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2011/01/12 (Wed) 18:00

一切皆苦の矛盾

前回一切皆苦はやっぱり間違いで、あまり適切な表現ではないものの諸行空虚であり、
一切の物事は苦しみであるという解釈は誤りであると書きましたが、
一切の物事は苦しみであると解釈した場合の矛盾点を書きます。

・四聖諦の滅諦(苦は滅することができる)と矛盾する。
 一切皆苦なのに、滅することができるというのは矛盾である。
・無常、空の論理と矛盾する。
 一切の物事は無常、空であるのに、苦だけが実在するという矛盾がある。
・事実に反する。
 苦、楽、どちらでもない、の3つに分け、1日中自分の感じていることを観察すれば
 (それを言語化してラベリングするとなお良い)事実ではないことが明白。

以上と前回の記事の解釈により、一切の物事は苦しみであるという意味での
一切皆苦はやはり誤りです。

従って、息をするのは苦しいからとか、感覚は全て痛みであり苦しみであり、
それを認識していないだけだ等という意見もよくありますが、それらは全て誤りです。
息をするのは自然現象に過ぎず、感覚自体は苦でも楽でもなくただの感覚です。
苦や楽を感じるのは、感覚に主観的な意味づけをするから発生するだけです。

例えば子供はちょっと怪我をして血を見ただけで大泣きしますが、
怪我になれたスポーツ選手などは血を見ただけでは何とも思いませんし、
多少の痛みは痛いと思うだけで全く苦しみではありません。
マハーシ式ヴィパッサナー的に言えば、「色、色」「痛み、痛み」だけです。

何もかもが苦しみであるという思想は間違っているだけでなく、非常に有害です。
四六時中苦を感じていなければいけないという強迫観念にかられ、
本当にそうなっていまうと、ああ息をしていて苦しいとか、
葉っぱが落ちて苦だとか、水が流れるから苦だとか、一々辛く思い、
苦を感じていなければいないで、これではいけないと自分を責め、苦に追い込む、
そうなったらもう完全に病気、強迫神経症、鬱病です。(筆者も経験があります。)

だいたい一切皆苦を説く人たち自身が一切皆苦を感じているとは感じられず、
極端な場合はニコニコしながら嬉しそうに一切皆苦を説いている場合さえあります。

一切の物事は苦しみであるという一切皆苦は誤りです。
正しくは、一切の行(サンカーラ)は不安定で空しいであり、いわば諸行空虚です。
諸行無常、諸行無我(これも正しくは諸法無我ではないようです)とあわせると、
「全てのサンカーラは無常であり、不安定で空しく、それ自体で実在する存在ではない」
となりさらに意味がはっきりし、どこにも全てが苦しいなどとは言っていません。
苦しみはそれこそ無常であり、不安定で空しく、それ自体で実在する存在ではなく、
主観から生じるだけで、いわばいわゆる妄想だとも言えます。

一般に仏教は苦諦、特に一切皆苦を重視しすぎだと思います。
それより、滅諦と道諦、こちらに重きが置かれるべきでしょう。

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一切皆苦はやっぱり間違い

瞑想・慈愛  |  トラックバック(0)  |  コメント(18)  |  ↑Top

Comment

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 |  2011年01月12日(水) 20:39 |   |  コメント編集

一切皆苦

一切皆苦の苦を苦しみと限定するのが、間違いです。
日本語で苦と書きますが、苦しみではありません。
パーリ語のドッカを苦と訳したものです。
ドッカは変化を強制されるとか、自動的に輪廻を強制されるとか、説きます。
一切の生命は無常であり、変化を強制されるとか、輪廻を繰り返すのをドッカとあらわしたものです。苦の言葉しか、日本語には表す言葉が無かっただけです。
アーロカ |  2011年01月12日(水) 21:18 |   |  コメント編集

Re: 一切皆苦

アーロカさん

コメントありがとうございます。
おっしゃるとおりです。そのことを詳細に書いています。ここでの苦は「苦しみ」の意味は全くなく、勝義諦の「不安定で空しい」と解釈すべきです。

