QLOOKアクセス解析

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

スポンサー広告  |  ↑Top

2009/04/08 (Wed) 21:00

諸法無我は間違い?

前々回、前回の諸行無常は間違い?一切皆苦は間違い?で、
諸行無常と一切皆苦の解釈は、おそらく本来のブッダの意図とは違うと解説しましたが、
今回はシリーズ最終回の諸法無我についてです。

諸法無我は通常、人間としての我は存在しないと解釈されていますが、
この解釈は主語である諸法の部分を完全に無視しています。

我というのは存在しないというのは究極的には正しいと、
クリシュナムルティもオショー(ラジニーシ)も言っていますが、
この文脈ではそこまでは言っていません。

原文にあたってみましょう。(ダンマパダ279)
sabbe dhamma anatta ti yada pabbaya passati
atha nibbindati dukkhe esa maggo visuddhiya
http://ccbs.ntu.edu.tw/BDLM/lesson/pali/reading/gatha279.htm

日本語ではこういう訳もあります。
「一切の事物は我ならざるものである(諸法非我)と明らかな知慧をもって観るときに、
 ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。」
http://seijyaku.fc2web.com/hou.htm

これならまだ分かりますがこの訳でも、人間としての我が存在しない、
とまでは言っていません。

諸法無我の部分に注目してみましょう。
sabbe(全ての) dhamma(法は) anatta(魂、自己がない)

dhamma とは宗教・教え・法則の意味で、事物という意味ではありません。
anatta とは attan(魂、自己)の否定語で、それ自体単独で存在しないという意味です。

つまりここでの諸法無我は、以下のように解釈されます。
「全てのダンマ(法・宗教・教え・法則・教義・ドグマ)というものは、
 それ自体単独で存在してはおらず、真理そのものではない。
 (つまり方便であり月を指す指であり月そのものではない。)
 このことを明らかな智恵をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。
 これこそ人が清らかになる道である。」

こう解釈するのがここでは正しいと考えられます。
仏教用語で言えば、般若心経の諸法空相の方がより近い訳でしょう。

振り返ってみると、諸行無常、一切皆苦、諸法無我に縛られて、
そのために苦しんでいる人がいかに多いかが分かります。
今までのシリーズを読んで、正しい解釈を知った瞬間に苦しみを離れた人も多いと思います。
以上でこのシリーズを終了します。


シリーズ記事
諸行無常は間違い?
一切皆苦は間違い?
諸法無我は間違い?

瞑想・慈愛  |  トラックバック(0)  |  コメント(15)  |  ↑Top

Comment

ありがとうございます

今回のシリーズ、本当に勉強になりました。

ありがとうございました!
いつも拝見しております |  2009年04月09日(木) 19:10 |   |  コメント編集

こちらこそありがとうございます

いつも読んでいただきありがとうございます。

今後ともご愛読よろしくお願いいたします。
CyberBaba |  2009年04月09日(木) 19:18 |   |  コメント編集

No title

こんにちは、にほんブログ村でこのブログの事を知りました。

諸行無常ですが、貴方の解釈に依れば、一般の解釈と全く違ったものになり、こういう考えもあるのかと感心しました。
いかだの例えというところでしょうか。

ただ一点、正しい解釈を知った瞬間に苦しみを離れるというのはどうかと思います。苦しみを離れるのは、行いに依ってであり、知識に依るのではないと考えるからです。
こちらの受け取り方に誤りがあるかもしれませんが、いかがでしょうか。

とはいえ、色々な人の考えを知るのは面白く、刺激になりますので、これからも参考にさせていただきたいと思います。




20097 |  2009年06月20日(土) 14:51 |   |  コメント編集

ありがとうございます

20097さん

コメントありがとうございます。

諸行無常は筏の例えだと思います。

> ただ一点、正しい解釈を知った瞬間に苦しみを離れるというのはどうかと思います。苦しみを離れるのは、行いに依ってであり、知識に依るのではないと考えるからです。
> こちらの受け取り方に誤りがあるかもしれませんが、いかがでしょうか。

