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2012/06/01 (Fri) 18:00

一切皆苦は絶対間違い

筆者はかねてより、一切皆苦は間違いではないかとこのブログに書いてきましたが、筆者自身としては間違いだと証明できたので、書くことにしました。

実は先週より入院して、今日退院しました。入院より3日間は絶食で点滴のみでした。テーラワーダ仏教(上座部仏教、南伝仏教)のよくある理論ではこういう理屈が述べられます。空腹は苦であり、苦を癒すために食べると一見楽に見えるが、満腹になるとそれ以上食べられなくなり食べることも苦である。従って空腹も満腹も食べる事も食べない事も苦であり、一切皆苦である。

しかし、筆者の点滴中の観察によると、それは間違いであると証明できました。点滴中はお腹は空いているものの、特に食べたいとは思わないのです。もちろんたまに食べ物のことを思い出して、点滴が終わったら美味しいものが食べられるな、とかは思いますが、では今食べたいかというと、食べたいとは思わないのです。ただお腹が空いているという感覚があるだけです。分かりやすい例で言えば、仕事や勉強やスポーツなどに熱中していて空腹を感じても、ただ空腹なだけで、後で食べようと思うだけで、今食べたいとは思わないのと同じ感覚です。この感覚が3日続きました。点滴は数日で終わるだろうとは言われていましたが、いつ終わるかは分かっていませんでしたが、早く点滴が終わって欲しいとも思わず、筆者はお腹が空いているのに食べたいと思わない感覚を観察して楽しんでいました。そして4日目はお粥食で、5日目は検査のためまた絶食になりましたが、食事も2回目の絶食も楽しめました。

一切の物事は、楽または快に思えても苦に変わる可能性がある。だから執着してはいけない。そういうことならば実に正しいです。しかし、一切の物事は苦でしかなく、苦を感じていないのは観察や気づきが足りないというのは、間違いであると断言できます。苦というのは、常に変化する物事、無常である物事をどう捉えるかです。現在の状態を苦しみであると感じる、あるいは不満を感じている、執着を感じていれば苦となります。足るを知り、現在の状態に満足していて、かつ執着もしていなければ、原則として苦ではありません。(ただし本当の苦しみは除きます)。それを、あなたが苦を感じていないのは、何も分かっていないのだ、というのは余計なお世話です。感覚、感じ方というのは人それぞれなのです。苦だと思えば苦になるし、苦ではないと思えば苦にはならないのです。

また、一切皆苦を悟れば一切の苦を滅することができる。この理屈は明らかに矛盾しています。一切に苦を感じていれば苦しか残りません。そしてまた、全ての物事は無常であり変化しているのに、苦だけが実体として存在している。この理屈も矛盾しています。


ではブッダの説いた苦とは何なのでしょうか?2つの側面を指摘しておきます。

1つは、苦だと思わないようにしていてもやはり避けられない苦が存在するということです。そしてそれは主に執着によって生じるということです。

もう1つは、三相(無常、苦、無我)と言われる、勝義諦(究極の真実)としての苦です。つまり不安定で空しいという意味です。この場合の苦は、仏教用語の無常が、常に変化するという事実を淡々と述べただけで、ああ無常だ侘しいなどという意味が無いのと同様、苦しい、嫌だ、という意味は無いと考えられます。無常、苦、無我の3つをセットにすると、全ての物事または思いというものは、無常であり(常に変化し)、苦であり(不安定で空しく)、無我である(それ自体で実体として存在しない)となります。
詳しくはこちらをご参照ください。
一切皆苦はやっぱり間違い
一切皆苦の矛盾

一切の物事は苦になる可能性がある。だから楽や快に思えてもそれに執着してはいけない。ブッダの表現とはやや異なりますが、ブッダが説いたのはそういう意味でしょう。一切に苦を感じなければならない。そうでなければ悟れない。これはただの自虐思想であり、かつ明らかに間違いです。

それでももし万一ブッダが目の前に現れて一切皆苦を説いたとしたら?