「苦しみ」の意味を含めた場合の矛盾点をこの記事で、「不安定で空しい」とだけ解釈した場合はスッキリ意味が通るということを前の記事で書きました。http://cyberbaba.blog57.fc2.com/blog-entry-182.html

通常は「苦しみ」の意味も含めてしまうので、全く話が分からなくなってしまうのです。
CyberBaba |  2011年01月12日(水) 21:38 |   |  コメント編集

Re: 一切皆苦

もう一つは、一切何もかもとするところに誤りがあると考えられます。

はっきりと全ての「行(サンカーラ)」と書いてあります。

ここでのサンカーラの意味をはっきりさせるべきです。
CyberBaba |  2011年01月12日(水) 21:45 |   |  コメント編集

No title

私も「一切皆苦」が「無常」、「無我」と並列されていることに違和感を持っており、Shivaさんの記事に大いに興味を持ちました。

専門的なことは何も分かりませんが、私なりに、三宝印・四宝印で、「一切皆苦」というのは「涅槃寂静」と裏返しの関係だと理解しています。

「苦」も「楽」も実在ではありません。この世の現象としてあるのは、「諸行無常」、「諸法無我」という2つの真理だけで、これを悟らない限り、真の安穏はなく、刹那的な快楽を追い求めているばかりで、それはすぐに消えてしまうものですから、この世を「一切皆苦」と観じる人生になってしまう。これに対して、2つの真理を真に悟ったときには、迷いの世界は消え、「涅槃寂静」の境地に至ることができるのだ、と解釈しています。

すみません素人が口を出して。
こや |  2011年01月12日(水) 22:11 |   |  コメント編集

ありがとうございます

こやさん

お久しぶりです、コメントありがとうございます。

私もかつてほとんど同じ見解を持っていました。基本的にそれで正しいはずです。前回と今回の記事では見解が変わっているのですが、どこが変わったかと言うと、主に前回の記事で書いたように、一切皆苦の解釈についてです。

一般的に諸行無常、一切皆苦、諸法無我と翻訳されていますが、詳しく調べてくれた法友の研究によると、諸行無常、諸行空虚、諸行無我というような訳の方が適切で、もっと簡単に言うと「全てのサンカーラは無常であり、不安定で空しく、それ自体で実在する存在ではない」です。つまり無常も皆苦(空虚)も無我も表現を変えているだけで、ほとんど同じ意味です。だから一切皆苦(諸行空虚)を取り除いても意味が通じます。ですからこやさんの解釈でほとんど問題ないと考えられます。

また、「全てのサンカーラは無常であり、不安定で空しく、それ自体で実在する存在ではない」は一般に言われているほど理解困難ではありません。サンカーラの解釈が微妙ではありますが、簡単には「心・精神・自我」と考えてもほぼ問題ないでしょう。こんなことは仏教を学ばなくても、しっかりと人生や道理を洞察して生きている人にとっては当然のことです。ダンマパダでは読み方にもよりますが、このことの理解が悟りの終点ではなく、ここが出発のように書かれています。例えば以下です。
「諸行無常と明らかな智慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。」
道であると書いてあるので、出発ではないとしても終点ではありません。考えてみればこれも至極当然です。

やはり何であっても、たとえ仏教であっても、簡単に信用はできないので、自分で納得しながら進むしかないと思います。
CyberBaba |  2011年01月13日(木) 00:24 |   |  コメント編集

諸行無我

私は、パーリ語が分かりませんので、仏教学者が、初期仏典を翻訳するとき、どこでどう間違えたか、または当時としては翻訳は間違っていなかったが、後世の人達が、時代の変化によって、その言葉の意味を取れなくなって解釈を間違えてしまったのか、その辺のところの判断をする能力はありませんが、今回のこちらの解釈は、溜飲の下がる思いです。  
認識主体は認識主体を認識出来ない。この命題に立脚すれば、諸法無我=私はないのだ、などとは言えず、諸行無我でなければなりません。
猫ちゃん |  2011年01月13日(木) 08:08 |   |  コメント編集