行いによって苦しみを離れるというのは正しいと思います。
しかし、理解によって苦しみを離れることもあります。
人間の苦しみとは、自分あるいは他人が作り出した
思考・概念によって生じることもあるからです。
その苦しみを生み出している思考・概念が打破されたときに、
苦から離れることもありうると思います。
実際私はこのダンマパダの原文を当たるまでは、
無常、苦、無我は絶対だと思い込んでいて、
それが理解できないことに苦しんでいました。
しかし原文を当たってみて、なんだ、そういうことなのか、とほっとしました。
もちろんそれで全ての苦がなくなるわけではなく、行いも大事ですが、
そういうこともあるというこです。
CyberBaba |  2009年06月21日(日) 01:15 |   |  コメント編集

No title

ご説明ありがとうございます。

始めに、間違って書いてしまったところを訂正したいと思います。諸行無常ではなく諸法無我でした。

理解によって苦しみを離れるというのはその通りですね。しかし、それはあくまで根の浅いものではないでしょうか。

勉強になりました。これからもがんばってください。
20097 |  2009年06月21日(日) 21:04 |   |  コメント編集

ご声援ありがとうございます

> 理解によって苦しみを離れるというのはその通りですね。しかし、それはあくまで根の浅いものではないでしょうか。

理解によって苦しみを離れるというのは、実は大事なことなのです。
行いによって苦しみを離れるというのも大事ですが、
理解によって苦しみを離れるということも非常に大事です。

過去記事のこのあたりをご参照いただければ幸いです。
「悟りとは何か?」
http://cyberbaba.blog57.fc2.com/blog-entry-55.html
「仏教の語源」
http://cyberbaba.blog57.fc2.com/blog-entry-68.html

行いによって苦しみを離れることについては以下をご参照ください。
「カルマヨーガ」
http://cyberbaba.blog57.fc2.com/blog-entry-47.html
「諸行無常は間違い?」の最後の部分
http://cyberbaba.blog57.fc2.com/blog-entry-48.html

今後ともよろしくお願いいたします。
CyberBaba |  2009年06月21日(日) 22:15 |   |  コメント編集

涅槃寂静はまちがい?

 サイババ様、はじめまして。

 和井恵様のサイトからこちらに来ました。諸行無常、一切快苦、諸法無我の解説、よくわかりました。わたしも今のところ、そのような解釈で仏教を勉強しています。なんだかホッとする考え方です。ところで「涅槃寂静は間違い?」はないのですか。

 アンベードカル「ブッダとそのダンマ」にピッタリの記述がありましたので、少し長くなりますが、引用させていただきます。

----------------------------------------------

ブッダは涅槃に優る幸せはない、と言った。ブッダの教えの中でもこの涅槃教義がもっとも中心的である。

 では涅槃とは何か? ブッダの説いた涅槃は彼の先人たちのそれとは全く違った意味と内容を持っている。

 先人たちによる涅槃は魂の救済を意味する。この涅槃(解脱)には、現世的(物質的、飲食、快楽)、ヨーガ的、ブラフマン的、ウパニシャッド的な四つの道がある。後二者は魂をひとつの実体として捉えるが故にブッダはこれを拒けた。現世主義的方法は人間本能を満足させれば事足りるとする享楽主義にすぎず、このような道を受け入れることは人間にとって大きな過ちとなり、真の幸福をもたらさずかえって不幸を積み重ねるだけであるとした。ヨーガ的方法は一時的なものであり、ヨーガを行っている間だけの法悦で永遠のものではないと考えた。

 ブッダの涅槃はこれらと全く異なったものである。ブッダの涅槃には三つの思想がある。第一は魂の救済ではなく知覚的存在(人間)の幸せである。第二は、生きている間に見出しうる輪廻的知覚的存在の幸せである。しかし死後の魂とその救済という考えはブッダの涅槃思想と全く相容れない。第三は、常に燃えている情念の焔を統御するという思想である。情念は燃え熾る火のようなものだという考えはブッダがガヤーにおいてビクたちに与えた教説に見えている。彼はこう言っている。

 「おおビクたちよ、総てのものは燃えている。燃えているこれら総てのものとは何なのか? 眼も形も視野も眼で見た印象もいかなる感情、快、不快、無関心もそれが得た印象に基づいて生じ、燃えている。何によってそれは燃えているのか? 情念、憎しみ、逆上、誕生、老い、死、悲しみ、嘆き、惨めさ、絶望によって燃えている。耳、鼻、舌、身体、想念の総ても心による印象に基づく。総ての感情は燃えている。学識有る高潔な人間はこのことを知り厭悪する。この厭悪感によって彼は情念から離脱し自由になり、自由になった時、自分が自由であることを自覚する」