冷静に微笑んで横っ面をひっぱたいてやるくらい、絶対に間違いだと断言できます(微笑)

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 |  2012年06月06日(水) 02:59 |   |  コメント編集

同感です。

同感です。

一切皆苦は、一般に苦しいという意味の苦ではないと私も認識しています。

ポーオーパユットー氏の『仏法』においては、四正諦の苦諦の説明のなかで、

「生命と関係する一切のものは、自然界の法則のもとにあり、因縁に従って変化するので、圧力、圧迫、軋轢、支障が潜んでおり、それ自身に欠陥があって不完全であり、いつか、何らかの形で、取でもって執着する者に対し、苦を生じさせようとしている。(p.182)」

とあるように、パユットー氏は無常の現実に対する取があった時に“のみ”苦が生じることを説いています。

また、「いつか、何らかの形で、取でもって執着する者に対し、苦を生じさせようとしている」とは、あくまで潜在的な苦の生じる可能性を示しているだけです。その可能性をいわゆる一切皆苦と仏教では表現されているのだと私は解釈しています。

別の観点では、取も苦も無常ですから、苦が一切において永続すると考えることはできません。

ここで問題なのは、十二因縁に取によって有があると表されていることです。有は生につながります。生の原因として必ず取があるのだから、生きることは苦だと解釈できるでしょうか?

答えはノーだと思います。この場合の取は、苦に直結する取と捉えるべきではないでしょう。十二因縁は輪廻を解き明かすものであり、輪廻は無常の延長にあります。無常の世界では先のとおり、潜在的な苦の生じる可能性があるということです。ですから、十二因縁における取はあくまで苦に直結せず、輪廻の原因としての取として別に捉えるべきでしょう。

一切皆苦は言葉通り解釈すべきではないというのが私見です。
おかだ |  2012年06月07日(木) 21:04 |   |  コメント編集

補足

前述のコメントに、更に補足をしたいと思います。

上座部では、苦を3通りのレベルに分けて解釈をしています。(ポー・オー・パユットー『仏法』p.97-p.98)

これは経典の3箇所にある苦の記述をアッタカーの注釈によって解釈したものだそうです。(経典の該当部分は第8巻長部波梨篇296ページ:第15巻相応部六処篇398ページ:第16巻上相応部大篇236ページ。 手元にないので私は確認できません。また、余談ですが説一切有部でも苦を3通りに分けます。)

以下、引用。
-----------------------

苦苦性(Conflict , Oppression, Unrest, Imperfectionなど)

 苦しいと感じる苦である。苦受と呼ばれている通り、普通に理解されているような身体の苦しみ、心の苦しみのことである(不運、または圧迫を加えるものを受けたとき生じる普通の苦しみ)


壊苦性(Unsatisfactoriness)

 変化による苦、あるいは楽の変化による苦のこと。すなわち、変壊はそのものをたちまち変えてしまうために、苦に変わる苦、苦を生む楽のことである。(通常の状況は、快適でどのような苦も感じていない。しかし、ある種の楽を享受して、その楽が薄れるか、ないし消えてしまうと、普通に感じていた元の快適な状態が、あたかも苦が隠れていたかのようにたちまち苦に変わる。それは楽が薄れるか消えるかすると、たちまちにして現れてくる。楽が大きければ大きいほど、あたかも隠れていた苦が拡大するように、それだけに激しい苦に変わる。もし、楽が生じなければ、その楽による苦もない。楽を享受しているときでも、その楽がなくなるのではないかと思えば、恐れ、心配、驚愕、動揺で、苦が生じる。)


行苦性(State of being liable to suffering)

 行の状態による苦。すなわち、行の実相そのもの、あるいは因縁から生じる一切のものである。これは、五蘊(出世間界である道、果を含む)が苦であること。すなわち、軋轢のある縁により圧迫される状態。生起と衰退、消滅があり、そのものの中に完全さがない。因縁の流れの中にあって、その状態と流れを覚知せず、(無明で)愚かにも(渇愛と取で)欲しい、保持したいと、愚鈍に流れに逆らい、慧を持ってそれらに対処せず、実践しない者に苦が生じる状態である(苦の感覚、苦受)。

-----------------------


前述した私のコメント内における苦の解釈は、行苦であるともいえます。その中で、「行の実相そのもの、あるいは因縁から生じる一切のもの」という事は、当然ながら十二因縁を含んでいます。また、苦苦性とは違うという事ですから「苦しいと感じる苦」ではないという分類です。
おかだ |  2012年06月07日(木) 21:06 |   |  コメント編集