諸法無我の問題点

猫ちゃんさん

いつもありがとうございます。

どこでどう間違ったか、一切皆苦も諸法無我も間違っていますね。諸法無我についてですが、ダンマパダでは諸法無我ですが、増支部三集によると諸行無我だそうです。どちらが正しいのかは専門家の方々の研究を待つとして、従来の解釈の諸法無我は問題点ありすぎです。

先ず諸法無我とした場合、諸法が主語で無我が述語です。これを文字通りに解釈するなら、「全ての法(ダンマ)はそれ自体で実体を持った存在ではない」となります。これもこれで意味が通っていて、ダンマと言えども縁起の一部であり絶対ではないとなります。諸法無我が正しいとしても、従来の「私というものは存在しない」という解釈は成り立ちません。参考「諸法無我は間違い?」
http://cyberbaba.blog57.fc2.com/blog-entry-50.html

諸行無我の場合は、諸行が主語で無我が述語です。この場合は行(サンカーラ)の意味が問題になりますが、心の何かであるので、大雑把に言えば「心・精神・自我」のようなものだと解釈してよいでしょう。それならば従来の「私というものは存在しない」という解釈でもまあまあよいでしょう。しかしブッダの言葉としては曖昧すぎると思います。サンカーラについての参考「カルマの法則」
http://cyberbaba.blog57.fc2.com/blog-entry-46.html

で、「認識主体は認識主体を認識出来ない。」ですが、これについてはよく分かりません、というか今再検討して余計分からなくなりました^^;西洋哲学ではそうかもしれませんが、東洋哲学では「認識主体が認識主体を認識するのが悟りだ。」というようなことを言っています。(表現は全くちがいますが。)考えても結論は出ないので自分でやってみるしかないと思っています。

しかし諸行無常、諸行皆苦(?)、諸行無我としたときのブッダの意図はそこまで難しいことは言っていないと思います。「全てのサンカーラ(仮に自我としましょう)は無常であり、不安定で空しく、それ自体で実在する存在ではない。」だから「それを理解したときは全ての執着を離れ、それによって苦しみを離れる道へ入るのだ。」というような意味だと思います。そしてそれは上のこやさんへのコメントでも書きましたが、ちゃんと生きてきた人にとっては当たり前です。そこが終点ではなく、道の始まりまたは過程と見るべきでしょう。
CyberBaba |  2011年01月13日(木) 10:00 |   |  コメント編集

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 |  2011年01月13日(木) 10:38 |   |  コメント編集

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 |  2011年01月14日(金) 13:39 |   |  コメント編集

No title

いつも勉強させていただいております。

諸行空虚と漢訳した方が原文どおりということですね。
私も一切皆苦ではむくわれないというか、イメージが良くないと思っていました。

何の根拠もありませんが、参考のため私の勝手な解釈を言わせてください。
諸行空虚なのに、悟っていない凡夫はその空虚なものに執着して苦しんでいる。
つまり苦は執着すると苦が増すだけ。
楽もあるが、それに執着すると苦に変わってしまう。
たぶんそれを意訳して漢訳した人が一切皆苦としたのかと思っています。

なか早 |  2011年01月15日(土) 18:50 |   |  コメント編集

40の「to」

パオ・セヤドー「如実知見」(HP「菩提樹文庫」収録)より抜粋。
ご参考まで。
それぞれのパーリ語に「to」がつくため、合計40の「to」と言われる思惟法。
無常グループの十個の「to」
1. 無常(aniccato)2.くずれ(palokato)3.動き(calato)4.破壊(pabhanguto)5.非恒常(addhuvato)6.変易法(viparibaamadhammato)7.不実(asaarakato実体がない)8.有がない(vighavato)9.死法(maranadhammato)10.有為(sankhatato)

