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2009/08/08 (Sat) 21:00

全ての瞑想は無意味である

全てのメソッドは無意味である。
いわゆる瞑想にも全く意味はない。
方法などなにも存在しない。
あなたがやるべきこと、それはただ観ることだけだ。
クリシュナムルティの言葉を要約)

いままで瞑想法、いわゆるメソッド・テクニックについていろいろ書いてきましたが、
筆者は実はこのクリシュナムルティの言葉が真実だと思っています。
いわゆる瞑想法は「観る」ための準備・練習でしかないというのが筆者の考えです。

筆者がバンガロールのクリシュナムルティの学校に立ち寄ったときのことです。
筆者はこの言葉を、なるほど、と思いさて真剣に観てみようとしたのですが、
そのとき思ったのは How、つまりどうやって観るかということでした。
この How こそクリシュナムルティが否定していることだったのです。
方法など存在しない、それは分かった、でもどうやって?
同じ所を考えがぐるぐる巡りました。

その時、やはりゲストとして来ていた人が、
ゴエンカのヴィパッサナーを紹介してくれたのです。
そのときは瞑想そのものより、沈黙行に惹かれました。
でも行ってみたくなり、学校の先生に相談すると、
やりたいことはなんでもやってみた方が良いと賛成してくれました。
そうしてメソッドを否定しつつ、10日間の合宿へ参加しました。

結果、役に立ちました。
自己観察が以前よりできるようになったのです。
その後他にもいくつか瞑想法を学びました。
ほとんど全て役に立ちました。
しかし、究極的にはやはり全てのメソッドは無意味でしょう。

最後にオショウの言葉の要約です。

私はクリシュナムルティが正しいことを知っている。
しかしそれはあなた方には役に立たない。
あなた方はただ観るということができなので、方法が必要だ。
そのために私は方便として様々な瞑想法を考案した。



関連記事
真の瞑想は人間関係の中にある
クリシュナムルティの瞑想

瞑想・慈愛  |  トラックバック(0)  |  コメント(22)  |  ↑Top

Comment

No title

無意味といことをじっくり考える必要を感じました。
意味とは何でしょう?意味とはある種傲慢や逃避かも知れません。これは私個人の問題ですが。そう捉えると無意味という意味が真の意味で輝く気がします。道元禅師も瞑想を無所得・無所悟と言い切ります。私は物質的にも精神的にも得るものは何もないという意味に感じています。そうかも知れませんね!でも意味があろうがなかろうが静かに座りたい時があるのも確かですね!!
ウタカタ |  2009年09月14日(月) 21:57 |   |  コメント編集

No title

ウタカタさん

ありがとうございます。
難しいですね。
じっくり味あわせていただきます。
CyberBaba |  2009年09月15日(火) 06:54 |   |  コメント編集

No title

私 理解が足りなかった感があります。瞑想に打ち込んだ人、特に色々な方法を試した人にしか理解できないかも知れません!
退散です。

ウタカタ |  2009年09月15日(火) 22:10 |   |  コメント編集

実はシンプルです

いえいえ、本文で言っていることは実はもっとシンプルです。

観察して理解する、これは赤ん坊が初めて行う行為の一つです。
そういう風にシンプルに自分を観ていればなにも技法は必要ない、
そんな感じの意味です。
CyberBaba |  2009年09月16日(水) 08:58 |   |  コメント編集

無意味について

おはようございます!
なるほどそうですね。それにしても 無意味 と思い切って使っていますね。否定しているようで肯定的なのですね?
ウタカタ |  2009年09月17日(木) 07:49 |   |  コメント編集

Re: 無意味について

いつもありがとうございます。

「いわゆる」瞑想が無意味ということです。
座って目を瞑っていて平和でも、日常が混乱していては意味がないです。
日常生活を重視しましょうという意味でもあります。
CyberBaba |  2009年09月18日(金) 14:52 |   |  コメント編集

No title

こんばんわ!

たしかに瞑想には危険な要素があります。壁を造り、殻に閉じこもり上から目線になり・・・。しかも自分ではそれが分からない!
逃避であったり傲慢であったりします。

いつも心に留める必要がありますね。厳しい言葉ですね。
瞑想のことばを宗教に置き換えても通じますね。宗教もいわばメソッドと思いますが?