質問

おかださん

ご同感いただきありがとうございます。
また、とてもクリアーな論理展開で大変参考になりました。


ところで2つ質問があるのですが、1つ目は、
>無常の現実に対する取があった時に“のみ”苦が生じる
という部分です。
これは以前から疑問に思っていた部分なので質問させていただきます。

取、つまり執着があったときに苦が生じることには異存はありません。しかし、”のみ”なのでしょうか?ブログ本文では”主に”と書いてごまかしていますが、執着があったとき以外にも苦が生じることがあるのかないのか、これがはっきりしないでいます。3つの苦の中の苦苦、つまり体の苦、心の苦ですが、例えば病気の痛みや熱、こういう苦が執着によって生じるのかどうか、これが解らないでいます。この点ご回答いただければ幸いです。


2つ目ですが、十二因縁についてです。

十二因縁は無明から始まります。私の解釈では無明とは誤った概念のことなのですが、経験に先立って無明が最初に来ることが理解できません。また生(生れること)に先立って六所(感覚器官)、触(感受対象が触れること)、受(感受作用)が来るのも理解できません。

いくつか本などを読んだのですが、十二因縁をクリアーに解説しているものは見たことがありません。ただしプラユキ師の解説では生は生れることではなく、アイデンティティの発生・確立だとしていて、これなら解るのですが、それでも最初に無明が来ることが理解できません。


以上2点ご説明いただければ幸いです。
CyberBaba |  2012年06月09日(土) 02:38 |   |  コメント編集

正しいだの誤りだのといった我見に執着することが、そもそも苦の表れであることに気づけないのでしょう。
曇り故です。

いつかの生で、存在の苦そのものが理解できるようになるでしょう。
一行者 |  2012年06月28日(木) 23:16 |   |  コメント編集

ありがとうございます

一行者さん

ご心配いただきありがとうございます。
しかし、これは見解ではなく事実ですので、、、
それに私には今自分の苦しみはほとんどありません。
ですから執着もしてません。
一切が苦しみだと思いたい人は苦の中にいれば良いと思います。
ただ、一切が苦しみだと思い込まされて苦しんでいる人を助けたいと思ってるだけですから。
ですのでご心配なく。
CyberBaba |  2012年06月29日(金) 00:57 |   |  コメント編集

No title

お久しぶりです。

絶好調のご様子なによりです。

プラユキさんでしたっけ、との出会いが元気の元と

勝手に推測しています。

私もピント外れでしょうが、昔、大腸炎で入院し

14日間点滴のみで放置された体験から同じように

感じられました。マハーサマディーとかいうのがある

そうですが、断食で大往生と言うのは、苦しくはないのだろうと

想像できました。

ただ、私は煩悩があり、痛いのはやです。

時々起こる痛みには耐えられず、痛み止めをドクターに

頼んだものです。

瞑想もじきにあちこちが痛くなってやになります。

アジャシャンティのお気軽瞑想に出会って、

これがとても具合いがいいのですが、

プレゼンスの状態に簡単にはいれます、

でも、痛い所が出てくると、それを避けて、

動かずにはいられません。

で、避けて動いて、飽きると止めます。

トールさんや、アジャのように、みなが覚醒すると

世界も変わると言うのは面白いアイディアですね。
深海魚 |  2012年07月03日(火) 14:59 |   |  コメント編集

No title

いい加減に働きなさい。ブッダより
ちゅう。 |  2012年07月05日(木) 13:11 |   |  コメント編集

ありがとうございます

深海魚さん

お久しぶりです。コメントありがとうございます。
どなたかな?と思いましたが、いろいろ調べてどなたか分かりました。調べ方は他の方が真似すると困るので伏せておきます。

深海魚さんも入院したことがあるのですね。私も痛いのは嫌ですが、大往生できるのであれば、死ぬのが怖いとか思わなくなりました。修行していれば苦は滅せられるというのはブッダの言ったとおりですね。

