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2011/08/02 (Tue) 16:00

死んだらどうなる?3つの可能性

筆者は死んだらどうなるかについて論じる事は好きではありません。どうなるかについて証明することができないからです。そういうことをあれこれ考えたり論じたりするよりも、今ここを気づきと慈愛と智恵を持って正しく生きる、そうすることが一番重要だと思っています。しかし親しい人の死に直面して、死んだらどうなるのかについて考えてしまったので、整理して書いてみました。

死んだらどうなるかについては、大きく分けて3つの説があります。
  1. 死んだら終わりで何もなくなる
    唯物論や唯脳論など現代科学の多くがとる立場です。
  2. 死んだら天国または地獄に振り分けられる
    キリスト教やイスラム教などがとる立場です。死後直後に振り分けられるのではなく、最後の審判までの猶予期間がある場合もあります。
  3. 死んだら別の生命に輪廻転生する
    仏教やヒンドゥー教などがとる立場です。死後直ちに転生するという説や四十九日などの一定期間後に転生するという説などがあります。ただし解脱や神との合一などで、輪廻から解放される可能性があるという説が有力です。

ではブッダは何と言ったのでしょうか?いくつか説がありますが、死後については黙して語らなかったという説と、上記どれもが間違いであると言ったという説が有力です。どれも間違いであるというのは、断見常見を退けたという説です。断見とは上記の1番にあたり、死んだら何も無くなるという説です。常見とは上記の2番や3番にあたり、死んでも何かが永遠に続くという説です。仏教では通常、輪廻はあるが魂は無いと言っていて、それは常見ではないとしていますが、魂という言葉を使わないだけでそれに代わる何かが永遠に輪廻を繰り返すと言っているのでこれは常見でしょう。

断見も常見も誤りであるという説は、無常や無我という考え方とも一致します。「今の私」というものは、因縁つまり関係性によって変化しながら存在しているだけで、確たる実体としてそれ自体で存在はしていない。死んだらやはり因縁によって何かがあると言えばあるが、やはり確たる実体としてそれ自体で存在はしていない。つまり死んだら「今の私」は存在しない。

しかしやはりこれも単なる思考に過ぎず、死んだらどうなるかの証明にはなっていません。そうなると黙して語らない、あるいは我々であれば、そういうことを気にしないということが正しい態度だと思われます。たまに考えるくらいならともかく、いくら真剣に考えても結論が出ないので、無駄であるばかりでなく、妄想の世界に引きずりこまれる可能性が高いからです。

正しい生き方は死んだらどうなるかを気にせず、今ここを気づきと慈愛と智恵をもって正しく生きるということでしょう。そしてそういう生き方は上記3つどの場合でも、あるいはそれ以外であっても損する可能性はまずありません。死んで終わりなら死後に後悔することはありませんし、死後天国へ行けるか良い生に生れたり解脱できるのであればそれはそれで結構なことです。それら以外でも、今ここを気づきと慈愛と智恵をもって生きることが損する可能性は思いつきません。なによりも、今ここを気づきと慈愛と智恵を持って生きれば、未来の不安などなくなりますし、今を充実して生きることができます。

【注記】
  • 気づき 見たまま、感じたままを、そのままとらえること。人間は通常強く思考していることが多いので、見れども観えず、聞けども聴こえずの状態にあることが多い。特に自分自身の心身に気づくことが重要。
  • 慈愛 他の人や生命を思いやり、苦がなくなり幸福になることを願う気持ち。
  • 智恵 理解、洞察。借り物の知識ではない論理、道理。

瞑想・慈愛  |  トラックバック(0)  |  コメント(2)  |  ↑Top

Comment

No title

前にも一度コメントしたことがあるのですが、覚えていらっしゃるでしょうか?
死後に関しては、少し意見したいことがあるので、書かせて頂きます。
正法眼蔵「生死」にも、「生より死にうつるとこころうるはこれあやまりなり」とあり、私の素人解釈ですが、時の流れの時間軸の上に、すでに、生と滅が置かれているのではないでしょうか。すでに、時空間としての宇宙が、過現当来の塊として存在し、「魂」みたいなものが、そこを時間軸に沿って進んでいるだけのような気がして、結局、死んでも、意識も身も心も、大宇宙から逃れられないで、大日如来の掌の上で、生滅を繰り返しているだけなのではないでしょうか。
 だから、私は、死んでも、意識も滅びた身も、宇宙の中にずっと存在して変化し続けると思います。
 まあ、大日如来様を信じたら、大分安心することが出来ました。
 吉野山、転び手もまた、花の中です。

 生意気言いました。すみません。
Pearsword |  2011年08月26日(金) 20:47 |   |  コメント編集

ありがとうございます

Pearswordさん

以前原発のことについてコメントいただきましたね。
またコメントいただきありがとうございます。

証明はできませんが、そういう見解は十分ありだと思います。
特に変化、無常というのはおそらくその通りです、何かが形を変えて存在し続けるというのは十分ありえると思います。物質についてのみ言えばそれは明らかで、形を変えつつあるいは形をなくしてもエネルギーとして存在し続けます。おそらく心もそのようなものだと言うのは十分可能性としてありうると思います。

Pearswordさんがおっしゃりたいのは、大日如来、つまり大宇宙の中でそれが起きているということだと思いますが、そうなのかもしれません。

ただ、私には証明できません。未来がどうであろうと今ここを大切にすることが一番だと思います。

また何かありましたらよろしくお願いいたします。
CyberBaba |  2011年08月27日(土) 22:50 |   |  コメント編集

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