2011/01/26 (Wed) 19:00
向上心の動機
前回向上心(チャンタ)で、向上心が幸と不幸を分ける鍵になると書きました。そして向上心によって、念(気づき)定(心の安定)慧(智慧)を育むことが大切だと書きました。今回はその向上心の動機・モチベーションとも言える菩提心についてです。
向上心は誰でも持っています。自分をより成長させたいとは誰でも思っていることで、自暴自棄にでもなっていなければ誰でも持っています。しかし今回テーマとするのはその動機についてです。自分がなぜ成長したいと思っているのかよくよく観察してみてください。少なくとも3つの動機を挙げてみてください。
いろいろな動機が混ざっていることが発見できると思います。能力が高ければお金が稼げて遊べるとか、人気が出て異性にもてるとか、人より偉くなりたいとか、人に勝つ快感を味わいたいとか、超人になっていい格好したいとか、そういう動機もあるかもしれません。あるいは人を喜ばせたいとか、人間関係を良くしたいとか、悩み苦しみを取り除きたいとか、人や他の生命の役に立つことをしたいとか、そういう動機もあるかもしれません。
ここでもう一度自分の動機を観察してみてください。
なんとなく直感的に純粋な動機と不純な動機があることに気づくと思います。
純粋な動機とは、自分も他の人や生命も悩みや苦しみがなく幸福になれるように自分を成長させたいという動機で、これを菩提心と呼びます。不純な動機とは自分だけが、あるいは自分の周囲だけがいい思いをするために、他を蹴落とすために成長したいという動機です。
物事は関係性です。自分だけがいい思いをするということは広く長い目で見ればできないことなのです。他人の苦しみは自分の苦しみでもあります。不純な動機であっても一時的にはエネルギーとなり役に立ちますが、長い目で見ればいつかは苦に繋がり、いずれは滅するべき心です。
菩提心というのは多かれ少なかれ誰でも持っています。向上心の動機には菩提心が必要で、これを忘れないようにしたいものです。
参考記事(是非もう一度お読みください)
菩提心
シリーズ記事
向上心(チャンタ)
向上心の動機
向上心は誰でも持っています。自分をより成長させたいとは誰でも思っていることで、自暴自棄にでもなっていなければ誰でも持っています。しかし今回テーマとするのはその動機についてです。自分がなぜ成長したいと思っているのかよくよく観察してみてください。少なくとも3つの動機を挙げてみてください。
いろいろな動機が混ざっていることが発見できると思います。能力が高ければお金が稼げて遊べるとか、人気が出て異性にもてるとか、人より偉くなりたいとか、人に勝つ快感を味わいたいとか、超人になっていい格好したいとか、そういう動機もあるかもしれません。あるいは人を喜ばせたいとか、人間関係を良くしたいとか、悩み苦しみを取り除きたいとか、人や他の生命の役に立つことをしたいとか、そういう動機もあるかもしれません。
ここでもう一度自分の動機を観察してみてください。
なんとなく直感的に純粋な動機と不純な動機があることに気づくと思います。
純粋な動機とは、自分も他の人や生命も悩みや苦しみがなく幸福になれるように自分を成長させたいという動機で、これを菩提心と呼びます。不純な動機とは自分だけが、あるいは自分の周囲だけがいい思いをするために、他を蹴落とすために成長したいという動機です。
物事は関係性です。自分だけがいい思いをするということは広く長い目で見ればできないことなのです。他人の苦しみは自分の苦しみでもあります。不純な動機であっても一時的にはエネルギーとなり役に立ちますが、長い目で見ればいつかは苦に繋がり、いずれは滅するべき心です。
菩提心というのは多かれ少なかれ誰でも持っています。向上心の動機には菩提心が必要で、これを忘れないようにしたいものです。
参考記事(是非もう一度お読みください)
菩提心
シリーズ記事
向上心(チャンタ)
向上心の動機
oks |
2011年01月27日(木) 21:45 |
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oksさん
目の覚めるようなコメントありがとうございます。
ブッダからのメッセージですか、確かにそうかもしれません。
そのメッセージが届かない人がいるとは思いたくはないですが、、、
もう一度耳を澄ませてみます。
目の覚めるようなコメントありがとうございます。
ブッダからのメッセージですか、確かにそうかもしれません。
そのメッセージが届かない人がいるとは思いたくはないですが、、、
もう一度耳を澄ませてみます。
CyberBaba |
2011年01月28日(金) 17:28 |
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私がお話をきいたことがある仏教の先生(日本密教、テーラワーダ)はお二人とも、菩提心は誰でも持っているとのスタンスでした。
わかりやすいたとえとして、蓮の種は長い間発芽しなくても、環境が整ったときに発芽して花も咲く、という話をきいたことがあります。
その環境とは、仏教の言葉でいえば縁ですね。善き縁に触れ、また自分自身も善き縁となるよう精進していきたいですね。
わかりやすいたとえとして、蓮の種は長い間発芽しなくても、環境が整ったときに発芽して花も咲く、という話をきいたことがあります。
その環境とは、仏教の言葉でいえば縁ですね。善き縁に触れ、また自分自身も善き縁となるよう精進していきたいですね。
アメリ |
2011年01月30日(日) 21:51 |
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アメリさん
コメントありがとうございます。
蓮の種とは美しい喩えですね。
縁については実はあまり書いておらず、これから少し書いて行きたいテーマでもあります。善き縁に触れ、善き縁となるよう精進していきたいです。
コメントありがとうございます。
蓮の種とは美しい喩えですね。
縁については実はあまり書いておらず、これから少し書いて行きたいテーマでもあります。善き縁に触れ、善き縁となるよう精進していきたいです。
CyberBaba |
2011年01月30日(日) 22:28 |
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CyberBaba様
自分のような不勉強な人間が書き込んで申し訳ございません。
いつもありがとうございます。拝読させて戴いております。
内観すると、不順な動機(自分が救われたい)と言う気持ちが、
大きくあります!