 
ウタカタ |  2009年09月20日(日) 20:44 |   |  コメント編集

返信おそくなりすみません

こんばんは、返信おそくなりすみません。

瞑想や宗教の危険な要素はおっしゃるとおりだとおもいます。
瞑想の危険性についてはいずれ書く予定です。
CyberBaba |  2009年09月25日(金) 18:09 |   |  コメント編集

コメントありがとうございました!!

ここまで瞑想に関して特に無意味いう切り口で 色々勉強になりました。私個人はこれを通じて無意味という言葉自体の意味性を認識しました。
とても勉強になりました。
ありがとうございました。(この項もうコメントは結構ですよ。)

クリシュナムルティも読んだ事がなかったので今後の課題だなと認識しました。

瞑想の危険性 お待ちしています。
ウタカタ |  2009年09月26日(土) 18:08 |   |  コメント編集

瞑想について

こんばんは、少し質問です。

1.ヴィパッサナー瞑想にも種々あり、日常・非日常の連続性を重視した瞑想があること(例えば、タイ式の手動瞑想)をご存知ですか?
2.瞑想には、大きく分けてサマト・サマディ(集中を養成する)とヴィパッサナー(観察)とがあり、瞑想の危険性は前者にあり、クリシュナムルティが無意味と言ったのも前者の瞑想を指しているのではないでしょうか?
3.赤ん坊の認識の仕方を我々大人は出来ないからこそ、メソッドに頼らざるを得ないのではないでしょうか?

クリシュナムルティは、メソッドなしに観ることが出来ていたというなら、まさに彼は聖者であります。しかしそれは一般的ではない、そんな話は役に立たないとOSHOも言ってますね。
ルネ |  2009年12月29日(火) 00:42 |   |  コメント編集

Re: 瞑想について

ルネさん

はじめまして、コメントありがとうございます!

> 1.ヴィパッサナー瞑想にも種々あり、日常・非日常の連続性を重視した瞑想があること(例えば、タイ式の手動瞑想)をご存知ですか?

はい、タイ式の手動瞑想は知りませんが、
ヴィパッサナーにたくさんの種類があることは存じております。
詳しくはこちらをお読みください。
「ヴィパッサナーの種類」
http://cyberbaba.blog57.fc2.com/blog-entry-75.html

> 2.瞑想には、大きく分けてサマト・サマディ(集中を養成する)とヴィパッサナー(観察)とがあり、瞑想の危険性は前者にあり、クリシュナムルティが無意味と言ったのも前者の瞑想を指しているのではないでしょうか?

クリシュナムルティの場合は、サマタ・サマディー瞑想を初めから瞑想とみなしていません。
例えば、「瞑想とは集中ではない、ただ観るだけだ」とか、
表現はいろいろですが、ただ観ることだけを瞑想と呼んでいると思われます。
つまり、純粋なヴィパッサナーだけを瞑想と呼んでいると思われます。

クリシュナムルティがあらゆる瞑想は無意味と言う場合は、
文脈からして、すべての「テクニック」というものを否定していると読めます。
ただ観るだけ、それ以外の「いわゆる」瞑想はすべて否定しているように読めます。

> 3.赤ん坊の認識の仕方を我々大人は出来ないからこそ、メソッドに頼らざるを得ないのではないでしょうか?

はい、おっしゃるとおりです。
私自身本文にも書いたように、「ではどうやって観るのか?」という疑問を抱き、
いろいろな瞑想を体験しました。
結果どれも役に立ち、観察力を高めることができました。
しかし極端な言い方をすれば、どの瞑想法も練習に過ぎないと思います。
究極的にはメソッド不要というのは間違いではないと思います。

> クリシュナムルティは、メソッドなしに観ることが出来ていたというなら、まさに彼は聖者であります。しかしそれは一般的ではない、そんな話は役に立たないとOSHOも言ってますね。

そうですね、そういう話は役に立たない場合が多いでしょうね。
しかし別の脈絡ではこう言っています。
「観るということはテクニックではない。それはあなたたちの本質だ。」

つまり全体的に要約するとこうなります。
観ることはテクニック・メソッドではない。
しかしただ観ることができないのなら、
テクニック・メソッドを使って観るということを思い出しなさい。
観るということができたならば、そのとき全てのテクニック・メソッドは、
河を渡ったあとの筏のように忘れ去ってしまうだろう。
CyberBaba |  2009年12月29日(火) 21:25 |   |  コメント編集