 では涅槃はどのように人を幸せにするのか? 一般には人は何かに不足しているから不幸なのだといわれるが必ずしも本当ではない。充ち足りていても不幸な者もいるのだ。貪欲は持てる者、持たざる者にとっても有害であり、不幸の元である。このことをブッダはビクたちにこのように説いた。

 「貪欲に駆られ、怒り猛り、迷妄によって盲となり、くじかれ、囚われた心によって人は己の、他人の不幸を色々と考え、精神的苦痛や悩みを味わう。しかし、貪欲、怒り、迷妄がなくなれば、己の不運、精神的苦痛や悩みをくよくよ考えることはなくなる。だから兄弟たちよ、涅槃は現世において実現できるものであり彼岸においてだけではない。賢明なわが弟子たちには心を引きつける魅力的で到達可能な世界なのだ」

 ブッダは涅槃への道を邪魔する情念を三つに分類している。第一は、情欲、逆上、貪欲といった凡そ一切の欲念、執着に関するものであり、第二は、憎悪、怒り、苛立ちといった一切の反感の類。第三は、迷妄、愚鈍、愚かさといった一切の無知の類である。第一と第二は感情と他人に対する人間の態度や感じ方全体関するものであり、第三は真実ならざる一切の考えに関するものである。

 ブッダの涅槃思想については幾つかの誤解がある。涅槃は語源的には火が消える、消すという意味である。この語源的意味をつかまえて、ある者はブッダの涅槃論を無意味化しようとした。彼らの涅槃は死と同義語に等しい、一切の人間的感情の消滅を意味するとした。しかし燃える火の譬を良く考察すれば、それがブッダのいう涅槃の意味でないことは明らかである。火の垂訓は、生命は燃えており、死は消滅であるといっているのではなく、情念が燃えているといっているのだ。情念は完全に消してしまわなくてはならぬといっているのではなく、焔に油を注ぐなといっているのだ。

 第二にニルバーナ(涅槃)とパリニルバーナ(完全な涅槃)とを区別していない。ウダーナの詩句の中で語られているように、「完全な涅槃は身体が滅し、一切の知覚が停止し総ての感覚が失われ、活動が止まり意識が失くなった時に発生する」。ニルバーナの意味はこれとは全く違う。ニルバーナは人が正しい道を進めるよう情念を統御するということでありそれ以外の何ものでもない。涅槃とは正しい生活を意味するとブッダはラーダにはっきりといっている。

 ある時ラーダは釈尊にこう尋ねた。
「ニルバーナは何のためでしょうか?」
「ニルバーナは情念から自由になることだ」
「ではその目的は何でしょうか?」
「ラーダよ、ニルバーナにしっかり腰を下ろし正しい生活を営むことだ。ニルバーナはそのための目標であり目的である」

 涅槃が消滅を意味していないということをサーリプッタも次の教訓の中ではっきりいっている。

 シュラーヴァスティーのアナータピンディカ園にいた時、ブッダが退席した後、弟子たちは残ってサーリプッタに涅槃の意味を尋ねた。彼は答えていった。
「兄弟たちよ、貪欲は唾棄すべきものであり、憤懣もそうだ。この情欲と憤懣を捨て去るため我々に視る眼と知る眼を与え、安らぎと内観、覚醒とニルバーナへと導いてくれる”中道”の教えがある。中道とは即ち正しく視、正しく思念し、正しく語り、正しく行い、正しく暮らし、正しく努力し、正しく心を配り、正しく集中、瞑想する”八正道”である。
 怒り、悪意、妬み、嫉妬、吝嗇、貪欲、偽善、欺瞞、放慢、得意、怠情は総て厭悪すべきものだ。これらを捨て去るために中道があり、それは我々に視る眼、知る眼を与え、安らぎと内観、覚醒へと導いてくれる。ニルバーナは高貴な八正道以外の何ものでもない」

 全くの絶滅も完全な涅槃もそれぞれ極端であり涅槃は中道である。このように解すれば涅槃にまつわる総ての混乱もなくなるであろう。

--------------------------------------------

 鈴木隆泰氏も「仏教史の謎を巡って」という論文で同じような解釈をしておられます。

---------------------------------------------

 「滅」と訳したことばの原語は「ニローダ nirodha」という。漢語で「滅」という場合、「消える、滅びる」というニュアンスが強いが、インド語(パーリ語、サンスクリット語)のニローダは「制御する、抑制する、コントロールする」の意であり、「消滅する」を第一義としない。したがって、無明を滅するということは、無明を無くしてしまうということではなく、無明を制御すること、すなわち、無明のコントロールを指すということになる。