苦グループの二十五個の「to」
1.苦(dukkhato)2.病(rogato)3.悪(aghato)4.瘡(gandato)5.箭(sallato)6.疾(aabaadhato)7.禍(upaddavato)8.畏怖(bhayato)9.難(iitito)
10.災(upasaggato)11.非保護所(attanato)12.非避難所(alenato)13.非帰依処(asaranato)14.殺戮者(vadhakato)15.悪の根(aghamuulato)
16.患(aadiinavato)17.有漏(saasavato)18.魔の餌(maaraamisato)19.生法(jaatidhammato)20.老法(jaraadhammato)21.病法(byaadhidhammato)22.愁法(sokadhammato)23.悲法(paridevadhammato)24.悩法(upaayaasadhammato)25.雑染法(samkilesikadhammato)

無我グループの五個の「to」
1.無我(anattato)2.空(sunnyato)3.敵(parato)4.無(rittato)5.虚(tucchato)
猫ちゃん |  2011年01月16日(日) 07:06 |   |  コメント編集

No title

なか早さん

いつもご愛読ありがとうごじざいます。

原文どおりではないとは思いますが、その解釈は正しいと思います。諸行無常、空虚、無我だから、そんなものは離れてしまえば楽になりますというのがブッダの教えだと思います。

一切皆苦の訳に関しては、漢訳和訳だけの問題ではないと思います。英語でも suffering と訳されることが多いです。どこかで勘違いが起きていると推測します。
CyberBaba |  2011年01月16日(日) 21:02 |   |  コメント編集

to とはなんでしょうか?

猫ちゃんさん

to とはなんでしょうか?

それと一切皆空ではだめなのでしょうか?
CyberBaba |  2011年01月16日(日) 21:05 |   |  コメント編集

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 |  2011年01月16日(日) 22:50 |   |  コメント編集

苦の内実

説明不足で、失礼しました。
40個の「to」は、無常、苦、無我の内実を説明したものです。パーリ語の文法はよく知りませんが、名詞または体言止め、のようなものではないでしょうか?
無常の10個の定義から、諸行無常とは何か?苦の25個から、一切とは何か、無我の5個から諸法(諸行?)とは何か、を類推できるのではないかと思い、資料を提示しました。私には難しすぎて、解説できません・・^^; 。
ご参考に供しますので、よろしくお願いいたします。
猫ちゃん |  2011年01月17日(月) 09:37 |   |  コメント編集

Re: 苦の内実

猫ちゃんさん

なるほど、toとは体言止めのようなものですか。ありがとうございます。

いずれにしても無常でも苦でも無我でも、範囲がある程度限定されているようですね。

私が「一切皆空」ではダメですか?と書いたのは、全部ひっくるめて「空」としてはダメですか?という意味でした。「一切=全て」を主語とするなら、述語となるのは「空」しかないと思ったので。

資料につきましては、パオ・セヤドーの「如実知見」と「智慧の光」は持っております。しかし難しい^^;もう一度読んでみますが、個人的にはそんな難しい分類とかではなく、バッという直観的な理解や洞察や体験だと思っています。しかし私の考えを強調すると私見が入ってしまうので、そういう個人的な意見はなるべく書かないようにしています。ですので、いずれ時期が来たらということにさせていただきたいと思います。

よろしくお願いいたします。
CyberBaba |  2011年01月17日(月) 12:39 |   |  コメント編集

一切のこと

こんにちは。今"縁起"について考察をしている者です。

一切の物事は苦しみであるという意味づけをすると、
仰るようにそれは誤りかもしれませんが、
一切皆苦をそのように解釈すること自体に問題があると思います。

一切皆苦の"一切"のことなのですが、
釈迦のいう一切とは確認できるすべてつまり形而上のものを除いた
六根と六境のことではないですか。
それらがみなドゥッカ(不安定で思い通りにならない物事)
ですよと解いているのだと思いますが、いかがでしょうか。

一日中ラベリングすると、苦(というか痛み)、楽、どちらでもない
が次々に生起しては次々に消え、ただの一瞬も自己の
思い通りに生滅しない、つまりドゥッカそのものである事が
おわかりいただけるのではないでしょうか。
Q |  2012年11月12日(月) 11:35 |   |  コメント編集

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