アジャシャンティさんは知りませんでした。ネットで検索してみました。教えていただきありがとうございます。

みなが変われば世界は変わるでしょうね。私もそう思っています。ただそう思っていない方も多いようで、、、旧態依然の思想をお持ちの方で、出家して覚らなければ何も変わらない、それ以外に道はないと頑なに信じておられる方もいらっしゃるようです。

ではまた、気が向いたらまたコメントお願いします。
CyberBaba |  2012年07月05日(木) 13:54 |   |  コメント編集

No title

こんにちは。

いつも、律義にすぐコメントを返していらっしゃるのに、ワン・テン

ポずらしていらっしゃるので、プラユキ瞑想の企画でお忙しいの

だろうと思っいました。私がハンドルネームを勝手に変えた

ので、お確かめになっていらしたのですね。すみませんでした。

アジャシャンティもすぐお調べになるなど、積極的ですね。

脱帽します。

死ぬのが怖くないとおっしゃるのでは、ついに覚醒ですね。

私はまだワンネスの実感が持てません。恩寵まちです。

誘導瞑想なんていうもんがありうるのかとも思いますが

昔、山手国広師が脱カルマヨガで、誘導をやってましたから

ことによるとあるのかもしれません。

アジャシャンテイの誘導瞑想は私には相性が良いのです。

ニューアースを再読して、いろいろ気づきがありました。

これもサイババさまのお導きのお陰です。

本当にありがとうございました。

ではお元気で、プラユキ瞑想の普及にご尽力ください。
深海魚 |  2012年07月13日(金) 20:53 |   |  コメント編集

まだまだです ^^;

深海魚さん

おはようございます、いつもありがとうございます。

いや~、調べるのが大変だったというより、忙しかったのですよ。

それから、ぜんぜんまだ覚醒なんてもんじゃありません。
恐怖や怒りや欲望はずいぶん減りましたがまだ確実にありますから。

プラユキさんの瞑想は安全で誰にでもお勧めできます。
ただやり方はいろいろあるので、自分自身は普段はそれとはちょっと違う方法の瞑想をやるのが普通ですし、誘導瞑想が合っている人はそれでもよいと思います。

もう一つプラユキさんをお勧めしているのは、誰にでも解りやすい仏教理論と瞑想理論です。抽象的な思考や危険な瞑想法ではなく、現実的で安全でかつすぐに日常生活の改善につながることを説いているからです。

さらに癒し系の人柄ですね。接するだけで癒されるという人も多く、疲れていたり、神経過敏になっている人は本当に癒されると思います。

深海魚さんも機会があれば一度接してみてください。誘導瞑想をやる場合にも、いろいろヒントが得られるかと思います。

ではまた。
CyberBaba |  2012年07月15日(日) 06:13 |   |  コメント編集

まあ落ち着きなされ

>筆者の点滴中の観察によると、それは間違いであると証明できました。点滴中はお腹は空いているものの、特に食べたいとは思わないのです。

まず単純な指摘をします。
一般的に空腹というのはカローりーや栄養を摂れていない状態のことを指し、点滴しながら胃は空という状態のことではありません。



迷い犬 |  2012年08月07日(火) 16:49 |   |  コメント編集

Re: まあ落ち着きなされ

迷い犬さん

まあそういう見解もありますね。
忙しいので簡単なコメントで失礼します。
CyberBaba |  2012年08月07日(火) 19:22 |   |  コメント編集

Re: まあ落ち着きなされ

迷い犬さん

コメント遅くなりました。

点滴中は栄養バランスがとれているのだから空腹ではないので、
苦などなくて当たり前だというご指摘ですね。
実際はやや違うのですが、まあそういう見解もあるでしょう。
いずれにしても、一切皆苦は誤っているというご意見ですね。

ありがとうございます。
CyberBaba |  2012年08月15日(水) 12:32 |   |  コメント編集

うーん^^; 本当の空腹を知らないのでは?

私も迷い犬さん同様の疑問を持ちます。
管理者さんは、本当の意味での空腹を知らないですね。

栄養剤の点滴なんてしてたら、飢餓状態には陥りませんってw
暖房器具に囲まれながら「冬なんて別に寒くないよね」と言っているに等しいです。
特に栄養管理が行き届いた「病院」にあって、空腹やらなんやらと悟った気分とは、ちょいと慢心じゃないですかね。

ところで「感覚的な観測」は証明にはなりませんよ。
ども |  2012年08月19日(日) 21:23 |   |  コメント編集

Re: うーん^^; 本当の空腹を知らないのでは?