ご回答ありがとうございます。

メソッド「不要」と「無意味」では若干意味が異なると思いますが、、、

確かに観るということができたならば、そのとき全てのテクニック・メソッドは不要となるでしょう。しかし、全てのテクニックは無意味だったのではなく意味があったのでは?ヘ理屈言ってすみません。

純粋に「観る」ことの出来たクリシュナムルティは先天的に観ることが出来たのか、それとも後天的な修練によるものなのか、どちらなのでしょうか?前者であればまさに彼は教祖足りうる存在です。
そしてなぜわざわざ瞑想を行う者に高所から突き放すように「無意味」と言ったのでしょうか?


ルネ |  2009年12月29日(火) 23:47 |   |  コメント編集

どういたしまして

ルネさん


> メソッド「不要」と「無意味」では若干意味が異なると思いますが、、、

> 確かに観るということができたならば、そのとき全てのテクニック・メソッドは不要となるでしょう。しかし、全てのテクニックは無意味だったのではなく意味があったのでは?ヘ理屈言ってすみません。

そうですね、不要と無意味では若干異なるかもしれませんね。何をもって不要または無意味かという判断基準にもよるでしょうね。

> 純粋に「観る」ことの出来たクリシュナムルティは先天的に観ることが出来たのか、それとも後天的な修練によるものなのか、どちらなのでしょうか?前者であればまさに彼は教祖足りうる存在です。

先天的か後天的か私は知りません。しかし、後天的な「修練」では純粋に観ることはできないとクリシュナムルティは言っているので、おそらく人間誰もが先天的に持っている観る能力を使って観たのでしょう。

> そしてなぜわざわざ瞑想を行う者に高所から突き放すように「無意味」と言ったのでしょうか?

クリシュナムルティが否定したのは、「いわゆる瞑想」、つまり方法やテクニックやメソッドです。瞑想そのものを否定したわけではありません。これは直接クリシュナムルティを読んでいただいた方が良いと思いますが、できる範囲でお伝えしたいと思います。

「自我の終焉」よりクリシュナムルティの言葉の抜粋をします。

「瞑想とは何でしょうか。確かに瞑想は理解することです。つまり心の瞑想とは理解することです。」
「瞑想の出発点は自己認識です。そしてこの自己認識は、思考や感情のすべての動きを凝視し、表面的な上層ばかりでなく、奥深いところに隠れている下層の活動も含めて、私のあらゆる意識を知ることなのです。」
「精神は、それ自身の活動の正確な意味を理解し、それによって精神に静寂をもたらさなければならないのです。しかし単なる訓練や強制や鍛錬によって、その静寂と沈黙を得ることはできません。」
「精神自身の活動を理解し、それを注意深く観察し、凝視し、精神の無慈悲な働きや、召使や妻や娘や母親などに対する話し方などを見つめることによってのみ、精神は静寂と平和と沈黙をもたらすことができるのです。」
「瞑想は自己認識であり、自己認識がなければ瞑想はないのです。もしあなたが絶え間なくあなたのすべての反応を凝視することもせず、またあなたの毎日の活動を注意深く見守りもしないで、ただ瞑想するために部屋に閉じ籠もって、あなたの精神的指導者や師の写真の前に座っているだけなら、それは逃避に過ぎないのです。」
「完全に凝視している人が、本当の意味で瞑想しているのです。」
「精神の全過程についての理解は、分析や内省によって生れるものではありません。」


核心に触れるご質問をいただきありがとうございました。
今後ともよろしくお願いいたします。
CyberBaba |  2009年12月30日(水) 02:00 |   |  コメント編集

感想です。

「自我の終焉」よりクリシュナムルティの言葉の抜粋をして頂きありがとうございます。
クリシュナムルティに関しては書店で立ち読み程度の知識しか持っておりませんので軽々に論ずることは出来ませんが、私なりに解釈しました。ご批評・ご批判頂ければ幸いです。

