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2009/08/26 (Wed) 21:00

日本という国は存在しない

日本に限らず、国というものは本質的に存在しません。
このことを考察すると、
我というものが本質的に存在しないということの理解の助けになると思います。

国とは何でしょうか?
国土、土は国でしょうか?
国民、人間は国でしょうか?
法律、体制は国でしょうか?
文化、風習、言語は国でしょうか?

どこを探しても国というものの実体はどこにも見出すことができず、
国とは、国土、国民、体制、文化などの集合体の上に仮設(けせつ)された、
「概念」であることがあることが判ります。
さらにその構成要素である国土、国民、体制、文化なども無常で変化し、
実体として存在しないものであることが判ります。

この考察を我にあてはめてみましょう。
我とは五蘊(色受想行識)、つまり体と心のそれぞれの構成要素の集合体で、
実体としては何も存在しないことが判ります。

しかし我の場合に難しいのは、観る者、感じている者があることです。
これを通常我だと思っています。
観る者、感じている者も本質的には存在しないと実感できれば、
無我を悟れるはずです。

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Comment

No title

我というのが、概念で実体はない、というのは分かりますが、観る者、感じている者が本質的には存在しない、とすると、私が実感するこの観ている意識、感じている意識は、一体何なのでしょうか。私たちが、"我”と思っているのは、観ている"者"、感じている"者"なのでしょうか。
中島日出夫 |  2009年08月28日(金) 09:14 |   |  コメント編集

まさにそこがポイントです

中島日出夫さん

コメントありがとうございます。

まさにそこがポイントなのです。
私自身、このこの観ている意識、感じている意識が何なのか理解していません。
それを突き止めるのが現在の課題です。

ヒンドゥー教によれば、その意識がアートマンであり永遠不滅だとしています。
仏教によれば、空だとしています。
アートマンにしても空にしても全体性なので、
”我”と思っているものは「部分としては」、
固定的不変なものではないというのが両者の共通の解釈です。

観察によれば、意識というものも無常であることが解ります。
夢のない眠りや気絶したときに意識はないからです。
しかしまた意識が戻ると、失う前の意識と戻った後の意識は同じもので、
それが我だというのが通常の感覚です。

そこに錯覚があるというのがヒンドゥー教でも仏教でも言っていることですが、
私もまだ理解していません。
もしかすると教えのほうが間違っていて、
意識というのは実在するのかもしれません。
ただしその可能性は低いです。
なぜなら前述のように、意識がなくなる場合があるからです。

私も修行中なので、これくらいでご勘弁お願いいたします。
CyberBaba |  2009年08月28日(金) 17:28 |   |  コメント編集

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