どもさん

コメントありがとうございます。
どもさんも迷い犬さんも本文の主旨を勘違いされているようです。

本文の主旨は、「空腹も満腹も中間の状態もすべて一切苦である」という見解の否定です。点滴が本当の飢餓状態でないならないでそれでも良いのです。そのとき食欲に関しての「苦があるかないか」が問題なのです。そのとき苦がないのであれば、「空腹も満腹も中間の状態もすべて一切苦である」という説の否定となります。そして実際に苦がなかったので、「空腹も満腹も中間の状態もすべて一切苦である」という説は否定された、と言っているだけです。この体験によって一切の苦を滅したと言っている訳ではないのです。

苦というものは生きている限り付き纏います。しかし常に一切が「苦しみ」という意味での苦ではありません。そのことを述べているだけです。
CyberBaba |  2012年08月20日(月) 16:19 |   |  コメント編集

そうであるなら

なるほど。

そうすると「空腹が苦しいものではない」と例えるのは適切ではないですね。
一切皆苦を否定するだけの事であれば『空腹でも満腹でもなければ、苦しみとは言えない。よって一切皆苦は否定された』とすれば良いだけです。無用な限界状態をあえて持ち出す意図はなんなのか、穿って見てしまいます。

ところで、漢字として「苦」があてられましたが「ドゥフカ」の本来の意味は「思い通りにならない」というような意味です。

「空腹は苦であり、苦を癒すために食べると一見楽に見えるが、満腹になるとそれ以上食べられなくなり食べることも苦である。」
なんて詭弁まがいですよね? 当然です。無理矢理「苦しみ」だけで解釈したからでしょう。

本来なら「人が空腹になることは仕方ないことだ。どれほど満腹になるまで食べても、結局は空腹になる。物事は思い通りにならない事ばかりだ」とでもする方が近いでしょう。
ども |  2012年08月20日(月) 16:49 |   |  コメント編集

Re: そうであるなら

どもさん

コメントありがとうございます。

>「空腹は苦であり、苦を癒すために食べると一見楽に見えるが、満腹になるとそれ以上食べられなくなり食べることも苦である。」
なんて詭弁まがいですよね? 当然です。無理矢理「苦しみ」だけで解釈したからでしょう。

おっしゃるとおり詭弁です。

それについて、『空腹でも満腹でもなければ、苦しみとは言えない。よって一切皆苦は否定された』と、お坊さんなどに直接そう言ったことが何度もありますが、「それは観察力が足りない」の一言で片付けられることが多かったです。ですので、入院中何もやることがなく、じっくりと観察できる機会があったのでやっと自信をもって否定できるようになったという事です。

また、極限的な飢餓ではありませんでしたが、飢餓であったことは確かです。点滴の中身はブドウ糖だけで、カロリー数も通常の食事の何分の1くらいしか取っておらず、入院中運動もしていないのに4キロ体重が落ちましたし、点滴中は排便もありませんでした。当然空腹感もありましたが、普段ならそういうときは何か食べるのですが、食べることは禁じられていたので食べたいとは思わず、ただ空腹感があるだけでした。ですので、空腹であれば「必ず」苦であるという事も否定されました。極限的飢餓についてはおっしゃるとおり不明ではありますが、通常の空腹は必ずしも苦しみとは限らないことは明らかになりました。

これらは入院体験がなければ、いろいろな理由を付けて認めようとしない人が多い事柄です。


苦、ドゥッカの意味についてですが、最初の方のコメントでおかださんが書いておられるようにいろいろな意味があります。他にも解釈があり、「思い通りにならない」というのも一つの解釈です。「思い通りにならない」については書くべきことが2つあります。

1つは、「思い通りにならないから苦しみなのだ」と解釈する人が多いことです。ここで、「思い通りにならない」というのを「苦しみ」と解釈してはいけないのはおっしゃるとおりです。しかしそう解釈する人が多い。「思い通りにならないから苦しみなのだ」と解釈すると、また矛盾が出てきます。「思い通りにならない」なら「必ず」苦しみなのかというと、そうではありません。思いがけない幸運などもあるからです。