抜粋文をよく読みますと、おっしゃるように瞑想を否定しておらず、むしろ積極的に肯定しており、しかもその瞑想は、私にはヴィッパサナー瞑想を想定させます。

文面の用語は同じことを別の言葉で表現しているように思います。
瞑想≒理解≒自己認識≒観る≒注意深く観察(凝視、見つめる)≒ヴィパッサナー瞑想

>「瞑想とは何でしょうか。確かに瞑想は理解することです。つまり心の瞑想とは理解す>ることです。」
>「瞑想の出発点は自己認識です。そしてこの自己認識は、思考や感情のすべての動きを>凝視し、表面的な上層ばかりでなく、奥深いところに隠れている下層の活動も含めて、>私のあらゆる意識を知ることなのです。」
仏教は「眼耳鼻舌身意」の六門と「色声香味触法」の六種の知覚対象、計十二処の構造で認知の流れを説明していますが、無自覚的に思考に流されて行く意識全体を知ることの重要性を指しているかのようです。

>「精神は、それ自身の活動の正確な意味を理解し、それによって精神に静寂をもたらさ>なければならないのです。
>しかし単なる訓練や強制や鍛錬によって、その静寂と沈黙を得ることはできません。」
 「静寂」「沈黙」を肯定的に捉えていますが、これらは一現象に過ぎず本来は無常のはずですが、、、私のものではなく追い求めるものではないと思うのですが。

>「精神自身の活動を理解し、それを注意深く観察し、凝視し、精神の無慈悲な働きや、>召使や妻や娘や母親などに対する話し方などを見つめることによってのみ、精神は静寂>と平和と沈黙をもたらすことができるのです。」
 下線部分は、サティ(気づき)を指し、ヴィパッサナー瞑想が想定されます。

>「瞑想は自己認識であり、自己認識がなければ瞑想はないのです。
 観念(妄想)を生み出す思考の過程そのものを理解しなければ瞑想は無いとの理解です。

>もしあなたが絶え間なくあなたのすべての反応を凝視することもせず、またあなたの毎>日の活動を注意深く見守りもしないで、ただ瞑想するために部屋に閉じ籠もって、あな>たの精神的指導者や師の写真の前に座っているだけなら、それは逃避に過ぎないので
>す。」
 サマタ・サマディのネガティブな一面を語っています。

>「完全に凝視している人が、本当の意味で瞑想しているのです。」
 再びヴィパッサナー瞑想こそ本来の瞑想だと言っているようです。

>「精神の全過程についての理解は、分析や内省によって生れるものではありません。」
 思考による精神の理解は不可能であることを言ってるようです。

ヴィパッサナー瞑想という言葉は使いませんが、クリシュナムルティのいう純粋に「観る」状態は、まさにヴィパッサナー瞑想そのものではないかと思われます。
クリシュナムルティはインド人で、若い頃神智学協会で霊的修行を積んだそうですが、その時アビダルマやヴィパッサナー瞑想も修得したとしても少しもおかしくはありません。
しかし「神も何も信じない」と宣言している以上、過去自ら信じて実践したテクニックやメソッドを無意味・無価値と断ぜざるを得ないのかも知れません(筏の例で“不要”なら分かりますが)。

そして彼の考えの中核が「あるがままの全体的知覚」であるなら、これはもうブッダの教えそのものであり、むしろブッダの教えを現代風に焼き直しただけではないかと、もっと乱暴に言うならブッダの教えの剽窃者ではないかとまで思えて来ますが言い過ぎでしょうか?

ところで自我は終焉するものなのでしょうか?自我も思考も生命の一部。これがなくなった人は“死んだ人”と理解しておりますが、間違っているでしょうか?
ルネ |  2009年12月31日(木) 13:18 |   |  コメント編集

クリシュナムルティの瞑想

ルネさん

いつもありがとうございます。
これはクリシュナムルティの核心に触れているので、
できるだけ私の理解をお伝えしたいと思います。
ただし、私の理解なので、間違って伝えている可能性もあるので、
その点ご了承いただきたいと思います。