心に余裕があるときと あまり無いときがあり、
その日によって、純粋な動機が強いときもあれば
自分が苦しくてたまらない時は、
自分が何とか苦が消滅するように
慈悲の瞑想を沢山行っていたりとか・・・
変動が大きい様です。
日常の仕事が、ある種の人助けですので
(自分に関係する人を助けるという段階の動機ですが)
週末などは、疲弊してしまい、疲弊すると、
自分の苦しみのことで精一杯になるかもしれません。
でも、菩提心はあると思います。
無常と言うのでしょうか? 刻一刻と変化しているように
思えます。
改めて、エゴがほんまに強いと分かります。
ありがとうございます。
自分のような不勉強な人間が書き込んで申し訳ございません。
いつもありがとうございます。拝読させて戴いております。
内観すると、不順な動機(自分が救われたい)と言う気持ちが、
大きくあります!
心に余裕があるときと あまり無いときがあり、
その日によって、純粋な動機が強いときもあれば
自分が苦しくてたまらない時は、
自分が何とか苦が消滅するように
慈悲の瞑想を沢山行っていたりとか・・・
変動が大きい様です。
日常の仕事が、ある種の人助けですので
(自分に関係する人を助けるという段階の動機ですが)
週末などは、疲弊してしまい、疲弊すると、
自分の苦しみのことで精一杯になるかもしれません。
でも、菩提心はあると思います。
無常と言うのでしょうか? 刻一刻と変化しているように
思えます。
改めて、エゴがほんまに強いと分かります。
ありがとうございます。
nintarouさん
コメントありがとうございます。
大丈夫です。誰でもそういうものです。自分が助かりたいというのも不純な動機ではありません。自分だけが助かりたい、そのために人を蹴落としてやろうというのが不純な動機です。慈悲の瞑想でも先ず自分から始めます。そして徐々に範囲を広げていきます。菩提心も当然持っておられます。nintarouさんの文章を読むとそれを感じます。それにおっしゃる通り無常ですから、心境は常に変化します。
内観はだいぶ進んでいるようですね。次は、内観するときに、善悪の判断をしないで内観してみるようにしてみてください。自分を責める必要はありません。あるがままを受け入れてみてください。あまり辛いようでしたら、無理はなさらないでくださいね。今ここに戻って全てを忘れる、これも必要ですから。
コメントありがとうございます。
大丈夫です。誰でもそういうものです。自分が助かりたいというのも不純な動機ではありません。自分だけが助かりたい、そのために人を蹴落としてやろうというのが不純な動機です。慈悲の瞑想でも先ず自分から始めます。そして徐々に範囲を広げていきます。菩提心も当然持っておられます。nintarouさんの文章を読むとそれを感じます。それにおっしゃる通り無常ですから、心境は常に変化します。
内観はだいぶ進んでいるようですね。次は、内観するときに、善悪の判断をしないで内観してみるようにしてみてください。自分を責める必要はありません。あるがままを受け入れてみてください。あまり辛いようでしたら、無理はなさらないでくださいね。今ここに戻って全てを忘れる、これも必要ですから。
CyberBaba |
2011年01月31日(月) 00:20 |
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それは私に向かって投げかけられた仏陀からの真摯なメッセージなのですね。
2500年の時を経てここに届いている。少なくとも全く目覚める可能性のない人には届かない筈です。
菩提心というのは、その声を耳を澄ませて聞くことではないのかなと思うのです。