もう一つは、「一切皆苦」と「思い通りにならない」についてです。「一切の物事は思い通りにならない」と解釈すると、これも現実と矛盾しています。思い通りになることも結構あり、「一切」ではないからです。

よって、「思い通りにならないから苦しみなのだ」ということと、「一切の物事は思い通りにならない」の2つは否定されます。


「一切皆苦」での苦、ドゥッカの解釈については、本文にあるように、「不安定で空しい」と解釈するのが適切でしょう。「一切の物事は不安定で空しい」とすべきでしょう。ここで本文にあるように、「空しい」という言葉には、感情的な意味は全くありません。「無常」などと同じで、事実を述べているだけです。

そしてこれなら三相、つまり無常・苦・無我ははっきりと意味が通ります。「一切の物事は、常に変化し、不安定で空しく、それ自体で存在する実体ではない」という意味です。この場合の苦、ドゥッカは、「苦しみ」とは全く関係ありません。四諦の苦とは意味が違います。

このような主張は何度もしていたのですが、入院の体験がなければ、苦について体験による裏付けを主張できなかったので、聞く耳を持たない人が多く、またはっきりと自信を持って主張できなかった事です。しかし現在は上記のことははっきりと自信を持って主張することができます。
CyberBaba |  2012年08月21日(火) 09:36 |   |  コメント編集

そこまで分かっておられるなら

そこまで分かっておられるなら、なぜ「一切皆苦」を否定することに執着するのか分からなくなりますね。そもそも「苦」にしても解釈の違いだけであると気付いてる。それなのに「一切」も字面通り(当時の言葉通りだったとしても)「全て」と受け取っている。我々の周囲ですら強調を込めて「全て」を使うぐらいですから、当時からどのように変遷してきたのか、断言などできません。

そもそも。

『「一切皆苦」での苦、ドゥッカの解釈については、本文にあるように、「不安定で空しい」と解釈するのが適切でしょう。「一切の物事は不安定で空しい」とすべきでしょう。』とまで解釈しているなら、決して「一切皆苦は絶対間違い」などではないはずです。単なる解釈だけの問題ですから。

そして、ここまであなたは了解しているにも関わらず『ただ空腹感があるだけでした。ですので、空腹であれば「必ず」苦であるという事も否定されました。極限的飢餓についてはおっしゃるとおり不明ではありますが、通常の空腹は必ずしも苦しみとは限らないことは明らかになりました。』と、いつまでも「苦」や「空腹」に執着しておられる。その上、あなたは「一切皆苦は絶対間違い」とまで書き「これはただの自虐思想であり、かつ明らかに間違いです」と締めくくる。

頭の堅い坊主とは、もはや解釈の違いだけのはずです。一切皆苦を否定する事と、坊主に認めさせる事とは別次元でしょう。だからこそなのか、あなたは「このような主張は何度もしていた」という。否定と肯定。ちょいと筋が揺れていますね。前コメント一つですら「一切皆苦を否定」したいのか、「こう言った解釈がある」と言いたいのか、揺れています。

もし「相手に認めさせる」ための手段として二つの立場を使っておられるなら、姑息ですな。釈迦の機転説法とは似て非なる物です。
「議論で勝つ」ことは、認めさせる事でも、ましてや諭す事でもありません。それだけ揺れていては、坊主は絶対認めないでしょう。
ども |  2012年08月21日(火) 12:28 |   |  コメント編集

Re: そこまで分かっておられるなら

どもさん

ある意味おっしゃるとおりです。そして自分で納得するまでは執着していたのも確かです。それはご理解いただけると思います。正しいとほとんど確信があるにも関わらず人に理解してもらえない、話もまともに聴いてもらえずただ観察が足りないと言われてしまう。ほとんど正しいとは思うが証明できないのでもどかしい。この気持ちは理解いただけると思います。

しかし自分で証明して、この記事を書いてしまったら、もう頭の固い人に納得させようという気持ちは消えました。そういう人は自分で好んで苦しみの世界にいるのですから、どうすることもできません。認めてくれなくてもしかたありません。