> 抜粋文をよく読みますと、おっしゃるように瞑想を否定しておらず、むしろ積極的に肯定しており、しかもその瞑想は、私にはヴィッパサナー瞑想を想定させます。

> 文面の用語は同じことを別の言葉で表現しているように思います。
> 瞑想≒理解≒自己認識≒観る≒注意深く観察(凝視、見つめる)≒ヴィパッサナー瞑想

> ヴィパッサナー瞑想という言葉は使いませんが、クリシュナムルティのいう純粋に「観る」状態は、まさにヴィパッサナー瞑想そのものではないかと思われます。

はい、純粋なヴィパッサナーについては肯定しています。
クリシュナムルティにとって瞑想とは、
純粋なヴィパッサナーだけだと言えるでしょう。
それ以外の全ての瞑想法を否定したというのが私の理解です。

では、クリシュナムルティの瞑想、
私の解釈では純粋なヴィパッサナーとは何でしょうか?
それはただ純粋に観ることだけだと言えると思います。
そこにテクニックやメソッドが入った瞬間、
過去の知識というフィルターが入り、
またただ観ること以外にも別のことをやっていることになります。
そのため、テクニックやメソッドを否定したというのが私の理解です。

ただ観るとは、幼児が何の知識も経験もなくただ観て理解する、
これと同じことで、誰でもできるはずです。

しかし、誰でもできる「はず」だというだけで、
実際問題大人には非常に難しいことでしょう。
そのために、様々なテクニックやメソッドが存在するというのが私の見解です。

しかし、テクニックはテクニックに過ぎず、
純粋に観ることを思い出すためのツールであり練習に過ぎません。
そのため、全ての瞑想法は究極的には無意味、もしくは不要というのが私の見解です。
参考記事 瞑想は幼子の直観
http://cyberbaba.blog57.fc2.com/blog-entry-72.html

以上が「クリシュナムルティの言う瞑想」であるというのが、私の理解です。


ですから、以上を踏まえた上で、
自分自身が純粋に観ることができるようになる訓練をすることは、
それはそれで意味があると思います。
ですから私はいわゆる「瞑想法」についてたくさん記事を書いているわけです。
しかし、テクニック・メソッドに捉われてしまっては、また瞑想は無意味になるでしょう。
テクニックやメソッド自体は瞑想ではありません。
あくでも瞑想「法」です。
以上が私自身の瞑想に対する見解です。


> クリシュナムルティはインド人で、若い頃神智学協会で霊的修行を積んだそうですが、その時アビダルマやヴィパッサナー瞑想も修得したとしても少しもおかしくはありません。
> しかし「神も何も信じない」と宣言している以上、過去自ら信じて実践したテクニックやメソッドを無意味・無価値と断ぜざるを得ないのかも知れません(筏の例で“不要”なら分かりますが)。

「神も何も信じない」というのも誤解があります。
クリシュナムルティは「いわゆる」神を信じないと言っているだけで、
何か神秘なる存在があることは否定していません。

以下の参考記事は私の理解ですが、
おそらくクリシュナムルティも似たような考えだと思われます。
参考記事 神の存在非存在の証明は可能か?
http://cyberbaba.blog57.fc2.com/blog-entry-91.html
参考記事 論理を超えた神秘
http://cyberbaba.blog57.fc2.com/blog-entry-63.html


> そして彼の考えの中核が「あるがままの全体的知覚」であるなら、これはもうブッダの教えそのものであり、むしろブッダの教えを現代風に焼き直しただけではないかと、もっと乱暴に言うならブッダの教えの剽窃者ではないかとまで思えて来ますが言い過ぎでしょうか?

それは言いすぎだと思います。(笑)
ブッダの教えに非常によく似ていますし、
クリシュナムルティも知識としては知っていたと思いますが、
クリシュナムルティは自分自身で発見していったと考えられます。
「自分自身で発見していく」ということは、
クリシュナムルティが常日頃から言っていることで、
これが嘘ならクリシュナムルティの全てが嘘になります。
彼が嘘をついているかいないかは、本を読めばすぐに判ります。
間違いはあるかもしれませんが、嘘はついていません。
ここに嘘があればボロがたくさん出てくるはずです。

クリシュナムルティの瞑想およびその人柄については、
こんなところでよろしいでしょうか?
CyberBaba |  2010年01月01日(金) 01:35 |   |  コメント編集

自我は終焉するものか?

> ところで自我は終焉するものなのでしょうか?自我も思考も生命の一部。これがなくなった人は“死んだ人”と理解しておりますが、間違っているでしょうか?

