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2009/05/16 (Sat) 21:00

サマーディは覚りに必須か?

サマーディ(三昧、禅定)とは思考も感情もほとんど、または全く無い状態で、
また非常に高い境地ではあるが、覚り(大悟)ではないことを解説してきましたが、
ではサマーディは覚りに必須かという問題についてです。

いままでの研究調査による結論は以下になります。
覚るためにはサマーディに達していたほうが望ましいが、必須とはいえない。

以前悟りとは何か?で解説したように覚り(大悟)とは、
自己というものは本質的には存在しないと実感として理解し、
全ての苦しみから離れることです。

これを理解するためには、思考も感情も無い状態は必ずしも必要ではありません。
サマーディの体験無く覚った人を、仏教用語では乾観行者と呼びます。
乾観とはサマーディの潤いを知らずに、
観の瞑想(ヴィパッサナー瞑想)だけで覚ったためです。

しかし現実問題としては、
サマーディに達した方が覚れる可能性が高いというのが通論のようです。

なぜならば、精神統一され思考も感情も無い状態から、
そこからわずかに生じた心を精密に観察すると、
自己が存在するという錯覚が生じる過程がよく解り、
それによって覚れるからです。

しかし、サマーディを達成することも簡単ではありません。
サマーディ経由で覚りを目指すか、サマーディを経由しないで覚りを目指すか、
どちらが近道かについては異論がたくさんあります。

人によって向き不向きもあるでしょうから、
信頼できる指導者の判断に頼るか、
サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想の両方を、
真剣に何度もやってみるしかないでしょう。
勘や知識だけで簡単にどちらが良いかを勝手に判断するのは禁物だと考えられます。

以上でサマーディシリーズいったん終了です。

シリーズ記事
サマーディについての誤解
サマーディの達成の判定方法(五自在)
サマーディで残る心(五禅支)
サマーディは覚りに必須か?

関連記事
瞑想学基礎
悟りとは何か?

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 |  2009年10月22日(木) 13:23 |   |  コメント編集

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