ただ、一切が苦しみだと言われて(そしてそういう解釈が一般的です)、揺れている人、そういう人には苦しみという意味ではないとはっきり言って、悩みから解放してあげるのが親切だと思います。また揶揄されたり反論されたりした場合は、何らかの手段を取るでしょう。

そういうことでご理解ください。

CyberBaba |  2012年08月21日(火) 13:30 |   |  コメント編集

No title

なるほど。

私としては『空腹を軽んじていないか?』という事と『「一切皆苦は絶対間違い」は言い過ぎではないか』が伝えたかっただけですので、そこまで考えておられるなら何も言うことはありません。

ところでなかなか目端が利きますね。少々愉快になりました。
実は「一切皆苦は誤訳であり、誤訳に対して否定したかったのだ」等々の方面で揺れるようなことがあれば、「釈迦を揶揄している」部分や「思想批判」を指摘するつもりでした。機先を制された形です。

反論したくなる気持ちや、ちょいと悪戯心で揶揄したくなる気持ち。理解されないもどかしさ。よーく、分かります。

以上にはなりますが、突然の訪問と反論に応じて頂き、ありがとうございました。
ども |  2012年08月21日(火) 14:00 |   |  コメント編集

ありがとうございます

どもさん

いろいろご指摘いただきありがとうございます。
おかげで言いたいことが整理されました。
また機会があればご訪問ください。
ありがとうございます。
CyberBaba |  2012年08月21日(火) 14:14 |   |  コメント編集

No title

こんにちは。
十二因縁、十二縁起、についてですが逆観とよばれる向きに捉えないと必ず矛盾を生じます。
なぜならばすべての感覚や思考は"今"に起因するからです。
時間的な因果律(十二因縁の順観)や過去から未来への流れがあるように感じますが
実際は、今、記憶を辿りながら逆向きに因果律が起こっています。
自分の記憶にない新しい事実を聞けばその瞬間にまったく別の過去が生まれます。
釈迦が老死から逃れるために記憶を逆観にたどって突き止めた無明という根本原因、
これが十二因縁の正しい見方であると思います。
下のページの中ほどにある「流転の逆観」の説明が主観的で分かりやすいかと思います。
www.geocities.jp/kongou_koji/houwa/12engui.html
Q |  2012年11月12日(月) 16:01 |   |  コメント編集

あるのに見えていないドゥッカ

こんにちは、CyberBabaさん、はじめまして。

私はタイに住んでいます。
日本の皆様がどんなことを考え、どんな実践をされているのか、興味がありまして、時々いろいろな方々のブログ等を拝見させていただいております。

まずはじめに確認しておきたいなと思うのですが、仏陀は自身の発言を「真実」と捉えています。一方、仏陀は「意見」というものを否定していますね。それがいかなるものであれ、です。
月を指さす指ではなく、月を見ろという有名な逸話がありますが、それは言葉尻に拘泥するなということでもあります。
そう言われても、私たちはついつい言葉に捕らわれてしまいます。ある意味で致し方ないことかもしれませんね。
私はタイに来て暮らしているおかげで、日本の仏教の言説を、ある程度、外側から眺めることができます。すると、「ああ、また言葉の問題で揉めているなぁ」と思うことが多々あるんです。
このコメント欄で長々とは解説できませんが、私が日本の皆様に、もっともっと意識していただけたらいいなぁと感じるのはですね、仏陀はまずパーリー語で教えを説いていますね。それがやがてサンスクリット語になり、中国語になり、その中国語訳をあれこれ解釈して日本仏教ができあがってきた訳で、日本人の使っている仏教用語というのは、「重訳」もいいところなんですよね。
ご存知だと思いますが、本来の使い方とかなりずれた使い方をしている言葉がいっぱいあって、日本人は中国語のニュアンスに振り回されています。たとえば、念(サティ)しかり、悲(カルナー)しかりです。日本人はそういったところに気がつかないまま1,500年近くも議論を繰り返してきているんです。
苦(ドゥッカ)もそうした言葉のひとつでしょう。苦という訳は間違えではないものの、ドゥッカには微細なレベルのものが含まれていると思われます。怒り(ドーサ)にしても同様です。いわゆる怒りだけではなく、苛立ちとか不満足とか、微かな不安とか、気づくか気づかないかというレベルの、ある種の落ち着きのなさといったものを含んでいるはずです。スマナサーラ長老の有名な「怒らないこと」という本の中にも、そこらへんのことが書いてあります。
多くのひとは、既に怒ってしまって、しかるのちに、その怒りをどう処理したらいいのかと問いを立てています。長老の答えは「怒らないこと」です。これは煙に巻いているわけではありません。
「気づくこと」をタイ語でしばしばルー・タンと言います。この言葉には「間に合う」というニュアンスがあります。一般にひとびとは、怒ってしまってから、それに気づき、あるいは苦しみに襲われてから、それに気づいていますが、それでは間に合ったことになりません。
病気にしてもそうですね。一個の癌細胞が、検査で発見される大きさにまで成長するのに、かなりの年月がかかると言います。肝臓病なんかでもそうですね。よく早期発見とか言いますが、本当は早期でもなんでもなく、数年、ときには十数年にわたって、病気の進行に気づかないできたということを意味しています。
今このとき、私たちの身体の中で無数の細胞が生老病死を演じています。ドゥッカというのはそのレベルからあるでしょう。もちろん、そのレベルから気づくというのはちょっと無理があるかも知れませんが、でも、できるかぎり微細なレベルのドゥッカに気づくことによって、そのドゥッカを大きなレベルに成長させずに済むことができます。
そのための実践が少欲知足(戒)、サマタ瞑想(定)、そしてヴィパッサナー瞑想(慧)です。