先ず、自我は置いておいて、思考について考えてみましょう。

思考についての個人的な見解です。
思考がなくなっても死んだ人ではありません。

気に入った音楽をただ聴いているとき、
温泉に気持ちよく入ってふーっと一息ついたとき、
こういうときには思考はありません。
しかし生きています!
それどころか生きていて良かったとさえ感じます!

思考というのはなぜ生じるかというと、本来何かしようとするからです。
それは何か自分に利益をもたらすため、言い換えれば欲、
または何か不利益を回避するため、言い換えれば恐怖から考えているのです。
そしてもう一つ、ただ習慣的に無駄に考えてる、言い換えれば無明があります。

ただ習慣的に無駄に考えているのは明らかに無駄です。
こういう思考は疲れるだけで何ももたらしはせず、
生きている証にはなりません。

欲または恐怖から起こる思考については、
欲または恐怖がなければ起こらず、
欲または恐怖があることが生きている証ではありません。

最初に述べたように、かえって思考がないときの方が至福の場合が多いのです。

しかしながら現実には思考は必要です。
それでも思考しないで済むなら、それはそれで結構なことで、
”死んだ人”ではないでしょう。


次に自我ですが、「自我の終焉」の原題を調べましたが、
"The First and Last Freedom" になっていて、
原題には「自我」という言葉は使われていませんでした。
しかし「自我の終焉」の中に「自我とは何か」という章があるので、
そこからクリシュナムルティの言葉を抜粋します。
(難しくて私もぜんぜん理解できていませんが・・・)

「私は自我を次のような意味で使います。観念、記憶、結論、経験。はっきり名づけられるものや名づけられないものを含めて。あらゆる形の意図。何かになろうとしたり、あるいはならないようにしようとする意識的な努力。無意識のうちに蓄積された記憶、民族、集団、個人、一族の別を問わず過去に蓄積された記憶。それらが行為として外部に投影されたものか、徳として精神的に投影されたものかを問わず、そのすべて。そしてこれらすべてのものを求める努力そのものが自我なのです。」

「もし「あなた」と「私」が一個人として、自我の全体の働きを知ることができるのなら、そのとき私たちは愛とは何かを知ることができるでしょう。これこそ世界を変えることができる唯一の改革であると私は確信します。愛は自我に属するものではありません。自我は愛を知ることができないのです。あなたは「私は愛している」と言います。しかし言葉や経験そのものの中に、愛はないのです。その反対にあなたが愛を知ったとき、そのとき自我は消滅するのです。愛があるるとき、自我は存在しないのです。」

これが正しいかどうかは、
「一個人として、自我の全体の働きを知る」必要があるということになるようです。
つまり純粋なヴィパッサナーです。
このレベルまで私は達していないので、正しいのかどうかなんとも言えません。
自分で確かめてみるしかないでしょう。
CyberBaba |  2010年01月01日(金) 02:33 |   |  コメント編集

ありがとうございます。

年末のお忙しい時にご回答頂きありがとうございます。
ご返事遅れまして申訳ありません。

クリシュナムルティの言う瞑想が、いわゆる「瞑想法」とは全く異なると言うことですね。よく理解出来ました。

>「神も何も信じない」というのも誤解があります。
>クリシュナムルティは「いわゆる」神を信じないと言っているだ  けで、 何か神秘なる存在があることは否定していません。
その神秘なる存在を、人によっては、一(いち)なるもの、自然、全体、天、宇宙等様ざまに表現していますが、それに対して身を任せる、祈りをささげる行為を信仰と呼んでもいいのだと思います。偶像や聖書、教会といった中間手継ぎ一切を介在させずダイレクトに神秘なる存在と共振することは否定していないと思いますが。

>以下の参考記事は私の理解ですが、
>おそらくクリシュナムルティも似たような考えだと思われます。
>参考記事 神の存在非存在の証明は可能か?
http://cyberbaba.blog57.fc2.com/blog-entry-91.html
>参考記事 論理を超えた神秘
http://cyberbaba.blog57.fc2.com/blog-entry-63.html
>参考記事2点はとても参考になりました。