 人間が本来的に抱えている自己中心性を消滅させることはほとんど不可能であろう。ただし、不可能だからといって自己中心性を野放しにしておくと、それは際限なく働き出し、結局は当の本人を苦に陥れてしまう。仏教が提唱しているのは、自己中心性の消滅ではなく、自己中心性が際限なく働きだすことのないように、きちんとコントロールし続けていく態度・生き方だったのである。

-----------------------------------------------

 ほとんどアンベードカルの考え方と同じです。なんだか納得でき、ホッとしませんか。
KIM |  2010年04月09日(金) 11:09 |   |  コメント編集

Re: 涅槃寂静はまちがい?

KIMさん

はじめまして、ご来訪ありがとうございます。

タイトルを見たとき、涅槃寂静も間違いなのかな?と思いそうならどうしようと思いましたが、涅槃寂静はまちがいであるというコメントではなかったのでほっとしました。

諸行無常、一切皆苦、諸法無我はダンマパダの277~279に出てきて、特にテーラワーダ仏教ではこの3つを悟ることが悟りであり、阿羅漢だという言い方をされます。しかし四法印のもう一つである涅槃寂静は、ダンマパダのこの部分にはありませんし、テーラワーダ仏教でも特に強調されることはありません。涅槃寂静は仏教の根本で当たり前だとされているようで、私もそう思っていました。

あらためて「涅槃寂静はまちがい?」と問われるとちょっとびっくりしますね。私も引用いただいた解説とほぼ同意見で、涅槃寂静はまちがいではないと思います。ただ気になったのは、ニローダは「制御する、抑制する、コントロールする」の意味が第一義で「消滅する」ではないという部分です。コントロールしているうちは貪瞋癡はまだ存在している訳で、悟れば貪瞋癡は完全に消滅するのではないかと思います。つまり貪欲をコントロールするのではなく貪欲自体が存在しない、怒りをコントロールするのではなく怒り自体がそんざいしない、無知をコントロールするのではなく無知自体が存在しないのではないかと思います。
(貪欲と無知に関しての私の見解は以下をご参照いただければ幸いです。
 欲求と欲望 http://cyberbaba.blog57.fc2.com/blog-entry-23.html
 痴(無知)とは何か? http://cyberbaba.blog57.fc2.com/blog-entry-125.html

しかしまあどちらにしろ涅槃寂静はまちがいではないと思います。これが間違っていたら仏教全部がほとんど間違いになってしまうとおもいます。

ありがとうございました、またぜひご来訪ください。
今後ともよろしくお願いいたします。
CyberBaba |  2010年04月10日(土) 21:37 |   |  コメント編集

お礼

 サイババ様、コメントありがとうございます。

 最近あるサイトで、知識をいろいろ持っても仏教はわからない、般若の智慧を体得しないと机上の空論に過ぎない、と指摘されています。その人は瞑想を指しているでもないようなのですが、瞑想も仏教実践上重要な位置を占めているのも確かなように思えます。

 わたしは瞑想、と聞くと拒否反応を示してしまうタイプのようなのですが、サイババ様は瞑想が得意のようなので、このサイトで瞑想入門させていただこうかな、と考えています。わからないことがあったら書き込みしますので、よろしくお願いいたします。
KIM |  2010年04月11日(日) 21:10 |   |  コメント編集

どういたしまして

KIMさん

コメントありがとうございます。

机上の空論ではわからないというか、実感・実践が難しい部分があります。
例えば人間の本質は空だと言われて、そうかとは思っても実感できない。
また怒りが良くないのは簡単には理解できますが、やっぱり怒ってしまう。

それらを実感し実践するには、自分の心を安定させて自分を知る必要があります。
つまりそれが瞑想です。

このブログでは難しいことは何も言っていません。
瞑想についての基本的な知識だけを提供しています。
自分で言うのもなんですが、入門にはうってつけだと思いますし、
そのように心がけて書いています。
ここに書いてあることだけ知っていれば、
後はご自分で探求するなり師を探すなりできるようになっています。
是非ご活用ください。

瞑想・慈愛カテゴリーの目次より以下の順に読んでいくと読みやすいと思います。
http://cyberbaba.blog57.fc2.com/blog-category-3.html

