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2009/04/04 (Sat) 21:00

一切皆苦は間違い?

2012/06/01追記
一切皆苦は間違いだと証明できました。詳しくはこちらをご参照ください。
一切皆苦は絶対間違い

前回諸行無常は間違い?で諸行無常の解釈は、
おそらく本来のブッダの意図とは違うと解説しましたが、
今回は一切皆苦についてです。

一切皆苦とは通常、何もかも一切すべてが苦しみであると解釈されますが、
それは極端な解釈であると考えられます。

ブッダも四苦八苦が苦しみであるとは言っていますが、
生そのものまで否定して苦しみだとは言っておらず、
生の中に楽しみや喜びや幸福があることも認めています。

一切皆苦が現れる部分をダンマパダ278より原文を引用します。
sabbe savkhara dukkha ti yada pabbaya passati
atha nibbindati dukkhe esa maggo visuddhiya
http://ccbs.ntu.edu.tw/BDLM/lesson/pali/reading/gatha278.htm

日本語では通常以下のように訳されています。
「一切の物事は苦しみである(一切皆苦)と明らかな知慧をもって観るときに、
 ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。」
http://seijyaku.fc2web.com/hou.htm

通常の解釈の何もかも一切が苦であると解釈すると、
「一切皆苦であると悟れば苦から離れる」となり、おかしな話になります。
一切皆苦ならそれを悟れば一層苦の認識が強まるだけで、
苦しみから離れることなど不可能だからです。

再び一切皆苦の部分 sabbe(全ての) savkhara(サンカーラは) dukkha(苦である) の
savkhara(サンカーラ)に注目すると、一切なにもかもが苦だとは言っておらず、
サンカーラ、つまり記憶やパターンやエゴが苦だと言っています。

つまり本来は以下の意味を言っていたのだ考えられます。

「潜在意識の残存印象、経験の蓄積によって条件付けられた全てのパターン、
 すなわち全ての記憶やエゴというものは苦である。
 このことを明らかな智恵をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。
 これこそ人が清らかになる道である。」

これならばやはり意味は明快です。

「サンカーラ、つまり全ての記憶やパターンやエゴというのは苦であり、
 それらが不要であると理解すれば、
 苦しみから遠ざかり離れることができる。
 これこそ人が清らかになる道である。」

もう一つ大事なのは、「全ての」サンカーラが苦であると言っている点です。
つまり、良いサンカーラ、カルマは無いのです。

これはクリシュナムルティの理解とも一致します。
クリシュナムルティはこう言っています。
「論理的記憶というものは必要である。
 しかし心理的記憶というものは過去への執着であり、
 また新鮮さと神秘を失わせ苦しみをもたらすもので不要である。」

そしてこの理解こそがカルマからの真の解脱であると解釈されます。

【追記】その後より正しいと思われる解釈を見つけました。詳しくはこちらをお読みください。
一切皆苦はやっぱり間違い
一切皆苦の矛盾

シリーズ記事
諸行無常は間違い?
一切皆苦は間違い?
諸法無我は間違い?

瞑想・慈愛  |  トラックバック(0)  |  コメント(8)  |  ↑Top

Comment

一切皆苦の真意。

こんにちは。初めてコメントさせて頂きます。

釈迦は、多くの人々を、「有為(サムサーラ)」から
「無為(ニルヴァーナ)」へと導く手段として、「苦」を利用しました。

つまり、苦しみと、苦しみを生起させる原因・要因への正確な認識をさせ、
そして、それらを厭わせ、それらから離脱させる、というプロセス。
これは、一般的には、「苦・集・滅・道(四諦)」と呼ばれています。

貴方は、行(サンカーラ)を、五蘊の中の一つである「潜在的形成力」と
理解することの方が正しいのではないかと述べられていますが、
私は、逆にその解釈は誤りであると考えます。

何故ならば、そのように理解してしまうと、無為への到達は不可能だからです。

--------------------------------------------------------------------------
一切の形成されたものは無常である(諸行無常)と明らかな知慧をもって観るときに、 
ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
--------------------------------------------------------------------------

一切の形成されたものが、何故、無常(転変してしまう)なのかと言えば、
それは「縁起(相互依存関係)」によって生滅を繰り返しているからです。
お互いが、絶えず変化するような不安定なモノに依存して成立しているが故に、
それらに依存し続けている限り、苦苦・行苦・壊苦の苦しみを味わうのです。

釈迦は、「一切」という説明を、一切経の中で次のように言っています。

------------------------------------------------------------------------------
それは、眼と眼に見えるもの、耳と耳に聞こえるもの、鼻と鼻ににおうもの、
舌と舌に味わわれるもの、身体と身体に接触されるもの、心と心の作用、のことである。
------------------------------------------------------------------------------

つまり、六処とそれに対応した世界の全てが「一切」である、と言っているのです。
そして、これら全てが「無常」なるが故に、それらに依存(執着)してしまうと、
苦を生起させてしまう原因・要因となってしまうのです。

これらの正しい認識が、その人に真に発現したとき、その人の心の中に初めて、
有為の世界からの「厭離・遠離」と「離貪・離脱」のベクトルが生まれるのです。

釈迦の初めての弟子たち(五比丘)の中で、最初に悟りを得たと言われているのが
アンニャータ・コーンダンニャですが、その悟りを得た瞬間に述べた言葉が、

-----------------------------------------------------------------------------
――世尊はこのように言われた。
五人の修行者の群れは歓喜し、世尊の説かれたことを喜んだ。
そしてこの<決まりのことば>が述べられたときに、
尊者コーンダンニャに、塵なく汚れなき真理を見る眼が生じた。
――『およそ生起する性あるものは、すべて滅び去る性有るものである』と。
------------------------------------------------------------------------------