クリシュナムルティの人柄については、私が浅はかでした。今後ヴィパッサナー瞑想理解のためにも読んでみたいと思います。

「思考」についてのご見解は全く同感です。
私が死んだ人と言ったのは、元々人間は生まれた時から思考回路が形成されて行く生き物と捉えたからです。だから万人に回路がありこれは生命と一体ですから、この回路が無くなることは即死を意味すると思ったまでです。しかしこの思考回路にスイッチを入れる入れないは、本人の意思、修練(瞑想)によるもので、おっしゃる通り、スイッチを入れなければ、回路はそのままですが思考が流れないだけで、人は死んだのではありませんね。
電子工学がご専門のサイババ氏には釈迦に説法となってしまい申しわけありません。

>次に自我ですが、「自我の終焉」の原題を調べましたが、
>"The First and Last Freedom" になっていて、
>原題には「自我」という言葉は使われていませんでした。
そうなんですか、有名な書籍のタイトルが"The First and Last Freedom"なんですか、、、「最初で最後の自由」ってことは「完全なる自由」ということでしょうか。

仏教では、ご存知の通り、物質も身体も心も猛スピードで変化すると捉えます。従って、「見るもの」「見られるもの」は成立しません。主体、客体の区別が無いため「私」は存在せず、私に固執する「自我」は妄想となります。単純にそう理解してます。
命があるということは、同時に意識があるということで、意識は自己同一性を主張しますから、継続的な「私」「自我」を成立させます。従って自我の終焉は死を意味すると思ったのです。
クリシュナムルティの自我の説明はものすごく難しいですね。
「あらゆる形の意図」「意識的な努力そのもの」・・・思考によって問題解決を図ろうとする意志=自己受容(あるがまま)とは対極の意志とも解釈できそうですが、、、分かりません(苦笑)。

>「もし「あなた」と「私」が一個人として、自我の全体の働きを知>ることができるのなら、そのとき私たちは愛とは何かを知るこ>とができるでしょう。これこそ世界を変えることができる唯一の>改革であると私は確信します。愛は自我に属するものではあ>りません。自我は愛を知ることができないのです。あなたは>>「私は愛している」と言います。しかし言葉や経験そのものの>中に、愛はないのです。その反対にあなたが愛を知ったとき、>そのとき自我は消滅するのです。愛があるるとき、自我は存>在しないのです。
すごく含蓄のある言葉。愛を出すことで自我が鮮明になります。しかし「愛」とは何ぞや?
この抽象度の極めて高い言葉「愛」がイメージできるクリシュナムルティはまさに覚者と言えるのではないでしょうか。

>これが正しいかどうかは、「一個人として、自我の全体の働き>を知る」必要があるということになるようです。 つまり純粋なヴ>ィパッサナーです。
 ですから凡人である私は、テクニック・メソッドとしてのヴィパッサナー瞑想を修得せざるを得ないのです。

どうもありがとうございました。
ルネ |  2010年01月02日(土) 19:24 |   |  コメント編集

こちらこそありがとうございます

ルネさん

返信遅くなり申し訳ありません。こちらこそありがとうございます。本文で書き足りない部分を書くことができ、また自分でも理解が深まりました。

クリシュナムルティの瞑想や人柄については、なんとかお伝えできたようでほっとしています。ただし私の解釈が含まれているので、間違いが含まれている可能性がありますので、直接お読みいただければ幸いです。

>>クリシュナムルティは「いわゆる」神を信じないと言っているだけで、 何か神秘なる存在があることは否定していません。
>その神秘なる存在を、人によっては、一(いち)なるもの、自然、全体、天、宇宙等様ざまに表現していますが、それに対して身を任せる、祈りをささげる行為を信仰と呼んでもいいのだと思います。偶像や聖書、教会といった中間手継ぎ一切を介在させずダイレクトに神秘なる存在と共振することは否定していないと思いますが。

はい、否定していないと思います。おっしゃるとおり、クリシュナムルティは、中間手継ぎ一切を介在させずダイレクトに神秘なる存在と共振することだけが神を知る唯一の方法だ、というようなことを言っています。


>「思考」についてのご見解は全く同感です。

ありがとうございます。喩も分かりやすく、共感いたしました。


>「最初で最後の自由」ってことは「完全なる自由」ということでしょうか。

はい、たぶんそういう意味だと思います。


自我については仏教にしてもクリシュナムルティにしても難しいですね。まだまだ修行が足りないと痛感するばかりです。


>すごく含蓄のある言葉。愛を出すことで自我が鮮明になります。しかし「愛」とは何ぞや?
>この抽象度の極めて高い言葉「愛」がイメージできるクリシュナムルティはまさに覚者と言えるのではないでしょうか。