先ずは基礎理論について以下を読んでいただきたいと思います。
瞑想学基礎
悟りとは何か?
ヴィパッサナーで観るもの
瞑想できているか?シリーズ

実践に入るにはこのあたりが参考になるかと思います。
ヴィパッサナーの種類
呼吸を観る瞑想シリーズ

ついでに般若心経カテゴリーを読んでいただくと、瞑想の重要性が解るとおもいます。
http://cyberbaba.blog57.fc2.com/blog-category-1.html

よろしくお願いいたします。
CyberBaba |  2010年04月12日(月) 20:26 |   |  コメント編集

再度、お礼

 度重なる丁重なコメント、ありがとうございます。
ご指摘の順で読んでみます。

 こちらこそよろしくお願いいたします。
KIM |  2010年04月12日(月) 22:37 |   |  コメント編集

No title

皆様方の対話を読ませていただき、本当にホッとしています。対話はまさに寂静の世界ですね。中道も中を取るではなく、現世をさわやかに生きる方法ということなのでしょうか。私もご案内の順で学んでゆきたいと思います。
arthur |  2010年04月21日(水) 08:21 |   |  コメント編集

ありがとうございます

arthurさん

いつもコメントありがとうございます。
おかげさまでみなさんから素晴らしいコメントをいただいております。
中道とはおっしゃるとおり中を取るではなく、バランスを取ることだと思います。
今後ともよろしくお願いいたします。
CyberBaba |  2010年04月21日(水) 15:42 |   |  コメント編集

No title

わたしも、諸法無我の通説は、意味がとれず悩んでいました。
わたしの解釈は、

諸法無我 この世の成り立ちを決めているもろもろの法則に、我つまり個人の欲望が入り込む余地は無い

諸法無我の上記の解釈も、字句どおりに素直に受け取ったものです。「諸」は、「もろもろの、いろいろの」という意味です。「法」の文字は、「のり、法律、決まり」という意味でここでは、法則、物事すべてに当てはまる決まりという意味です。「諸法」で、この世の成り立ちを決めているもろもろの法則という意味です。「無」は文字通り無いの意味です。「我」は、「われ、わたし、自分」で、ここでは心の中の勝手な思い込み、原因と結果の法則や事実を無視した思いつき、無理な願望とまで拡大してもよいかと思います。整理すると、この我とは、我がままで自分勝手な個人の欲望という意味です。全体をまとめますと、物事に当てはまる客観的な法則、例えば、一足す一は二の法則、生まれた人はみな死ぬという法則、四諦と八正道の法則、こういう普遍の法則は、我がままで自分勝手な個人の欲望とは独立して成立しているため、いくら個人の欲望から願っても変更できないという意味です。もう少し深く意味を取りますと、普遍の法則を変更しようと思っても無理だから法則、特に四諦と八正道の法則を積極的に受け入れて生きていくしか道は残されていないのだよということです。

shinx55 |  2011年11月14日(月) 03:55 |   |  コメント編集

本文の解釈はおそらく間違いです

shinx55さん

コメントありがとうございます。返信遅くなりすみません。

確かにそういう解釈も成り立ちますね。
しかしその後いろいろ検討したところ、ダンマパダでは「諸法無我」ですが、増支部三集では「一切諸行は無常なり。一切諸行は苦なり。一切諸行は無我なり。」で、「諸行無我」という表現もあるようです。この表現より、この3つ(三相)をセットで考えると本文の解釈はおそらく間違っていると考えられます。訂正をしようかとも思いましたが、間違いを揉み消すようでそれもよろしくないので放っておきました。

詳しくはこちらをご参照ください。3つセットになっている理由がはっきりします。おそらくこちらが正解です。

「一切皆苦はやっぱり間違い」
http://cyberbaba.blog57.fc2.com/blog-entry-182.html

ただ、いろいろな解釈があっても、それで修行が進めばそれはそれで良いわけで、あまり正誤にこだわる必要もないかなと、最近は思っています。
CyberBaba |  2011年11月18日(金) 14:05 |   |  コメント編集

コメントを投稿する


 管理者だけに表示  (非公開コメント投稿可能)

▲TOP

Trackback

この記事のトラックバックURL

→http://cyberbaba.blog57.fc2.com/tb.php/50-134db522

この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

この記事へのトラックバック

▲TOP

 | HOME | 
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。