> およそ生起する性あるものは、すべて滅び去る性有るものである

そして、この理(ことわり)こそが、全ての苦しみの根本原因なのだ、と
コーンダンニャはこの時に、完全に認識し理解できたのです。

つまりこれが、「一切皆苦」の意味(真意)と結びつくのです。

--------------------------------------------------------------------------------
そのとき世尊はこのような<感嘆のことば>を発せられた、――
『ああ、コーンダンニャはさとったのだ! ああ、コーンダンニャはさとったのだ!」と。
それゆえに尊者コーンダンニャをば<さとったコーンダンニャ>と名づけるようになった。
さて尊者コーンダンニャは、すでに真理を見、真理を得、真理を知り、真理に没入し、
疑いを超え、惑いを去り、確信を得て、師の教えのうちにあって、
他の人にたよることのない境地にあったので、世尊にこのように言った、――
『尊い方よ。わたくしは世尊のもとで出家したく存じます。
わたくしは完全な戒律を受けたく存じます』と。
世尊は言った、『来たれ、修行僧よ。真理はよく説かれた。
正しく苦しみを終滅させるために、清らかな行いを行なえ』と。
これがかの尊者の受戒であった。
----------------------------------------------------------------------------------

釈迦が、何故「苦しみ」を説いたかと言えば、苦しみこそが、
その対象(苦の因となる、依存を引き起こす依処)から離脱させることの出来る、
最も優れたベクトルを持つ心理的なエネルギーだからです。

そこに焦点を当てて、意識に固定させる。
その時に、有為からの離脱が起きて、無為へと至る道が開けるのです。
和井 恵 |  2009年04月06日(月) 13:31 |   |  コメント編集

解説ありがとうございます

和井 恵さん、詳しい解説ありがとうございます。

そういう解釈も当然成り立つと思います。
ブッダは対機説法を使っているので、
そういう意味で使っている場合もあるでしょう。

しかしダンマパダでは明らかに、サンカーラが苦であると言っています。
また一切皆苦であれば、それを悟れば苦は増すばかりなので、
やはり方便だと思います。

実際には無苦集滅道の方が真理に近いと思います。
たぶんこれも方便ですが。詳しくは次回に書きます。
CyberBaba |  2009年04月07日(火) 12:18 |   |  コメント編集

Re.

> また一切皆苦であれば、それを悟れば苦は増すばかりなので

いいえ、一切(六処とその対象世界)が皆苦であると如実に知ること、
これがそのまま四諦の「苦・集」に対応し、そこから正見解と正思惟が生まれ、
「滅(無為・ニルヴァーナ)と滅に至る道」が開けて来るのです。

勿論、一切皆苦という見解は、彼の岸に至るための筏(いかだ)であり、
河(激流)を渡り切るための手段(道具)なのです。
ですから、目的地へ到達すれば、それ以上使う必要の無くなるモノなので、
その意味では、一時的な方便だと言うことも出来るでしょう。

> 実際には無苦集滅道の方が真理に近いと思います。
> たぶんこれも方便ですが。詳しくは次回に書きます。

それは、とても楽しみですね。
これからの、ますますの活躍を期待しております。


和井 恵 |  2009年04月07日(火) 13:20 |   |  コメント編集

ありがとうございます

今後ともよろしくお願いいたします。
CyberBaba |  2009年04月07日(火) 13:26 |   |  コメント編集

記憶やパターン

まあ性=指向性=仏に向けば=仏性

奈良康明先生だったか?仏性とは何か?突き詰めてゆけば悟りという方向性、指向性が自ずと解るし、一切と言った場合の定義は「なんでもかんでも」「味噌もクソも」と言う意味ではないのですね。

一つの言葉を大事に突き詰めれば「悟る」のですね。

なにもかもじゃあ仏性があるか?といえばそうですけど、全部悟れるはずがなく、他力でも至心信楽とかいいますけど本当の信心は得がたいものです

簡単に言えば「解脱」は「知見」によるとよくウチノ東洋大学の先生方は言っていました。知見して始めて=悟りだということ、御釈迦さんも「菩提樹」ではなく「初転法輪=サルナート」が重要なのですね。


貴方は仏典を訳すのが美味いですね。素晴らしいと思います。
青野信 |  2009年04月19日(日) 03:09 |   |  コメント編集

ありがとうございます

一切皆苦はいろいろな解釈されていますね。
人によって様々に語っています。
どれも文脈によっては間違ってはいないでしょう。
ダンマパダではサンカーラと言っていますが。

解脱が知見によるというのは正しいでしょう。
仏教ではヴィパッサナーによる智慧を重視し、
それは上座部だけでなく、般若心経でも言っていますから。
CyberBaba |  2009年04月19日(日) 08:44 |   |  コメント編集

No title

結局、頭であれこれ考えて述べているだけでは??

お釈迦様は悟りの境地にまで到り、2500年経っても説いた真理を覆した人はいません。
あなたが、その人になりますか??

あれこれうんちく述べて、水掛け論の域を出ないことに精を出すより、まずは、少しでもお釈迦様の境地に近づけるよう精進するのが正しく、答えが出る方法だと思います。

捨置答
 |  2012年03月20日(火) 20:50 |   |  コメント編集

解決済みです

ずいぶんと昔の記事にコメントありがとうございます。

もうとっくの昔の解決してますので心配ご無用です。

まだこだわっているの私ではなくあなたです。

どうぞご精進ください。
CyberBaba |  2012年03月21日(水) 17:11 |   |  コメント編集

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