この愛についてもクリシュナムルティは詳細に述べています。クリシュナムルティの言う愛は、またもや「いわゆる」愛ではありません。どうやら愛=無我ということのようです。「いわゆる」愛は、一種の欲望にすぎないというようなことを言っています。間違ってお伝えしないよう、正確にはどう言っているか、直接読んでいただけると幸いです。

>>これが正しいかどうかは、「一個人として、自我の全体の働きを知る」必要があるということになるようです。 つまり純粋なヴィパッサナーです。
>ですから凡人である私は、テクニック・メソッドとしてのヴィパッサナー瞑想を修得せざるを得ないのです。

ここまで理解された上で、自分に合った方法を模索されるのは何の問題もないと思います。私が本文で言いたかったのはまさにこのことで、ご理解いただき誠に感謝しております。

拙い解説にお付き合いいただきありがとうございました。
CyberBaba |  2010年01月04日(月) 00:18 |   |  コメント編集

感謝致します。

未熟ながら私なりにいろいろ整理が出来とても嬉しく存じます。

クリシュナムルティについての印象が大きく変わったことも収穫でした。

最後にお尋ねします。
クリシュナムルティの愛に関する書籍を1冊挙げるとすればどれでしょうか?

よろしくお願い致します。ありがとうございました。
ルネ |  2010年01月05日(火) 05:56 |   |  コメント編集

クリシュナムルティの愛

ルネさん

こちらこそありがとうございます。

最後のご質問ですがなかなか難しいですね^^;
私もいろいろ読み比べた訳ではありませんし、そしてなによりも、クリシュナムルティはすばりと答えを提供しないのです。

例えばこんな感じです。(引用ではなく私の創作が混じっていますが)
「では愛とは何でしょうか?一緒に探求してみましょう。愛を知るために、先ず愛ではないものから挙げていってみましょう。愛という言葉は愛ではありません。(中略)。セックスは愛ではありません。(中略)。所有欲は愛ではありません。(中略)。嫉妬は愛ではありません。(中略)。ではどういうときに愛があるのでしょうか。愛があるときには尊敬があります。(中略)。愛があるときには美があります。(後略)。」
大抵こんな感じで進んでいき、やはり自ら発見することを求めています。

にもかかわらず書籍を推薦するとすれば、1冊というのは難しいので、3冊挙げておきます。
「子供たちとの対話―考えてごらん」
「既知からの自由」
「自我の終焉―絶対自由への道」

「子供たちとの対話―考えてごらん」は大人でも読める本ですが、煙に巻かれるような気分になることは、他の本に比べて少ないと思います。

「既知からの自由」はクリシュナムルティを初めて読む人に1冊だけといえばこの本のようで、私も最初に勧められました。残念ながら絶版のようですが、Amazonで中古が入手できます。

「自我の終焉―絶対自由への道」はよくまとまっていて、私もクリシュナムルティについて調べるときは、まずこの本から調べます。著者は「J.クリシュナムーティ」になっているので、検索のときは要注意です。

クリシュナムルティが愛について言及することはそれほど多くはありませんが、読み方を変えれば愛についてしか語っていないとも言えます。上記のお勧めにかかわらず、図書館や本屋で手にとって見て、読みやすい本から読むのも良いと思います。クリシュナムルティで読みにくい本は本当に読みにくいですから。

ずばりお答えできなくて申し訳ありませんが、ご参考になれば幸いです。
CyberBaba |  2010年01月05日(火) 09:22 |   |  コメント編集

ありがとうございます

ご丁寧なガイドラインありがとうございます。

瞑想を補完する意味でも読むべきでしょう。

悪い頭で理解できるでしょうか(苦笑)。また疑問点が出てきましたらご教示下さい。

今後ともよろしくお願い致します。
ルネ |  2010年01月05日(火) 21:00 |   |  コメント編集

どういたしまして

ルネさん

お役に立てたようで良かったです。

今後ともよろしくお願いいたします。
CyberBaba |  2010年01月06日(水) 00:08 |   |  コメント編集

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