「一切皆苦を悟れば一切の苦を滅することができる。この理屈は明らかに矛盾しています」
そうですね。そのふたつの苦が同じレベルのものだと解釈するなら、矛盾しています。
それはつまり、レベルが違うということを意味していると思います。
これはとても重要なポイントです。仏教は論理学というより、物理学です。平面的ではなく、実に立体的です。静的ではなく、動的です。
戒定慧も相互に補い合いながら螺旋を描いて進んでいくプロセスで、そのうちのひとつだけを取り出して議論しても意味がないし、どれかひとつが欠けていても、先に進みません。私たち日本人は戒律を軽視する傾向がありますが、戒というのは、少欲知足のことであって、禁止事項をスタティックに厳守するという話ではありません。それは5S活動や断捨離と同じダイナミックなプロセスです。要らないものを捨てることによって、奥に隠れているものが初めて見えてきます。
ですので、この少欲知足と平行して止観(サマタ&ヴィパッサナー瞑想)を実践していくと、苦の微細な様がそれなりに見えてきます。
逆に言うと、この三つを並行して実践しないと、影に隠れている苦に気がつかず、その苦を育む環境を作り出す行動(業)を無意識に続け、やがて種子が芽を出し、大きな苦に襲われるということですね。
別に目立った「苦しみ」を感じないということは、ドゥッカがないということを意味しないわけです。私たちは苦がそこにあるのに、それが見えない。これを無明と呼ぶわけですね。

本来、仏教は日常語で語られつつも、日常語のニュアンスを超えた話をしています。もし、言葉尻に引っかかるのなら、思い切って、新しい言葉を作ってしまえばいいとも言えます。
ティク・ナット・ハン師などはそうした実践を続けられている方で、師の本は読んでいると、本当に爽快ですね。
読む者を議論へではなく、実践へと導いてくれます。
私たちもそうした言葉使いを心がけたいところです。

長くなってしまいました。すみません。
CyberBabaさん、応援しております!
秋山和徳 |  2012年11月27日(火) 03:28 |   |  コメント編集

Re: あるのに見えていないドゥッカ

秋山和徳さん

詳しいコメントありがとうございます。また返信大変遅くなり申し訳ありません。

おっしゃるとおりだと思います。なおドゥッカの用語については、こちらもご参照ください。
「四聖諦の苦と一切皆苦の苦は違う」
http://cyberbaba.blog57.fc2.com/blog-entry-244.html
これで私の言いたいことがだいぶクリアになるかと思います。

最近コンピュータ関連の記事ばかりですが、いずれまた仏教系の記事も書くと思いますので、またよろしくお願いいたします。応援誠にありがとうございます。
CyberBaba |  2012年12月08日(土) 10:07 |   |  コメント編集

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