為末大選手。
ハードルでは飛び越すときの踏切足が5センチずれただけで失敗なのだそうです。
風や体調などそのときのコンディションによって狂ってくるので、
常にずれないようにしながら走っているそうです。
つまり、全力疾走しながら歩く瞑想が完璧にできているのです。

2つ目はハンマー投げの室伏広治選手。
背骨の一つ一つの状態が明瞭に判るそうです。
思いっきり体を回転させながら、なお体の内部の微妙な感覚に気づいている。
つまり、全力を振り絞りながらゴエンカ式ヴィパッサナーが完全に出来ています。

何を言いたいかというと、我々のやっている「いわゆる」ヴィパッサナーは、
ある意味ではまだまだ序の口だということ、
もう一つそれより重要な事は、それだけで悟り苦を滅することができるなら、
スポーツ選手はみな悟っていることになるということです。

そこで重要なのは気づき・意識のベクトル、つまり方向性ということです。
スポーツ選手の意識のベクトルは身体や障害物などという方向に向いています。
しかし修行者の意識のベクトルはそれではダメです。
苦というものや、己というものやなどにベクトルを向けるべきです。

さらに、ある瞬間瞬間については、詳細さにベクトルを向けるか、
全体像にベクトルを向けるか、角度や次元はどの方向に向けるか、
常に気づきと瞬時の判断と決断が必要とされます。

つまり、日常生活でも常に観察(ヴィパッサナー)していることが必要ですし、
また、気づき・意識のベクトルそのものにも気づいている必要があります。

そしてさらには、観ている者、気づいている者そのものに気づくということが重要です。
実はこの観ている者、気づいている者に対する気づきが一番重要だと言われています。
観ている者、気づいている者が何者か、
これが実感として理解できればある意味大悟だと言えるでしょう。

しかしこれについては筆者自身まだまだですし、
また理解したとしても(その時にならなければ分かりませんが)、
たぶん詳しくは書かないと思います。
なぜなら先入観になる可能性が高いからです。

先ずは対象に気づく、次に気づきのベクトルに気づく、
そして気づいている者そのものに気づくというのが良いのではないかと考えらます。


関連記事
気づきの量×質
参考記事
ゴエンカ式ヴィパッサナー
判断と決断

瞑想・慈愛  |  トラックバック(0)  |  コメント(8)  |  ↑Top

Comment

永遠の後退?

智慧の海さま
<そしてさらには、観ている者、気づいている者そのものに気づくということが重要です。
実はこの観ている者、気づいている者に対する気づきが一番重要だと言われています。>
質問ですが、気づきの対象は(A)、(A)に対する気づき自体は(B)。この場合、(A)に気づいている(B)がある、という訳です。で、気づいている者そのものに気づく事が重要、ということは、(B)に気づいている次の意識(C)が重要だと言っているのですね?しかし、それならば、次は(C)に気づいている(D)に気づく事の方がもっと重要になります。かくて、(D)は(E)に気づかれ(E)は(F)に気づかれ・・・と、永遠の後退が生まれる。これが無我なのでしょうか?では「認識主体は認識主体を認識出来ない」という命題との整合性はどうなりますか?私もここでひっかかって困っています。どうぞよろしく。
猫ちゃん |  2011年01月07日(金) 07:23 |   |  コメント編集

Re: 永遠の後退?

猫ちゃんさん

これは実に難しい問題で、これを理解できれば大悟だとも言われています。ですから、気づいている者に対する気づきが一番重要だと「言われています」とお茶を濁しています^^;

しかし永遠の後退ではなく、観るものと観られる者との一致だそうです。そして無我というか全体意識というか、そういう状態だそうです。これについて一番明瞭に述べているのはクリシュナムルティでしょう。オショウ(ラジニーシ)も同じような事を言っていますが、どういう状態であるのかは体験した者しか理解できないと言っています。

私も観る者自体を観察する事がよくありますが、まだ観る者と観られる者の一致の体験はありません。観る者は観る者、観られる者は観られる者です。

続きというか、他のところに書いた文章のコピーをこの後に貼り付けますが、とりあえずこんなところでご勘弁を。
CyberBaba |  2011年01月07日(金) 18:19 |   |  コメント編集

観る者とは何か?無常か?

ある方との問答の引用です。

猫ちゃんさんはたぶんご覧になっておられると思いますが、引用しておきます。専門用語や固有名詞が混ざっていて、知らない人には訳わからないと思いますが、私自身体験から書いているのではなく、知識の受け売りなので無視して結構です。

問い
見ている主体が変わっているとゆう話についてはどのように思われますか?

答え
見ている主体が変わっているというのは、見ている主体も無常であって時々刻々と変化しているという意味でしょうか?これは非常に難しい話で、これを体験として理解できれば大悟です。

実はこの辺は書物などでもちゃんと理解して書いている人はほとんどいないと思われます。

無常を説いている仏教でさえ、「あなた」が落ち着いて集中する必要がある、「あなた」が観る必要があるという文脈で、その「あなた」とは何か、無常なのか無常ではないのか、はっきりしません。パオ・セヤドーが高度なサマタやヴィパッサナーの体験を書いた話をちらっと見たことがありますが、例えば、ニミッタをただ観ている「自分」がいる、あるいは無常を観ている「自分」がまだあるのです。

仏教では見ている自分というものも理論としては否定していますが、ヒンドゥーの場合は肯定しています。見るものつまり意識というものは永遠に存在し、それがアートマン(個としての魂)であり、実はそれはブラフマン(宇宙としての魂、意識)であると。そしてそれは無限であり、時間も超越している。言い換えれば空であるとも言えます。

見るものと見られるものとについては、クリシュナムルティが最も明確に語っていると思います。(それでも体験のない私には理解できない部分が多々あるのですが。)瞑想というのは見るものが同時に見られるものだという体験だということです。見るもの=見られるものであれば当然時々刻々と変化します。見るものと見られるものの合一、そして常に変化するということに身を任せ味わうこと、それを日常生活でも味わうことが本当の瞑想だというようなことをクリシュナムルティは言っています。(一部私の解釈)

ヒンドゥーでは見るものが意識であり魂であり永遠であるという事を書きましたが、実はクリシュナムルティと同様に、見るものと見られるものは同じであるということも言っています。ヒンドゥーでは見るもの・意識をシヴァ、見られるもの・エネルギーをシャクティとして、それぞれ男性神、女性神として表します。しかしそれは実は一体なのだとということも言います。それを表したのがシヴァ・シャクティ合体像です。
http://www.google.co.jp/images?q=%E3%82%B7%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%80%80%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%82%AF%E3%83%86%E3%82%A3&hl=ja&prmd=ivns&source=lnms&tbs=isch:1&ei=7XMiTcLeDcyXce-c7LUK&sa=X&oi=mode_link&ct=mode&ved=0CAsQ_AU&biw=1261&bih=693
男性と女性が半分づつ合体した絵がいくつかあると思いますが、それです。そして永遠でありつつ変化しつづけ、また別の観点からは時間・空間を超越しているという理論です。

見ている主体というのは、私の(というより修行者全ての)最大かつ最難関のテーマです。これが理解できるということは無常も無我も本当に理解でき、かつ時間と空間の超越も理解できると思います。私自身つねにこのテーマを忘れないようにしているのですが、なかなか実感として理解できず、見ている自分=自分でありそれは変化しない、というのが主観です。まだまだ修行が足りないので、知識の受け売りになってしましましたが、参考になれば幸いです。
CyberBaba |  2011年01月07日(金) 18:26 |   |  コメント編集

水源禅師と禅僧?の対決問答がおもしろかったですね。台風の目、中空の竹、、、表せないものを表そうとやっきになるから、ますます泡が立つみたいな、、、
 |  2011年01月07日(金) 18:57 |   |  コメント編集

マハリシ

長い説明を頂き、ありがとうございます。そうなんですか、これが大きな問題なのですねぇ。ラマナ・マハリシは、私の記憶では「心が観る者、アートマンが観られる者」と言っていますよね。そうすると、心とアートマンが合一したとき、宇宙の神秘も分かる、ということですか?通常、心は外界・現象を観ている訳ですから、反転してアートマンを観ろ、という事なのでしょうか?謎だ(笑)。マハリシが好きなので、もう一度読んでみましよう。
猫ちゃん |  2011年01月07日(金) 19:05 |   |  コメント編集

Re: あ

はじめまして、コメントありがとうございます。

>台風の目、中空の竹、、、表せないものを表そうとやっきになるから、ますます泡が立つみたいな、、、

おっしゃるとおりだと思います。ですからその辺はいつもお茶を濁して、みなさん自身にお任せしています^^;

水源禅師と禅僧の問答面白そうですね。よろしければURLなど教えていただければ幸いです。
CyberBaba |  2011年01月07日(金) 20:33 |   |  コメント編集

Re: マハリシ

猫ちゃんさん

>心とアートマンが合一したとき、宇宙の神秘も分かる、ということですか?

たぶんそういうことだと思います。

>通常、心は外界・現象を観ている訳ですから、反転してアートマンを観ろ、という事なのでしょうか?

これもたぶんそういうことだと思います。しかしこれは難しいです。2つ理由があって、1つは本質的に観る事が難しい、もう1つは先入観を持っているとあるがままに見えないということがあると思います。

マハリシを読む場合も、たぶんこんな感じなんだな、程度であまり深く追求しないほうが良いと思います。体験は同じでも表現方法が違うという場合も多々あるようですので。上の方がおっしゃっているように、表せないものを表そうとやっきになるから、ますます泡が立つというのが現実らしいので。それよりは気づきのベクトルに意識を向けるほうが、たぶん有効だろうという気がします。なにぶん体験がないので曖昧な表現ですみません。
CyberBaba |  2011年01月07日(金) 20:42 |   |  コメント編集

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 |  2011年01月08日(土) 07:21 |   |  コメント編集

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